夕衣には目的という目的はない。この街にきて、一念発起、何かをしようという目的はない。ライブハウスでライブをすることはこの街での目的ではなく、それはいつでも夕衣が夕衣らしくあるための行動だ。どれだけ辛いことがあったとしても、歌うことだけは決して辞めない。音楽をやるということは、夕衣のアイデンティティなのだから。
憂鬱な転入初日をやっと終えて、下校しようとしたところに莉徒が声をかけてきた。昼休み以外はほぼクラスメートに囲まれたが、一日経って放課後になってみれば、数人が部活見学の誘いや一緒に帰ろうと声をかけてきただけになった。夕衣が必要以上には喋らないことが判り、面白みにかけると判った者は早々に転入生に飽き、普段の行動に戻っていっただけだ。夕衣としてもそれは望むところだったので、寂しいと思う感覚は欠片もなかった。夕日が差し込む教室の中には四人ほどのグループが二グループと莉徒しか残っていなかった。
「帰り?」
「うん。まだ引越しの片付けとか済んでないの」
「そっか。ま、そんならいいや」
莉徒が何に誘おうとするのかは判らなかったが、部屋どころが家の中のあちこちが片付いていないのは本当のことだ。関わらない方が身のためだと判断はしたものの、やはり心苦しい部分はある。つい正当性を前面に出したくなってしまう。
「ごめんね」
(言い訳だ、これじゃ……)
「うん、じゃ」
何ごともなかったかのように莉徒は軽く手を振ると、自分の席に戻り、帰り支度をはじめた。極めて明るく、さっぱりとした態度。そういう莉徒の、恐らくは莉徒らしい態度を見せる相手は限定しているはずだ。そしてその限定した相手にも見せない、影の部分。そういうものも必ず持っている。誰が何と言おうと、絶対に人に見せない弱み。全てを自分自身で飲み込んで、吐き出そうとはしない。
「あぁそうだ、夕衣」
帰り私宅をしながら、莉徒は再び声をかけてきた。
「え?」
「ディーヴァって知ってる?神話の方じゃなくてアーティストなんだけど」
「え、知らない」
神話の方もアーティストの方も夕衣は知らない。初めて聞くアーティストの名だった。流行の音楽には疎い。莉徒が流行の音楽を追っているようには思えなかったので、恐らくはそういった商用音楽をやっているアーティストではないのだろうことは何となく判ったが、邦楽なのか洋楽なのかも判らなかった。
「そっか、今度持ってくるからさ、ちょっと聞いてみて」
「う、うん……」
夕衣の音楽の趣味はさほど広くはない。子供の頃は親の影響でアコースティックギターのサウンドやロカビリー、ブリティッシュロックなどを多く聞いていたが、高学年になったあたりから、日本の音楽にも興味を持ち始めた。
「夕衣なら好きだと思うのよね。ま、決めるのは私じゃないけどさ。さって、私はちょっと軽音に顔出してから練習だわ、それじゃね」
「うん」
だ、と莉徒は駆けて教室を出て行った。莉徒が歌うのなら聞いてみたいとは思う。どんなバンドでどんな曲をやっているのか、興味はある。しかしそれでも態々練習を見に行くことまではしない方が良い。莉徒達のバンドがライブをするときに聴きに行けば良いのだから。必要以上に親しくなる材料を作ることはない。夕衣は半ば強引にそう思うことにした。
今日渡された瀬能学園の制服を持ったままで荷物は多かったが、このまままっすぐに帰る気にはなれなかった。もしかしたら従兄の圭一がまだ家にいるかもしれない。本当はすぐにでも顔を合わせなければ、と思っていたが、いざその時がくるとなると臆病になってしまう。何一つ貫き通せない、ひどく半端な状態が続いてしまっている。何一つきっちりと決断ができない。それが今の夕衣だ。嫌な自分、駄目な自分だというのは判っているはずなのに。学校から駅まではそう遠くはない。夕衣の家は徒歩通学の圏内にある。駅の商店街に寄り道をしても大して時間を潰すことはできないかもしれないが、リハーサルスタジオやライブハウスを探して回るのも良いかもしれない。それに駅の商店街の外れには以前行って気に入った喫茶店もあることを思い出し、学校を出て駅に向かった。
(知らない街……)
歩いてみて実感する。駅の位置が判れば迷子になることはない。この街に住むのは初めてのことだが、以前から何度も遊びにきたことはあった。最後に訪れたのは三年ほど前だったが、あまり変わったようなイメージは受けない。スーパーマーケットや八百屋、魚屋、肉屋などが連立するところは活気にあふれているし、本屋や飲食店があるところなどはそれほど人通りも激しくない。商店街を少し外れたところに喫茶店があり、その喫茶店が当時中学生だった頃の夕衣にとってはたまらなく魅力的な店だった記憶がある。喫茶店で情報収集をしても良いかもしれないと思い、夕衣はその喫茶店に足を向けた。途中に一軒、楽器店を兼ねたリハーサルスタジオを見つけたが、場所さえ判ればいつでも行くことができる。とりあえずその楽器店を心に留める。既に夕衣の気持ちは喫茶店に向いてしまっていた。店主の女性はたおやかな女性で、やわらかい空気を纏っていた。今も変わらずやっているだろうか。
「いらっしゃい……あら?」
店主の女性は愛想良く夕衣に声をかけた。夕衣はぺこりと頭を下げる。三年前に数回きただけだ。見覚えはあるかもしれないが覚えてはいないのだろう。夕衣は店主が涼子という名だったことを覚えているが、客商売であればそれも当然のことだ。少し寂しい気もしたが、気にせずに店内を見回した。店内は薄い水色がベースカラーで整えられている。テーブルクロスやカーテンは白と淡い水色が夕刻の光を柔らかくさえぎり、心地好いピアノのゆっくりとした旋律が流れている。
客は夕衣の他には二人。
「空いてるところ、どこでも座ってくださいね」
「あ、はい」
言われるままに、夕衣は窓際のテーブル席に座った。小さな鉢植えが一つ置いてあり、白い花を咲かせている。久しぶりにきたけれど、今でもとても心地良い空間だと思えた。
「何にしますか?」
お冷を運んできて、涼子はそう言った。
「じゃあコロンビアのブレンドで……あとシュークリームを一つください」
「はぁい、コロンビアブレンドにシュークリームね。かしこまりました」
到底営業スマイルとは思えない柔らかな笑顔で答えると、カウンター席の奥に戻る。コーヒーだけで済まそうかと思ったが、お手製であろうラミネートされたメニューにあるケーキの写真などを見ていたらあまりに美味しそうでつい注文をしてしまった。ほどなくしてぱん、と軽く手を打ち合わせる音が聞こえた。それからやけに楽しそうな感じで涼子は鼻歌まで歌いだすと、店内の音楽を変えた。
(……リック・ラスキンだ)
それほど一般的に有名ではないのかもしれないが、アコースティックギターを弾く者の間では有名なミュージシャンだ。力強さも優しさもギター一本で表現する、他のプレイヤーとは一線を画したその技術は、どれほど上手いと言われている者が何年かけても到達できない高みにあるとまで言われている。夕衣が創る曲にはそれほど影響されている訳ではないけれど、楽曲として彼のギターを聴くのは好きだった。今も趣味でギターを弾いている、音楽好きの父親の影響で知るようになったアーティストだ。
以前この店にきたときも涼子の音楽好きなところはかけている曲で大体把握はできていたが、リック・ラスキンまで持っているとなるとかなりの音楽好きだ。夕衣はしばらく目を閉じて、ラスキンの曲に聞き入る。程なくして香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。
「お待たせしました、夕衣ちゃん」
「え?」
こと、とテーブルにコーヒーとシュークリームの乗った皿を置いて涼子は言った。
「中々思い出せなくてごめんなさいね。ついさっき思い出してラスキンなんかかけてみたんだけど」
「あ、いえ、私こそご無沙汰だったんで覚えてないと思って……」
苦笑する涼子に夕衣も笑顔を返し、そう言った。まさか覚えてくれていたとは思わなかったが、涼子のこういった振る舞い一つもこの店の雰囲気を保つ重要な要素なのだろう。
「二年……三年、くらいかしら……」
「はい。昨日こっちに越してきたんで、今度から顔出しますね」
もしかしたら涼子は夕衣がこの街にきた事情も、この店を気に入っていながら三年もこなかった訳も、知っているのかもしれない。
「あら、嬉しいわね、じゃあ今日はおごっちゃおうかしら」
「え、そんな、悪いです」
初めてこの店にきたときも夕衣は涼子にご馳走になった。以来、この街にくると必ずこの店にくるようにしていたが、涼子はことあるごとに様々な客にご馳走している。夕衣が店にくるときはいつも客は少なかったが、採算が取れているのか不思議になってしまうほどだった。
「じゃあ試作のケーキがあるから、帰りに持ってって。で、今度きたら感想聞かせてね」
「モニターってことですね」
「そ。それなら遠慮もいらないでしょ」
涼子は何かしら感謝の気持ちを示したいのだろう。それが判ってしまってはもう食い下がれない。観念して夕衣は苦笑した。
「じゃあお言葉に甘えさせてもらいますね」
「いいえ。夕衣ちゃんこっちきたってことは、学校は?」
「あ、瀬能学園です」
この界隈には高校が二校ある。夕衣が試験をパスして転入した瀬能学園は小学校から大学までのエスカレーター式だが、一応試験などはある。受験生、と気構えないで良いのは楽だが気は抜けない。
「二年生だっけ?」
「いえ、三年です」
「あら、じゃあ常連さんが何人かいるけどその内会うかな?」
駅から近い場所にこんな良い店があれば皆くるだろう。それに一度きたらまたきたくなる。クラスメートとここで会うことは極力避けたかったが、ここで会うのならば、妙な気構えをしなくても良いかもしれない。
「かもしれないですね」
「えーと瀬能で三年生だと……莉徒ちゃん、瑞葉ちゃん、千晶ちゃん、二十谺ちゃん、美朝ちゃん、えーちゃん、すーちゃん、晃ちゃんに亨くん……」
指折り数えて名前を挙げる。三人ほど知っている名前が出たが、それよりも涼子の記憶力の良さには脱帽する思いだ。
「えと、多分莉徒……柚机莉徒と由比美朝は同じクラスです」
「あらあら莉徒ちゃんと同じクラスなのね。莉徒ちゃんは良くきてくれるから普段から私も仲良くさせてもらってるわ」
「そうなんですか」
「変わってるけどとっても良い子だし」
確かに、と思う。莉徒は人の雰囲気や場の空気を読むのが上手い。明らかに莉徒を敵視したり、莉徒が関わりを持ちたくないと思っている相手にはそれなりの態度を取るのだろうことは想像ができるが、実感先入観も持たない相手に対しては人当たりは良いし良く気が付く性格なのだろう。夕衣自身もクラスメートに囲まれている時間よりも、莉徒とすみれの三人で過ごした時間の方が気持ちがとても楽だった。
「そうですね……」
実質何時間も一緒にいなかったのに、莉徒の人となりが何となくだが判ってしまう。だからこそ距離を置きたいと夕衣は思ったのだ。きっと莉徒とは仲良くなれる。ほぼ確信に近い思い。
(でも……)
いらない。
友達と呼べる存在も、親友と呼べる存在も。
もういらない。
「……じゃ、ごゆっくりね」
「あ、す、すみません」
いきなり無言になってしまったことに気付いて夕衣は謝った。
「あらいいのよ。喫茶店はお店の人と話すところじゃないんだから」
夕衣にやはり柔らかな笑顔を向けて、涼子は小さく手を振るとカウンターの奥へと入っていった。
「……」
考えごとをするのも呆けるのも、何をしてもこの店の空気が合う。夕衣はゆっくりと涼子のコーヒーとシュークリームを楽しんだ。考えれば考えるほど人を突き放すことばかりが浮かんでくる。意地を張っているだけなのか、本心なのか、本心に嘘をついているのか、夕衣自身判らない。判らないけれど、本当のことなど何も判らないけれど、今はきっとそうすることしかできない。この何もかもが半端な状態の夕衣では、どうすることもできないのだ。何もなければ莉徒やクラスメート達と普通に仲良くしたい。そう思う気持ちもある。だからこそ、今の夕衣はそうすることを避けている。
(でも)
本当は判っているのかも知れない。どこまでが思考の底なのか、本心なのか判らないけれど、今の夕衣に思いつくことは一つだけだ。
(傷付きたくないだけ、なんだろうな)
結局夕食時に帰ってしまったが、従兄の圭一は既にいなかった。聡明な圭一のことだから、今夕衣が圭一には顔を合わせ難いと思っていることを判って早めに帰ったのかもしれない。夕食を済ませ、部屋をとにかく片付け始める。今日一日で終わる訳はないが、毎日少しずつでも片付けていかなければ居心地が悪くて仕方がない。夕衣の部屋はそれほど物は多くないので、一週間もあれば片付くだろう。
「夕衣、今日も練習行くのか?」
「うん、いい場所見つけたから」
ドア越しに父が話しかけてきた。
「そうか、気を付けろよ。前にいたとことは勝手もちがうんだからな」
「うん」
夕衣と両親の仲は良い。特に父とは音楽の話も良くする。夕衣が一人でギターの弾き語りライブに出演したり、時折はストリートで演奏したりすることに理解を示してくれている。若い頃には父さんも良くそうしたもんだ、と笑って言っていた。今でも時折夕衣のギターを借りて弾くことがあるが、まだまだ父にはかなわない、とそのたびに思う。昨日と同じく、きっと外に出て帰ってきたら何もする気が起きなくなってしまうだろう。出る前にできるだけ片付けを進めなければいけない。ベッドや机、オーディオラックなどの大きなものの位置は昨日の午前中に決めてあったので、後は小物を片付けるだけだが、それが時間がかかる。まず音楽を聴くためには、オーディオ周辺とCDを整理しなければならない。夕衣はCDの入ったダンボールを開き、CDラックにきちんと区分けしてCDを収めはじめた。持っているCDはそれほど多くはない。さほど時間はかからずにダンボールの底が見えてきた。あとはパソコンで作ったCD-Rなどが入っている。殆どのものはラベルを貼ってあるが中にはパソコンで開いて見なければ何が入っているかも判らないものも多かった。パソコンはまだダンボールに入ったままだ。久しく明けていないCD-Rの中身も気になったが、気になりだすとパソコンのセッティングまでしなければならない。とりあえず全てのCDをラックに収めて、夕衣はギターケースを手にした。
昨日と同じ場所に向かおうと、土手の斜面を降っていた途中に、夕衣の耳にギターの音が飛び込んできた。グラウンドのベンチには一人の人影が見えた。この距離からでは誰だか判別するのは不可能だ。夕衣は瞬間足を止め、どうするか迷った。この場所でギターを弾いている人物といえば一人しか思い浮かばない。
(柚机莉徒……だろうな)
昨日莉徒が持っていたギターはエレキギターだったが、今聞こえているのはアコースティックギターの音だ。しかし、ギターを弾く者ならば、その両方を持っていても何ら不思議ではない。事実夕衣もエレキギターを持っている。もしもギターを弾いてるのが莉徒だったとしたら、莉徒は恐らく夕衣を待っているのだろう。その真意は何か。学校からの帰り際に言っていた曲を聞かせるためではないと思う。曲を聞かせるだけならば明日で良い。それほど急ぐ用事ではない。莉徒は何か話したいことがあって夕衣を待っているのかもしれない。
(駄目)
やはり莉徒には会わない方が良いと夕衣は判断した。少なからず通じる何かを持っていそうな相手だ。判りやすく言ってしまえば夕衣はすでに莉徒に好意を持っている。夕衣に判る莉徒の行動、感情、考え方。一方的な思い込みかもしれない。
それでも。そうだからこそ。
「もう、いらない、って思うことにしたから」
小さく、自分にだけ聞き取れるような小さな声で夕衣は呟き、ベンチに背を向けた。ゆっくりと土手の上の道を歩き、ベンチから遠ざかる。ベンチにいる者からは見えるだろうし、それがもしも莉徒であったならば、ギターケースを抱えている夕衣にも気付くだろう。自分でも良く判らない。莉徒に気付いて欲しいのか、気付かれたくないのか。土手を歩く夕衣に気付いて呼びかけて欲しいのか、それとも関係ない、と笑い飛ばして欲しいのか。
「判んない……」
どうしようもできない。言い訳が先に頭に浮かぶことが本当に嫌だった。
「お、やっぱきてた!」
河川敷側ではなく、道路側の土手の下からそんな声が夕衣の耳に飛び込んできた。
iii Swing of lie END
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