「全力さーん。話ついたよー。早く出て来てー!」
ソラさんが事務所を出ると同時に、僕らは全力さんを探し始めた。
全力さんはダメ猫だが、隠遁スキルだけは本当に凄い。なにしろ、赤瀬川さんから世話を押し付けられた後、丸二日も僕の前に姿を見せなかった位だ。エサだけはいつの間にか減ってて、いつどうやって食べたのか、本当に不思議だった。捕まえるのは、少し苦労するかも知れない。
時刻は既に十四時を回っていた。日没までにまだ時間はあるが、僕はまず、この時代にあった衣服を手に入れなきゃいけない。自宅を訪問するのなら、手土産だって必要になるだろう。あまり遅くなるようなら、今日のところは諦めるしかない。
「仕方ない。一旦、事務所に戻るか……」
僕が事務所に戻ると、応接机の上で全力さんがマタタビをキメていた。そりゃあ、どこを探してもいない訳だ。それにしても、一体どこでマタタビなんか手に入れたんだろう?
「よお、お帰りー。一体、何しとったん?」
「君の事を探してたんだよ。話は付いたから、ここでしばらく留守番をしててくれ。遅くとも、明日の昼には帰ってくる」
「かまへんよー。ここにはマタタビもようさんあるし、ユキと違って、あの子はいい奴やからなー」
「あの子? ソラさんの事かい?」
「そう、ソラ! ボク、一応は逃げたんやけど、あの子、マタタビで誘惑しよるんよ。おかげであっさり捕まってもーたわ!」
「それでか……」
僕はちょっと呆れてしまった。いくらマタタビに誘われたとはいえ、初対面の女性に捕まるとは、ボンクラにもほどがある。
「だってボク、マタタビをキメるの久しぶりやったから……。赤瀬川さんは、別のコナしかくれへんし」
「いや多分、そのコナの方が、マタタビよりも何百倍も値が張ると思いますけどね」
「そうなん? でもボク、この粉の方がええわー」
赤瀬川さんも滅茶苦茶するなあと、僕は思った。「人に何かあげる時は、自分が一番大切に思うものをあげるんだよ」というのが彼の口癖で、そんなピュアな彼の事が僕は結構好きなのだが、多分、愛情をはき違えてると思う。
「ソラはええ奴やでー。約束通りマタタビようさんくれたしなー」
「マタタビなら、この辺にいくらでも生えてるからね」
振り向くと、事務所の入り口にソラさんが立っていた。
「全力さんって、その猫の事でしょ? まだ若いのに、すっごいテプテプだね」
「ちがうで、ソラ! これは冬毛!」
「冬毛じゃない、お肉。完全にお肉。お医者さんも言ってましたー」
僕は思わずツッコミを入れてしまった。
「なんて言ってたの?」
「毛かなー、お肉かなー。毛かなー、お肉かなー。うーん、お肉だねーって……」
「そっか。お医者さんも本当は、毛って言ってあげたかったんだね……」
ソラさんは可哀想なものを見る目で、全力さんを眺めていた。
「キミら、お医者さんとボクとどっちを信じるん!? 愛っていうのは、信じるって事やで! 愛を失ったら、人間はもう人間やないんやで!」
「お医者さん」
「お医者さん」
ソラさんとハモってしまった。
「……っていうか、もうとっくに春だよね」
「にゃーん」
「今更、可愛く鳴いてもダメ!」
再びハモるソラさんと僕。僕はこの時になってはじめて、ようやくこの場の違和感に気づいた。全力さんがしゃべってるのに、なんでこの子は平気な顔をしてるんだろう?
「あのー……。どうしてソラさん、普通になじんでるの?」
「いやまあ、ボクも最初は、自分の目と耳を疑いましたけどね……」
ソラさんは小さくため息をついた後に、こう続けた。
「事務所に着くなり、ボクの目の前でマタタビを吸引しはじめて、『マタタビよこせー! マタタビよこせー!』って大騒ぎしてるこの子を見てたら、なんかもう、色々諦めたっていうか……」
「ええんや……。ボクはもう、コイツさえあればどうでもええんや……」
マタタビを両手いっぱいに抱え込みながら、吸引を繰り返す全力さん。その目は完全に、薬物中毒者のそれだった。ヤクザ屋さんの事務所で、何度も見たことのある目だ。イキモノとして完全に終わってる。
「まあ、誰もいないはずの後部座席から声が聞こえた時点で、なんか変だなーとは思ってたんだけどね」
「まあ、そうですよね」
苦笑するより他なかった。全力さんをこんなダメ猫にしたのは、他ならぬ赤瀬川さんと僕自身だ。こんなダメな全力さんを、ダメなまま受け入れてくれるソラさんの優しさに、僕は心から感謝した。
「ところで、賭けは僕の勝ちだよね? 約束通り十円貰おうかな」
「どうぞ」
僕は素直に十円紙幣を一枚差し出した。これで所持金は百九十円だ。まあ、元々ソラさんに借りたお金だけれども。
「僕のホームで賭けに乗って来るなんて、アケミさんも博才がないなあ……。ボクに箱を預けて正解だよ」
「面目ないです」
勝負事は最初が肝心だというのに、あっさりと負けてしまった。しかし、さっきのツッコミといい、僕を簡単に嵌める頭の良さといい、この子はもしかしたら、DJ君のご先祖様かなんかじゃないだろうか……。
「あのー、ところで全力さんの事なんですが……」
「なんだい?」
「事情を話すと、とっても長くなるんですが、人畜無害だと思いますので、生暖かい目で見てもらえると助かります。というか、何でこの子が急にしゃべりだしたのか、僕にもよく分からないんです」
「大丈夫だよ。ボクはこれでも技術者だからね。理屈に合わないからといって、目の前の現実を否定することはしないよ」
「まあ、実際にしゃべってるものを否定しても仕方ないしなあ……」
「そうそう。それに僕は、発明家でもある」
「発明家?」
ソラさんの父が沢山の失敗を繰り返した末に、計量器を開発した発明家であることは既に聞いた。彼女にも何か発明品があるのだろうか?
「まずは現実を受け入れる。それから原因と結果を考えて、修正すべきものは修正し、世の中をもっと良くするためのキカイを生み出す。それがボクたちの仕事さ」
「素晴らしいね。でも、マタタビ中毒のデブ猫なんか研究して、何か役に立つかなあ……」
「もう十分、役に立ってるじゃないか」
「何に?」
「君の心の安定に。全力さんと一緒にいる時、君はとても楽しそうに見えるよ。違うかい?」
そういって、ソラさんはいたずらっぽく笑った。
「違わないね」と僕は答えた。照れくさくて、なんだかちょっと泣きそうだった。
「じゃあ、行ってくる。全力さんの事を、くれぐれもよろしく頼むよ」
「わかった。まあこの調子なら、そのうちぶっ倒れて寝ちゃうだろう。マタタビに依存性はないから、安心していいよ」
「それは良かった」
「見通しは立ってるのかい?」
「いや、何も……。でも僕は、角栄の事なら大体知ってるから、彼に会うことさえ出来れば、事態は良い方向に進むと思う」
「そうか。上手くいくことを祈ってるよ」
そう言って、ソラさんは左手を軽く振った。真っ白な作業服にメガネをかけた色気のない女の子だけど、その笑顔はとても素敵だと思った。彼女の右手には、僕の渡したカセットコンロが、しっかりと抱え込まれていた。
これが、この世界での僕の相方となるソラとの最初の出会い。
僕はこの後、彼女の力を借り、七十四年前のこの世界で様々な事業と相場に挑むことになる。この時はまさか、この小さな少女が、DJ君をも超える大切な存在になるなんて思いもしなかった。
僕はこの世界で、数々の政治家や相場師たちとの出会いと別れを経験した。けれども全てが終わった今、いつも懐かしく思い返すのは、やっぱり、ユキとソラという、二人の少女との思い出だ。
ユキさんが、何故僕を伝承者に選んだのか?
全力さんの正体は、一体何なのか?
僕とソラが、この世界でどんな結末を迎えるのか?
それを語るのは、まだまだ先の話だ。だけど、ソラと僕の今の関係がどうあれ、あの箱が『人生を変える箱』であることに嘘偽りはなかった。そのことだけは、僕は本当に感謝してる。
だって、ユキさんがあの箱を送ってくれたからこそ、僕はこの世界でソラと出会い、師匠とも再会して、自分の人生をやり直すことが出来たのだから。
*『片隅に生きる人々』は健全なフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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