片隅に生きる人々

伊集院アケミ
伊集院アケミ

第二十二話「日銀特融」

公開日時: 2020年10月29日(木) 22:37
文字数:3,131

 師匠はその場で、この融資を正当化する一つの条文が存在することを角栄に説いた。旧日銀法の第二十五条がそれだ。


第二十五条


1 内閣総理大臣及び大蔵大臣は、信用秩序の維持に重大な支障が生じるおそれがあると認めるとき、その他の信用秩序の維持のため特に必要があると認めるときは、日本銀行に対し、当該協議に係る金融機関への資金の貸付けその他の信用秩序の維持のために必要と認められる業務を行うことを要請することができる。


2 日本銀行は、前項の規定による内閣総理大臣及び大蔵大臣の要請があったときは、当該要請に応じて特別の条件による資金の貸付けその他の信用秩序の維持のために必要と認められる業務を行うことができる。


 角栄は単なる党人政治家ではなく、法律の専門家だった。だからこそ、議員立法で三十三本もの法案を通せたのだ。彼は自身の権力を使って法律を作り、何度も大金をせしめたが、大義名分の立たない事は一度だってしなかった。


 錦の御旗が立たない所には、人も金も集まらないことを知り抜いていたからである。


「兄貴は理を説くだけじゃなく、利も保証した。角栄が自分のアイデアに乗ってくれるなら、自身の得る利益の全てを献金することを、その場で約束したんだ。彼が宰相の器であることを見込んだ兄貴は、俺たち全員の命を角栄に【張った】のさ」


 赤瀬川さんは、懐かしそうにそう言った。


 師匠のアイデアに【大義】があると見抜いた角栄は、その類まれなる記憶力で旧・日銀法二十五条と、関連する条文の全てを暗記した後、氷川寮に向かった。角栄は集合時間に少し遅れた。


「現在ではその遅刻は、自身の力で会合の空気を変えようとした意図的なものとされている。だがその本当の理由は、彼が兄貴のアイデアを我がものにしようと、ギリギリまで努力していたからさ」


 角栄は最初、黙って彼らの話を聞いていたが、「取引所閉鎖もやむなし」という消極的な案にまとまりかけた時、並み居る頭取たちに向かって、こう叫んだそうだ。


「そんなことをして、手遅れになったらどうする! お前らそれでも銀行の頭取か!」


 この角栄の一喝が、会合の空気を変えた。角栄は日銀法二十五条に基づいて日銀が特融を行うことを主張し、全員がそれに同意したのだ。「日本の中央銀行が、民間の証券会社にたいして、無担保・無制限に融資する」という前代未聞のアイデアを、角栄は自らの責任で政治決断した。


 証券不況に苦しんでいた、日本経済を救うために……。


 彼のこの決断は、『日銀特融』と呼ばれるようになり、彼の偉大な業績の一つとして、後の世に語られるようになる。もしあの時、角栄が師匠のアイデアに乗らなかったり、並み居る頭取たちの説得に失敗していたら、師匠は間違いなく海の底に沈んでいただろう。


「兄貴から、会談が目論見通りに終わったことを聞いた俺は、すぐさま村岡さんに報告しに行ったよ。だが結局、それは俺の金星にはならなかった。その日のうちに、角栄が記者会見を始めてしまったからね」

「はい。だけど、師匠と村岡さんは勝負には完全に勝ちました」

「そうだな。おかげで俺も、命を落とさずに済んだ」


 若き日の師匠を村岡会長に引き合わせ、組の金を突っ込むことを説得したのは赤瀬川さんだ。そして、村岡が児玉に繋げなければ、師匠のアイデアは角栄に届いていない。そういう意味では、今僕の目の前にいる初老の男が、この国を救ったともいえる。


 その日の夜。そう、取り付け騒ぎが起こった【その日の夜】だ。深夜、二十三時三十分、田中蔵相と日銀の宇佐美 洵が、記者会見を行った。会見の中で角栄は何度も、この特融が『無担保・無制限』である事を強調した。対面上、日銀が都銀に融資したうえで山一に再融資するという形にはなったが、この融資が、『中央銀行による私企業の救済』であることは誰の目にも明らかだった。


 この発表により、週末のわずか二日で取り付け騒ぎは完全に沈静化した。特融も結局、山一と大井証券の二社だけで済んだ。


 後に角栄は、「この日銀特融が、自分の政治史上で一番印象に残った出来事だ」と回想している。この特融は単なる民間救済策ではなく、『証券業界全体の信用秩序の維持』を目的としたものだったからだ。


 この角栄の政治決断をきっかけに、千円割れ寸前だった平均株価は反転し、昭和四十五年七月まで五十七か月続く「いざなぎ景気」がスタートする。赤瀬川さんは金星を取りそこなったが、師匠と村岡は、その後の戻り相場で大金を得た。そして師匠の取り分は、そのま角栄に流れたのである。


 二人の関係はここから始まり、師匠は『角栄の懐刀』として兜町で畏れられるようになる。そして二人の友情は、角栄が脳梗塞で言葉を失ってなお、変わることはなかった。


 もし角栄が権力の座から引きずり降ろされてなかったら、平成の失われた三十年はなかっただろう。彼はきっと、自ら編み出した特融という切り札を再び切り、二度に渡って日本経済を救った英雄として、人々の口の端に上っていたはずだ。


「資本注入が二社だけにとどまったことは、師匠のアイデアが正しかったことを物語っています。だが、行動が適切でも、それが人の心に響かなければ意味がない。角栄はそのことを知り抜いていたからこそ、その日のうちに会見を開いたんだと思います」

「ああ、そうだな。だから角栄は何度も何度も、『無担保・無期限』であることを強調したんだ」


「そうです。師匠のアイデアと角栄の行動力がこの国を救ったんです。二人はいわば、第二次高度経済成長の産みの親だ」


 僕は力を込めてそう言った。だが赤瀬川さんは、僕のその言葉に興奮することもなく、懐から煙草を取り出しつつこう言った。


「確かにそれは、俺たちだけが知る歴史の真実だ」


 そして一本、火をつけ、煙をくゆらす。僕は続く言葉をじっと待った。


「だがな、アケミ。俺たちは所詮、この世界の片隅に生きる人間だ。世界の真ん中で生きてる堅気より、偉いと思っちゃいけない」

「どういうことですか?」

「兄貴の事を書くのはいい。だがそれはあくまでも、『物語フィクション』ということにしておけ。もし兄貴が生きてたら、兄貴もきっとそういうはずだ」

「何故ですか? この件については、僕は何も嘘をついてないですよ」


 僕がそう答えると、赤瀬川さんは諭すようにこう言った。


「いいか、アケミ。あれは本当に、日本が恐慌に陥るか否かの瀬戸際だった。もしあの時、山一が飛んで、取り付け騒ぎが連鎖していたら、お前の言う通り日本の高度経済成長はあそこで終わってたよ」

「だから僕は、その事実を世に知らしめようと……」

「逆だ、アケミ」


「日銀特融の奇跡は、兄貴が死ぬまで支え続けた角栄の偉業なんだ。その偉業の少なくとも半分が、ヤクザ絡みの人間のおかげだと証明されたらどうなる?」


「えっ?」

「真実がどうであろうと、日銀特融は、『ヤクザを儲けさせるための、角栄の私的な働きかけだった』と世間から見なされるだろう。角栄の評価も当然変わる。勿論、悪い方にだ。そんなことになったら、俺はあの世で、兄貴に顔向けできねえよ」

「……」


 長い長い沈黙が続いた。師匠が法的には堅気にも関わらず、決して表に出ようとしなかったことは、僕もよく知っていた。全ては田中派に迷惑をかけないためだった。


「赤瀬川さんの気持ちは理解できます。でも、二人が亡くなって、もう三十年近く経つんです。関係者の大半が生きていた当時ならともかく、今それを公にしたからといって、被害を被る人間は誰もいません」

「だからこそ、だ。俺とお前が口をふさいだままこの世から消えれば、角栄の偉業は伝説になる。角栄をもう一度男にすることが、兄貴の願いだった。その思いを壊す権利は、俺たちにはない」


 赤瀬川さんは、そう切って捨てた。


読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート