「今日はこれくらいで、勘弁してやらあ!」
ベタな捨て台詞を残して、全力さんが涙目で帰ってきた。どうやらヤドカリに負けてしまったらしい。まあ全力さんは、全力で戦ってコオロギと五分くらいのヘタレなので、当然といえば当然だ。
「強かったかい?」
「ああ、なかなかやったな。動きとろいし、こんなん楽勝やろ思たら、なんかハサミで挟んできよるねん。あれ、反則やろ?」
「所詮、卵から生まれる奴らとは分かり合えないよ。食っても大してうまくないしさ。お疲れ様でした」
「うまくないなら別にええわ」
ヤドカリは本当はそこそこ美味いのだけれど、調理するのが非常に面倒くさいので、僕はそう答えた。
「ところでアケミ、アサリとかゆー奴は取れたん?」
「ああ、取れたは取れたけど、冷静に考えたらスコップがなかった」
「スコップって何?」
「全力さんのウンチを取る時に使う奴。仕方がないから手で掘ってたけど、まだ水は冷たいし、意外と重労働だし、バカらしくなってやめた」
「えー」
全力さんは、取れ高が少なくて不満そうだった。全力さんは食うために生きてるが、僕は食べることにあまり関心がない。勿論、ひもじいのは嫌だけど、『人間は本当に、こんなに飯を食わなきゃ生きていけないもんなんだろうか?』と、疑問に思う。
食えば眠たくなるし、眠ればまた腹が減るし、かといって、食わなきゃ頭が働かない。まるで、出来損ないの機械みたいだ。しかも、同じものばかり食べてるとすぐに飽きる。植物みたいに光合成をしたり、全力さんみたいにカリカリと水だけを摂って生きていければいいのに。
「寒いのは良くないな。うん、寒いのは良くない。死にたくなるもん」
「寒いのと、お腹が減るのは不幸の始まりです。人はあったかいところにいて、腹いっぱい食べてたら死にたくなりません。それでも死にたくなるのは、メンヘラだけです」
「めんへらって、何?」
「お腹が空いてる時の、君みたいなもんかな?」
「いまやん」
「そう」
「めんへらは良くないな。うん、めんへらは良くない。お腹がすくと悲しゅうなるもんな」
「だったら、泣けばいいと思うよ。何も問題は解決しないけど、とりあえず気分はすっきりする」
僕は多分、全力さんがメンヘラだから好きなのだが、これ以上手がかかっても厄介なので、とりあえずそう答えた。
「いや、そんなの余計にハラがへるだけや。泣いたってしゃーない」
「そういうもん?」
「ああ、こう見えてボクは、ノラ出身じゃけえの。世間の厳しさなら、よー知っとる。家に引きこもって株やってるだけの、キミとは違う訳よ」
「流石だね」
全力さんは生まれてすぐに親とはぐれ、何もできずにミャーミャー泣いてるところを病院に保護されたダメ猫だ。だから、本当は野生もクソもないんだけど、僕は大人なので黙っていた。
「生きるっちゅーのは、戦うってことや。戦うってことは、勝ち取るってこっちゃで。広島のヤクザはイモかも知れんが、旅の風下に立ったことは一度もないんで!」
「おいおい、いつから広島のヤクザになったんだよ。大井川を超えたこともないくせに」
「おおいがわって、何?」
「静岡県に流れる川。昔から交通の難所だよ。お風呂もまともに入れない全力さんじゃ、渡るのは無理な話さ」
「濡れるのは嫌じゃなあ……。まあとりあえず、このアサリとか言う奴食お? これ、どうやって開けるん?」
全力さんは、今度はアサリと格闘していた。カリカリにしか興味がなかった全力さんが自ら獲物を取ろうとしているんだから、これは格段の進歩だ。戦う相手が、攻撃力ゼロに等しいというだけで。
「茹でるか炒めるかすれば勝手に開くけど、砂出ししないと食えないよ」
「何こいつら、砂食って生きてるん? みじめやなー」
「まあ僕も、ずっと砂を噛むような人生を送ってきましたけどね」
「人をだまして生きてたんやから、まあ、そんなもんやろ? 屋根のあるところで眠れるだけマシってもんやで」
「そんなもんかなぁ……」
「そんなもんよ。もしボクが居てかったら、キミの人生、ホンマみじめなもんやで」
本当にそうかもしれないなと思いながら、僕は砂出しの準備を始めた。ザルはないけど、途中で何度か水を交換すれば大丈夫だろう。お湯を使った方が砂出しは早く済むので、僕は車に積んであったカセットコンロで、飯盒に入れた海水を温め始めた。
「砂出しって、あとどれくらいかかるん?」
「うーん、三十分から一時間くらいは見た方がいいと思うけど」
「そないかかるんなら、どっかいこ? ここ寒いし」
「そうだね」
とはいえ、別に行く当てもない。一旦、寝直したにもかかわらず、時刻はまだお昼を回ったばかりだった。僕は飯盒の中のぬるま湯にアサリを突っ込み、真新しい海水を2リットルのペットボトルに詰めて車に戻った。
見通しは立たなくとも、とりあえず進む。それが僕の人生だ。
命かけてと 誓った日から
すてきな想い出 残してきたのに
あの時 同じ花を見て
美しいと言った二人の
心と心が 今はもう通わない
あの素晴しい愛をもう一度
あの素晴しい愛をもう一度
車の中に音楽が鳴り響く。歌詞だけ書き出してみると超名曲だが、勿論、本家(北山修作詞・加藤和彦作曲)じゃなくて、空手バカボン・バージョンだ。今のすさんだ僕の心には、これくらいがちょうどいい。
「本当なら、今頃は昭和四十年の東京に飛んで、若かりし頃の剣乃さんと合流してたかもしれないのにな……」
そう独りごちた瞬間、少しだけ胸が痛んだ。こんな時代に飛ばされたにも関わらず、僕はまだユキさんの事を信じている。
今回の時空移動が本当に座標設定ミスなのか、それとも彼女の絵図だったのかは分からないが、駆け出しの頃の師匠に会うという話が、角栄に変わっただけだと考えれば、この世界は、それほど僕の願望から外れた訳でもない。
あの爆発の瞬間、僕は自身の愚かさを悔やんだ。ユキさんの優しさに違和感を感じつつも、伝承者としての地位を失いたくないという焦りから、彼女の誘いに簡単に乗ってしまったからだ。
勿論、彼女が何らかの理由で僕を利用しようとしていたには確かだろう。だがそんなのは、お互い様の話だ。不快になる理由じゃない。
だから、結局のところ僕が拗ねているのは、「猫のユキさん」と一緒に旅立てる」という自分の子供っぽい願望が果たされなかったからに過ぎなかった。
「どしたん? 難しい顔して。お腹空いてイライラしてるの?」
「そんなことないよ、全力さん。僕はいつでも張り切りボーイさ」
「だれがボーイやねん。ところでそろそろ、アサリの水入れ替えた方がええんちゃう? 砂いっぱい出とるで」
「そっか。分かった」
僕は車を停め、飯盒をもって外に出た。正直、あまりやる気は起きなかったが、全力さんに飯を食わすのは、赤瀬川さんに命じられた僕の責務だ。親に不義理をする訳にはいかない。
そう思った瞬間、突然、視界が大きく斜めに傾いた。
「あっ!」
運の悪いことに、僕の降りた先には巨大な水溜まりがあった。ぬかるみに足を取られた僕はその場にぶっ倒れ、あっという間に泥まみれになってしまった。飯盒の中で砂抜きしてたアサリも、全部泥の中に沈んだようだ。
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