箱の力を使って、昭和四十年の日本に行く。にわかには信じがたい話だが、猫のユキさんは、それを実現することに自信ありげな感じだった。
「昭和四十年の日本にタイムトラベルして、自ら物証を作ったり、信用のおける第三者に真実を公言して貰うってことかい?」
「やるべきことはそうです。ですが、厳密に言うと、貴方は昭和四十年にタイムトラベルする訳ではありません」
「タイムトラベルじゃない?」
「まあそう考えてもらっても、現時点でそれほど問題がある訳ではありませんがね。概念として、あの箱の力を説明しましょう」
「貴方は時を遡るのではなく、昭和四十年の日本に、伊集院アケミが存在するという世界線を新たに生み出すのです。大事なのは、この世界線という概念です」
並行世界の論理か……。だとすれば、確かにその時空移動は、単純なタイムトラベルとは言えなくなる。時空移動が行われる度に、世界線はどんどん増えていくからだ。
「君の言っていることの意味は理解出来るつもりだけど、もう少し説明して貰えるかい?」
「はい。箱の伝承者の存在する世界と、その世界で進んでいく時の流れの事をまとめて、我々は世界線(World Line)と呼んでいます」
「箱は、この世界に無限に存在する世界線を行き来するための装置です。我々はこれを、フォールド・システムと呼んでいます」
「フォールド・システム……」
爆薬の仕込まれたパソコンを取り出したにもかかわらず、箱が重たかったのは、そのシステムが内部に組み込まれていたせいかもしれない。
「フォールド・システムは、既存の世界線を行き来するだけでなく、新たな世界線を生み出す能力も持っています。そして、箱が新たに世界線を生み出す場合、必ず元の世界線からコンマ何%かの乖離を生じるように設計されているんです。何故だか分かりますか?」
僕は少し考えてからこう答えた。多分、間違ってないはずだ。
「時空移動によって想定されるトラブル……。つまり、タイムパラドクスを未然に防ぐためかい?」
「その通りです。フォールド先の日本は、この世界における昭和四十年の日本ととてもよく似ていますが、厳密に言うと異なる世界です」
普段から、ゲームやアニメで並行世界ものに慣れ親しんでいる僕には、この辺の理屈はさほど難しい話ではなかった。世界が一つではないという事は、歴史の改ざんは不可能であるという事と、殆ど同義だ。
過去にさかのぼって、本来は存在しなかった出来事を起こそうと、その時点で世界線が分岐して、新たな世界がまた一つ産み出されるだけだからである。
「要するに、僕が時をさかのぼって何をやろうと、この世界の歴史には影響を与えないってことだよね?」
「その通りです。箱の力で時間軸を変えることは出来ますが、一度出来てしまった歴史を変えることは誰にも出来ません。昭和四十年から分岐する、新たな世界線が生まれるだけです」
つまり、僕がフォールド後の世界でどんなヘマをやらかそうと、この世界における角栄の日銀特融という偉業が消えることは絶対にない。しかし、その後に続くユキさんの言葉は、僕の想定とは若干異なっていた。
「但し、これから生じる世界線は勿論のこと、その後に生じる世界線にも、貴方の行動が何らかの影響を与える可能性はあります」
「どうして?」
「世界線の分岐とは、全く別の世界が生まれることを意味するのではなく、ほとんど同じ世界が、無数に生じていく事を意味するからです」
「貴方がこれから昭和四十年にフォールドして何かをやれば、これから先に生まれる世界線にもまた、貴方のような人が登場し、似たようなことをやるでしょう」
「なるほど。それは興味深い話だ」
「はい。これは非常に蓋然性の高い推論です。よく覚えておいてください」
僕は、自分が昭和四十年にフォールドするという事の意味を、少し冷静に考えてみた。日銀特融の裏に師匠がいた事を証明するのは、正直難しいだろう。だが、これから時をさかのぼれば、少なくとも僕は、若かりし頃の剣乃さんや赤瀬川さんに会う事が出来る。
箱の産み出す昭和四十年の世界線が、この世界の昭和四十年とさして変わらないというのなら、未来の知識を持つ僕は二人の力になれるはずだ。つまり、夢にまで見た全盛期の師匠の仕事を、側近として手伝う事が出来るかもしれない。
「ユキさんがそういう提案をしてくるってことは、僕がこの箱の力を使って昭和四十年の日本に飛ぶことは、『箱の力の濫用』には当たらないってことだよね?」
「勿論です。真実を明らかにしたい貴方の気持ちは、とてもよく理解できますからね」
「フォールド後の世界でも、君からアドバイスを受けることは可能かい?」
「全力さんが寝ている間なら大丈夫です。それに私には、時空管理局の人間として貴方が何かやらかさないか、監視する必要もあります」
「時空管理局? それが君の属してる組織の名前かい?」
「そうです。私は今、二一二二年の未来から貴方に言葉を届けてます。世界線の安寧と秩序を守るのが我々の役割です」
「そうか……。もし僕が新たに生まれる世界線で何かヘマをすれば、そこから先に生まれる世界線でも、僕みたいな人間が来て、同じようなヘマをやらかしちゃうんだもんな」
「その通りです。だから、箱の伝承者には、私のようなお目付け役が必要になるんですよ」
ユキさんと話すのに必要だから、全力さんは連れていける。ハナヱや赤瀬川さんに会えなくなるのは寂しいが、お上の追手に怯えながら暮らすよりも、ユキさんの提案に素直に乗った方が、これからの人生は楽しそうだと思った。
「まあ、あまり気にしすぎないでください。余程のことをやらない限りは歴史なんてそうそう変わりません」
「何故?」
「因果律の力が働くからです。先行する世界線で一度できた歴史は、並行世界においても、簡単には変えられないように出来ています。だからこそ、ほとんど同じ世界が無数に存在する訳です」
「なるほどね」
「最悪の場合、別の世界線に再フォールドすることだって可能ですしね。まあ、フラグ管理が面倒になるので、あまりやりたくはないですが……」
「フラグ管理?」
「いえ、こちらの話です。忘れてください」
そういって、ため息をつく猫のユキさんの横顔には、中間管理職の苦悩が感じられた。見た目は全力さんなのに、印象がまるで変わるのが、とてもおかしかった。
「それよりも、まだ貴方に伝えてない大事なことが一つあります」
「なんだい?」
「伝承者になってから、貴方はまだ箱の力をまだ一度も使ってないですよね?」
「多分使ってないと思うけど、フォールド以外にも、あの箱にはいろんな機能があるのかい?」
「はい。あの箱は少し特殊で、伝承者の意思に反応して様々な機能を発現することが確認されています。だから、【箱の力】という漠然とした言い方しかできないのです」
その隠された箱の機能を解明するのも、時空管理局における彼女の仕事なのだと、猫のユキさんは言った。
「なるほど……。で、まだ伝えてない大事な事って一体なんなのさ?」
「箱の伝承者として登録されてから、四〇二六時間以内に箱の力を発現させないと、伝承者としての権利が全て失効します」
猫のユキさんはさも当然のように、そういった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!