「それにしても、きくゑさんと繋がりがあるんだったら、まずは彼女を頼れば良かったじゃないか。心配して損しちゃったよ」
ソラさんは少し拗ねたような顔をして、僕に言った。
「ところが、そうもいかない事情があってね」
「どういうこと?」
「字は角栄で間違いない。そもそも、僕は彼の事をよく知ってるけど、向こうは僕の事を全く知らないんだ。勿論、きくゑさんともまったく面識はないよ」
「じゃあ、会いに行っても無駄じゃないか」
「かもしれないね。でも、それが自分の性分なんだから仕方ない」
「君はなんだか、少し父さんに似てるよ……」
ソラさんは呆れた声でそう言った。勿論、門前払いは覚悟の上だ。それでも角栄を探してみるしか、僕の若き日の闇歴史を現実にする方法はない。とにかく動いて、何かチャンスを掴まなきゃ、ソラさんに借りたお金だって返せないのだ。
「紹介状でも書けたらいいんだけど、お付の人しか見たことないしね。払いはしっかりしてるから集金にも行けないし、次にいつ給油に来るかもわからない」
「そんなこと気にしなくていいよ。要するに僕は、君がお金を貸してくれて、本当に助かったんだ」
「それこそ気にしなくていいよ。ボクは自分のお金を使って、このコンロを少しいじってみたかっただけだ。これは正当な取引であって、どっちが恩に着るとかそういう話じゃない」
そう話す彼女の口ぶりは、どこかDJ君に似ている気がした。彼は自分の損得よりも、フェアであることを大事にする男だった。彼はいつも周りに気を使い、いつだってニコニコしていたのだ。
今にして思えば、もっと感情を露わにしてくれれば良かったのにと思う。笑顔は究極のポーカーフェイスだ。だから僕は、あの事件の後、彼の心が静かに壊れつつあることに気づかなかったのだ。
「じゃあ、行ってくるね」
車に乗り込み、エンジンをかけようとした瞬間、僕は急に嫌な予感に襲われた。ソラさんという強力な援軍を得た今、無理してきくゑさんの元に顔を出す必要はないかもしれないと、ふと思ったのだ。
勿論、角栄を探すことを諦めた訳じゃない。だが、この世界での角栄が女性である事は、ユキさんにとっても想定外の事象のはずだ。ユキさんの助力を得るためにも、彼女に一度報告してから事を進めた方が良いかもしれない。
「どうしようかな……」
きくゑさんが、角栄に繋がる可能性が一番高い人物であることは間違いない。なにしろ彼女は、史実で角栄が最初に出馬した選挙に立候補しているのだ。いくら性別が違うからと言って、新潟二区から出馬する田中性の人物を、他人だと決めつけるのは無理がある。
もう既に選挙は公示されていて、選挙戦は終盤になればなるほど激しくなってる。アヤを付けるなら一日でも早い方が良いはずだ。僕は少し考えて、箱と全力さんを、ソラさんに預けてから行こうと決めた。
「ねえ、全力さん。悪いけど、今日はこの事務所で留守番しててくれないか?」
「なして? ゼニはもう手に入ったんやろ? アサリの味は悪うないけど、同じものを二度も連続で食うなぁ嫌やなぁ……」
「いつも、同じカリカリばっか食ってるじゃん」
「カリカリは別格やけんね……。こんなの相場と同じよ」
「わかったわかった。ちゃんと何か、おいしいお土産を持って帰ってくるからさ。とりあえず、今日のところは頼むよ」
「絶対やでー」
僕がこの場所を明かさなければ、どんな事態に巻き込まれようと箱は無事のはずだ。ソラさんが、猫を嫌いじゃなければいいけど……。
「今からソラさんに、君の事を頼んでくる。その辺で少し遊んでてくれ」
「ほな、腹ごなしでもしてこかー」
全力さんは車から飛び降り、藪の中に消えた。僕も車を降り、もう一度、事務所に向かった。
「あれ? 何か忘れ物かい?」
「いや、そういう訳じゃないんだけどさ。実は君に預かって欲しいものがあるんだ」
「なんだい?」
「少し説明が必要だな。悪いけど、ちょっと車まで来てくれないか?」
「……??」
僕はソラさんを連れて車に戻り、後部座席に積んである箱を彼女に見せた。
「綺麗な箱だね。中に何が入ってるの?」
「特に何も入ってない。ぱっと見はね」
「えっ?」
「何と言ったらいいかな……。説明するのは難しいんだけど、これはただの箱じゃなくて、僕がこの世界に居るために必要な、とても大切な機械なんだ。万一の事があったらいけないから、僕が戻るまで、君に預かっておいて欲しい」
「万一って?」
この箱は、今の僕にとって一番大切な切り札だ。預かって貰わないと話が進まないから、僕は少し大げさに言っておこうと思った。
「この箱を狙ってる人間が多分いる。この箱は元々、角栄さんの持ち物なんだ。彼から僕の師匠に譲渡された後、僕が受け継いだ」
「うん」
「話の流れによっては、角栄さんかきくゑさんに、この箱を返さなきゃいけない。だから、僕が車から離れているうちに箱が盗まれたり、壊されたりすると困るんだよ」
「もしかしたら、ボクがそうするかも知れないよ?」
「大丈夫だよ。少なくとも今は、あのコンロに夢中なはずだ」
「バレたか……」
「そりゃあね」
ソラさんが何であんなものに興味を示したのか分からないが、人間は関心のないものには絶対に金を払わない。ましてや、この時代の二百円は大金だ。彼女の琴線に触れる何かが、あの機械のどこかにあったのだろう。
「ねえ、ソラさん。僕はこの場所に立ち寄ったことを、誰にも言わない。もし何かのトラブルに巻き込まれたとしても、この場所さえ知られなければ、箱は無事だからね」
「うん」
「だから君も、もし僕の事を探りに来る人間が来たとしても、絶対に何も話さないで欲しい」
「わかった。約束するよ」
「じゃあ、この箱を頼む。見た目より、かなり重いから気を付けて」
「本当だね。すごく重いや」
苦笑しながら、ソラさんは箱を受け取った。見た目は空にもかかわらず、多分、四~五㎏はあるだろう。とりあえずは、これで一安心だ。
「それと、もう一つ頼みたいことがある」
「なんだい?」
「ソラさんは、猫は苦手かい?」
「別に嫌いじゃないよ。どっちかといえば、好きな方だと思う」
「じゃあ、猫を一匹預かって欲しい。エサさえあげてくれれば、後はほっといて構わないから」
「それでさっき、いきなりアサリを煮出したの?」
「まあそんな感じ。とにかく生活力のない猫だからさ。エサだけはしっかり頼むよ」
そう言って、僕は手持ちの缶詰を全てソラさんに渡した。
「これを上げればいいんだね」
「うん。さっきアサリを食べたばかりだし、明日一杯くらいは持つと思う。もっと食わせろ! って言うかもしれないけど、最近ちょっと太り気味だから無視してね」
「そんなに自己主張の激しい猫なの?」
「うん。きっとその辺で遊んでるだろうから、探してくるよ」
僕が踵を返すと、ソラさんが後ろから声を掛けてきた。
「ボクも一緒に探すよ。名前は何て言うんだい?」
「猫の名前は全力さん。デブの三毛猫だ」
「変な名前だね。人には馴れてるの?」
「いや、全然馴れてない。もし見つけたら、無理に捕まえようとしないで、僕を呼んでくれると助かる」
「そうか。じゃあ、一つ策でも練るかな?」
「策って?」
「それを言ったらつまらないだろ。そうだ! どっちが先に捕まえられるか、賭けないか?」
「構わないよ。じゃあ、十円」
「交渉成立だ。まずは、この箱を事務所の金庫にしまってくる。僕が事務所から出てきたら、競争開始だ」
「わかった」
全力さんはヘタレだが、警戒心はとても強い猫だ。僕以外の人間に、簡単に心を許すはずがない。ソラさんには悪いが、この勝負は貰ったも同然だ。
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