「初めまして。伊集院アケミと申します。本日は突然お邪魔して、申し訳ありませんでした」
「伊集院さんですか……。お名前を存じ上げないのですが、田中とはどのようなご関係でいらしたのですか?」
「私は現地で雇用された者ですから、ご存じなくても仕方ありません」
そう僕は言い、少しタメを作った後にこう続けた。
「私は田中さんと共に、理研の仕事を手伝っておりました。表向きは工場の移設という事になっていますが、本当の目的は、北朝鮮や満洲における地下資源の調査です」
「資源調査……」
「はい。あんなタイミングでソ連が侵攻してこなければ、大きな成果を持ち帰れたと思うのですが、本当に残念です」
こういう嘘なら、僕は大の得意だ。それに、完全なデタラメという訳でもない。関東軍が満州で資源調査をしていたことは事実で、そのいくつかには理研も関わっていた。満州の地下には大量の原油が眠っており、とくに一九五九年に発見された大慶油田は、中国の経済発展を支え続けて来たのである。
まだ満州国があった時代に、現在においても、年産四千万トン以上の原油と、三十三億立方メートルの天然ガスを算出するこの油田を見つけていれば、昭和の歴史はずいぶん様変わりしていただろう。
「私は奥様に、田中さんの消息を伝えるために先に返されましたが、引き揚げの船を待っているうちに、ずいぶん時がたってしまいました。参上が遅くなりまして申し訳ありません」
「気にされないでください。それで、あの人はなんと?」
「終戦後の日本のために、最後までここに残って仕事をすると、田中さんは申しておりました。万一の事があれば、会社は貴方に託すと……。軍人から真っ先に逃げ出すような状況だったのに、本当に立派な方です」
いけしゃあしゃあと僕は言ってのけた。
「そうでしたか、あの人が恥ずかしい真似をしてなくて良かったです。ところで、一つお聞きしたいことがあるのですが……」
「なんでしょう?」
「貴方は田中から、『箱』を預かっていますか?」
「えっ……」
ここにきて、始めて予想外の言動がきくゑさんから出てきた。いや、箱と言っても、僕の知っている【あの箱】とは限らない。動揺を悟られてはダメだ。
「箱……というと、一体どういったものでしょう?」
「蒔絵の施された京漆器です。田中から何か品を預かっていると児玉から聞きましたので、私はてっきり、あの人が貴方にあの箱を託したのだと思いました。心当たりがないのであれば、忘れてください」
「……」
さて困った。どう返事したらいいだろう? 預かっていないといえば、きくゑさんの僕への関心はほとんどなくなる。かといって、預かっているといえば、箱を渡さざるを得ないだろう。僕は別に渡したって構わないが、少なくとも、ユキさんに相談せずに決めていいことではない気がした。
「預かってはおりません。ですが、田中さんがその箱を大事にしていたことはよく知っています。とても大切な品なんだと、私に言っていました」
とりあえず、僕はそう答えた。角栄があの箱の所有者であったことは、ユキさんから言質がとれている。問題はないはずだ。
彼の栄光の頂点は、一九七二年九月の『日中共同声明による国交正常化』である。つまり、彼が箱の所有権を手放したのは、少なくともそれより前ではないはずだ。そのことを踏まえつつ、後はつじつまを合わせていくしかないだろう。
「箱を誰からもらったかは、聞きましたか?」
「いえ、そこまでは……」
「あれは、私の家に古くから伝わっていたものです。真偽は分かりませんが、河合継之助の遺品だと聞いています。朝鮮に行くときに、お守り代わりに田中に持たせました」
「なるほど……」
つまり、この世界線では彼女が角栄に箱を渡した張本人だ。彼女の名前は、僕の居た世界の歴史には残っていないが、時系列的には辻褄はあっている。もし、この世界の角栄が既に亡き者になっているなら、箱は一度、きくゑさんに返すべきなのかもしれない。
「奥様……。そろそろお時間です」
先ほどの男が、きくゑさんに声を掛ける。あっという間に約束の五分は過ぎてしまった。
「伊集院様。大変申し訳ないのですが、私はこれから後援者周りをせねばなりません。選挙戦も、なかなか厳しい状態なのです」
「すみません、大変な時に……」
「いえ。後日また、改めてお話しをさせていただけますか?」
「はい、勿論です」
「今晩はどちらにお泊りで?」
何と答えようか迷った。僕はソラさんにタツノに立ち寄った事は話さないと約束してある。だが他に知っている場所もないし、きくゑさんが選挙戦に苦戦しているなら、地元企業の名を出した方が良いようにも思われた。
「まだ決めてはいませんが、長岡にある、タツノ製作所にお世話になろうかなと思っています。知人がそこで働いているものですから……」
悩んだ挙句、僕はそのように返した。ギリギリではあるが、これならソラさんとの約束を破ったことにはならないはずだ。
「そうですか。右忠さんの……」
「龍野 右忠をご存じですか?」
「ええ、右忠さんには、私たちも時々お世話になっております。よろしくお伝えくださいませ」
「わかりました」
「児玉、今週の予定はどうなっていますか?」
きくゑさんは、先ほどの番頭らしき男に声を掛けた。多少はきくゑさんの関心を引くことに成功したらしい。
「明後日の二十一時以降であれば、一席設けることは出来ます。必要であれば、伊集院様の宿の手配も致しますが……」
「あっ、いや大丈夫です。一週間ほど、こちらに滞在することになってますので」
一か月は怪しすぎるので、とりあえず僕はそう答えた。
「そうですか。では、明後日の夜にまたお会いしましょう。田中から託された品と手紙は、その時にお持ちください。今日はお話しできて良かったです」
「はい、こちらこそ。突然押し掛けたにもかかわらず、お時間を作っていただきありがとうございました」
「では、私はこれで失礼させていただきます。何か不明な点があれば、児玉の方にお尋ねください」
きくゑさんはそういって、事務所の奥に消えてしまった。男はさっそくどこかに電話をかけている。この時代の電話は貴重だから、店もそれなりの格式だろう。僕はただ待つしかなかった。
「……という事ですので、伊集院さん。明後日の夜、こちらの宿でお待ちいただけますか?」
「はい」
「会談後は、そのまま宿泊していただいて構いません。私の方ですべて段取っておきますので……」
僕は児玉なる男から、宿の名前と住所を書いた紙を手渡され、事務所から追い出された。きくゑさんとは初対面だし、今は選挙期間中だから、宿泊費はおそらくこちら持ちだろう。宿代をかけたくないから、恥を忍んで断りをいれたのだが、結局無視されてしまった。
まあ、多少は手心が加えられるだろうから、百七十円もあればなんとかなるだろう。とりあえず、次の約束が取れただけでも万々歳だ。
僕は車に戻り、再びタツノ製作所へと向かった。
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