「アケミー。大丈夫かー?」
「うん、大丈夫。ちょっとぬかるみに足を取られただけ」
いつもの僕なら、絶対にこんな場所に車なんて停めない。もし停めたって、絶対に気づくだろう。だけど今日は、慌てて古物商を駆け回ってて疲れていたのと、予定よりもだいぶ昔の日本に飛ばされたショックのせいで、注意力が散漫になっていた。
「アサリ、また食えなくなってしもーたなあ……」
「外側が汚れただけだから、洗えば何とかなるよ。海水もまだあるしさ」
「そっかー。オレ、猫だから何も手伝えないけど、気は落とさんといてなー」
「あはは……。猫の手を借りるほど、僕はまだ落ちぶれちゃいないよ」
そう返事はしたものの、実はかなり凹んでいた。自分の意図した失敗じゃなかったからだ。道化ならいくらだってやれるけど、ガチの失敗をした上に、憐れみを受けるのは恥ずかしい。
僕はアサリを一つづつ飯盒の中に戻し、海水の入ったペットボトルを持って車から離れた。服を着替える気にはならなかった。どうせまた汚れるに決まってるからだ。
一体、どうしてこんなことになってしまったんだろう? 予想外の出来事とはいえ、僕はかつてこの時代に生きることを渇望していたはずなのに……。
もしこれがラノベなら、ここらでヒロインやら、狂言回しをする妖精がやらが出て来て、これからどうすべきか導いてくれる所だろう。だけど、そんな都合のいいモノは、僕の人生にはついぞ現れたことがない。
思えば僕の人生は、ほとんど良いことがなかった。ガキの頃から引っ越しを繰り返し、物心もつかないうちに受験戦争に放り込まれ、なんとかそれを乗り切って大学を卒業したら、世の中は不況真っ盛りだった。
間違いなく幸せだったと言えるのは、師匠の下で相場を学んでたあの三年間だけだ。せめて、あと十年早く生まれていれば……と、一体何度思ったことだろう。そしたら僕は、あの狂奔の時代を体験できた。そうでなくとも、ガキの頃から東京にいれば、もう少し違った人生があったはずだ。
相場だけの話じゃない。アニメも漫画も、東京と地方とでは恐ろしいほどの格差があった。僕がエヴァを見られたのは、本放送終了から半年以上も経ってからだ。面白いものは、常に中央から【降りてくる】ものであり、地方にいては存在を知ることすら困難だった。
僕が読んできた物語の主人公たちは、突然、異世界に飛ばされたからって、こんな風にめげなかった。僕は今まで嗜んできたタイムリープ物の主人公のように、元の世界の知識や経験を活かして危機を乗り越えたり、悪者相手に無双したりする自分の姿を思い描いていたのだ。
だが、実際はどうだ? 相方を失い、金を失い、明日の飯にも事欠くような状態のまま、体中泥だらけになってアサリなんか洗ってる。この世に星の数ほど転生ものはあるけれど、こんな惨めな主人公は見たことがない。
頬の上を熱いものが伝っていく。僕は持ってきた海水でアサリの泥を落としながら、全力さんに気づかれないように少し泣いた。
「まったくもう、見てられませんね。初日からこれじゃ、先が思いやられます」
「ユキさん……」
いつの間にか、僕の後ろには全力さんが立っていた。声は全力さんとさほど変わらないが、中身はすぐにユキさんだとわかった。
「貴方が長岡に飛ぶことは想定の範囲内でしたが、まさか終戦直後だとは思いませんでした。座標の固定に失敗したと言いましたが、あれはウソです。あの箱には、情報入力用のインターフェイスがそもそもありません」
猫のユキさんが、突然、僕に真実を明かした。
「僕が今、この時代にいるのは、君の仕業じゃないっていうのか?」
「その通りです。貴方がここに居るのは、貴方の願望を読み取ったあの箱の意思です」
この時代がこそが、僕が願いを叶えうる一番の時代だってことか?
師匠はまだ赤ん坊に過ぎないというのに?
「断言はできませんが、貴方が剣乃さんの行動を伝説にするほどの権力を手にするためには、更に二十年ほど、時を遡る必要があったという事でしょうね」
「二十年?」
「正確に言うと十九年と二ヶ月です。ここは、昭和二十一年三月二十日の長岡ですから」
「昭和二十一年……」
僕の知ってる歴史では、田中角栄が初めて総選挙に出馬した頃だ。角栄が、その政治家人生において、唯一当選できなかった選挙でもある。
「さて、泥まみれで泣いてったって話が進みません。ここで頑張らなきゃ、人生を変えるどころの話じゃなくなります。このまま人生が終わっちゃいますよ?」
猫のユキさんの言うとおりだった。
「私は今、全力さんの体を借りて話しているだけで、この世界にいる訳ではありません。私の言っていることは、わかりますよね?」
「わかるよ。君はいま、二一二二年の未来から、何らかの方法で意識を飛ばしてしゃべってる。当然、全力さんが目を覚ませば、何も言えなくなる」
「その通りです」
「では、単刀直入に聞こう。僕は今、何をすべきだい?」
彼女が僕に嘘をついていないなら、今ここで全力さんが目を覚ましてしまったら、僕の人生はそれで終わりだ。だけど、今やるべきことさえ分かれば、後は自分の判断で行動できる。
「私が思うに、今の貴方に必要なものは、お金じゃなくて自信です」
「一体、僕に何をしろと?」
「トレード以外に、何か出来ることがあるんですか?」
「そういわれると、身も蓋もないけどさ……」
「だったら、やることは一つです。手持ちの品を、得意の口を使って、何か価値のあるものと交換しましょう。それともここで、アサリだけを食べて暮らしていきますか?」
「そんなのは、まっぴらごめんだ……」
僕は、今の自分が何かお金に換えられるようなものを持っているか、もう一度良く考えてみた。
箱はダメだ。あれは、この時代のテクノロジーを遥かに超えた代物だ。あの箱の存在を世に出せば、命すら危うくなる。もし本当にどうしようもなくなって処分するとしても、それは本当に最後の手段だ。少なくとも、譲渡後の逃亡手段が確保された後でなければ、売却なんてできない。
車もダメだ。今あの車を手放したら寝る場所がなくなる。荷物を置いておく場所もない。箱ほどではないにせよ、あの車も今の時代からすれば、相当なオーバースペックだ。殺される事は無いだろうが、価値の分かる人間は、簡単には見つからない。
アサリなんかもってのほかだ。わらしべ長者じゃあるまいし、わざわざここで金品に変えてくれる人物なんか、現れるはずもない。
「ねえ、ユキさん。もう一度聞くけど、君は僕を意図的に嵌めた訳じゃないんだよね?」
「勿論です。私は本当に、昭和四十年の東京にフォールドするものだと考えていました。『片隅に生きる人々』に込められた、剣乃さんへの思いを考えれば当然です」
ユキさんはそう答えた。僕はその言葉を信じようと思った。仮にその言葉が嘘だったところで、今の僕にはどうすることも出来ない。この世界で生きていくにしろ、もう一度フォールドするにしろ、ユキさんの助けは絶対に必要だ。
この時代の人間でも容易に価値が理解できて、金品に変えられるもの――そんな品が何かあるだろうか?
考えて考えて考え抜いた結果、僕は金に換えられそうな持ち物を一つ思い出した。気づいてしまえば、とても簡単なことだった。
「わかった、君の言葉を信じるよ。ところで君は、フォールドする前に、出来る限りのサポートはすると僕に約束したはずだ。早速だけど、調べて欲しいことが一つある」
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