普段の僕は、一年の半分くらいの時間を、猫の全力さんと共に過ごしている。本名は、デーモンコア・将門というのだが、呼びにくいので、僕が全力さんという通名をつけたのだ。
全力さんの飼い主は、赤瀬川さんである。だが彼は、堅気に戻ったにも係わらず、昔の付き合いで日本中を駆けずり回っているので、必然的に僕にお守りが回ってくるのだ。
まあ、赤瀬川さんが仙台に居たところで、全力さんの世話は大体僕の仕事である。僕がいない時に誰が世話をしてるのか、それはよく知らない。多分、僕みたいな昔の舎弟がやらされているんだろう。
僕は寄りつきの取引に間に合うよう、毎朝八時三十分にアラームをかけているのだが、大抵、それよりは早く眼を覚ます。全力さんが、「エサをよこせ」と僕の頭をひっかきに来るからだ。
「全力さん、俺まだ眠いんだけど」
「わかった。アケミは眠いんやな。それは理解しとるよ」
「ところで、ボクは腹減ったけえ、早うエサを用意して」
「……」
僕が布団をかぶって徹底抗戦を決め込むと、全力さんは鳴きわめきながら大暴れする。ひどい時には、おしっこまでする。僕の衣服で、全力さんの放尿プレイの被害に遭ってないものはほとんどない。多分、前世はメンヘラだったんだろう。
「全力さん、昨日の夜多めに上げたでしょ?」
「ああ、ありゃ全部食うた。食うた分は熱になる。こんなと同じよ」
「全然、熱になってないやん! お腹タプタプやん!」
「こりゃ冬毛じゃ」
「毛じゃない、お肉! 完全にお肉! お医者さんも言ってた!」
「にゃーん」
「こんな時だけ、可愛く鳴かない!」
こういうやり取りを繰り返しているうちに、目が覚める。ここまでくれば、全力さんの勝ちだ。仕方なく僕は寝床から這い出し、全力さんのエサを用意する。気づいたら二度寝して、寄りつきに間に合わずに大損ぶっこいたことが、一体何度あっただろうか?
「お前のせいで! お前のせいで!」と嘆きながら、僕は全力さんを撫でまわす。エサを食った後の全力さんは、お昼寝をしながら、うつろな目でなすがままにされている。
「そうか、こんなは悔しいんじゃのぉ。ところでわしゃ眠いんじゃが、寝てええか?」
と言わんばかりに。
持ち越す銘柄を選ぶこと。選んだら、それがどんなに高値だろうが、売り込まれていようが、徹底的に仕込むこと。
それが僕にとっての普段の相場だ。引け前の十五分だけが、僕が本当に生きている時間である。短期売買でコツコツと資金を積み重ね、自分で創る本命の相場で、それを全部ぶっ飛ばす。そういうことを、何度も繰り返してきた。
誰もとりやしないのに、ガツガツとエサを食う全力さんを眺めながら、僕は思った。猫には「いま」しかない。人間みたいに未来を不安に思ったり、過去を思い返して後悔することもない。今が楽しければ心行くまで遊び、苦しければ全力でそれを回避し、満足したら寝る。それだけの生き物だ。
だが、それゆえに尊敬に値する。生き方に、迷いも手抜きもないからだ。
全力さんは勢い余って、時々、食べたエサをリバースする。具合が悪いからではない。エサが変なところに入ったか、食い過ぎたのかのどちらかだ。だけど全力さんは、「これでまた美味しく食えるわー」とでも言わんばかりに、また平然とエサを食べだす。
まるで、飲んだくれが、一度吐いてからまた飲み直すみたいに。
全力さんが、腹いっぱいでも食うのを止められないように、僕も自分で相場を創ることを止められない。いわば、相場中毒だ。中毒になっても良いことなど何一つないが、行きつくところまでいかなきゃ分からない美しい景色が、この世界にはある。
「病気は治るが癖は治らん。お前のバカは癖だから治らん!」
有名なドラマのセリフが頭をよぎる。
僕たちはとても良く似ていると思った。
全力さんは腹にエサが入っていようと、エサを食うのをやめない。僕はいくら相場で稼ごうと、その金を元手に相場を創り、限界までぶっ飛ばす。理屈じゃない。損得でもない。しいて言えば、快楽だ。
朝になれば全力さんは、僕の頭をひっかいて飯を食い、僕は株を金に換える。それが僕たちの、「生きる」という事なのだ。
胸の辺りに感じる圧迫感で、僕は目を覚ました。全力さんがしゃべってる変な夢を見てた気がするが、内容はよく思い出せない。圧迫感の正体を掴もうと目を開けると、全力さんが、僕の上に思いっきり乗っていた。
全力さんは不安げなまなざしで、僕の顔をのぞき込んでいる。自分が生きていることを証明しようと思ったが、体中の痛みがひどくて、起き上がることが出来なかった。手だけは何とか動いたから、僕は全力さんの体を優しく撫でた。全力さんに怪我がなくて、本当に良かったと思った。
体の節々が痛むが、どこからも出血はしてないようだった。何で死ななかったのか不思議で仕様がないけれども、五体満足であることは、とにかく喜ぶべきことだ。辺りを見回すと、屋根から落ちたとばかり思っていたのに、窓からはちゃんと空が見えた。これは一体どういう事だろう??
「もしかして、ここは天国なのかな……?」
僕がそう呟くと、全力さんは僕の顎ひげに何度も頭をこすりつけてきた。風呂上がりとか、外で仕事をして帰ってきた後なんかに、全力さんがよくする行動だ。
ああ、いつもの全力さんだなあと思った瞬間、まったく予想もしなかった事が起こった。全力さんが、いきなりしゃべりだしたのだ。しかもその声は、ユキさんの声ではなかった。
「ねえ、ここどこ? オレ、ボチボチ、腹減ってきたんやけど……」
やっぱり、ここは天国なのかもしれない。ユキさんならともかく、全力さんが自分の意志で話す訳がないもの。
「全力さん、いつからそんなに賢くなったの?」
「そんな、ボンクラみたいに言わんといてくれる? こうみえてボク、結構ナイーブな精神しとるんよ」
「なんだよ、そのインチキ関西弁みたいな話し方」
「赤瀬川のオヤジが、『仁義なき戦い』と『じゃりン子チエ』ばっかり見とるけぇ、自然に覚えたんよ。ボクもあのホルモンとか言う奴、食いたい」
その語り口には、確かに少し仁義っぽさを感じたが、まだ頭が朦朧としていて、第何部だか思い出せなかった。多分、山守義雄の奥さんのしゃべり方だ。いや、そんな事を思い出したって仕方ない。そもそも、ここはどこなんだろう?
「ねえ、全力さん。ここがどこだかわかる?」
「わからへんなぁ……。ちょっと辺りを散歩してきたけど、すごい田舎やったよ。スズメとか、ようさんおったし」
「スズメ取ればいいじゃん」
「ちょ! こう見えて、ボクはノーブルな生まれなんよ。生き物を殺すとか、そういうのはちょっと……」
「全力さん、捨て猫じゃん。つーか、拾ってもらった赤瀬川さんからも、絶賛放置プレイ中じゃん」
「あの人って、ホント人間のクズやんなぁ……。この前とか、エサをねだったら、猫缶投げつけてきよったんよ。ボク、こんな手足なのに、どないせーっちゅうねん」
全力さんはそういって、僕の目の前で、両手をプラプラさせながら笑った。全力さんは猫のくせに表情が豊かで、本当によく笑う。
灰皿をぶつけられなかっただけ、まだマシだったんじゃないかなと僕は思ったが、赤瀬川さんは僕の恩人なので黙っていた。親の兄弟は、親同然だ。逆らう事は、僕らの世界では許されない。
全力さんと話して心の安静を取り戻した僕は、もう一度起き上がろうと試みたが、どうにも体が動かなかった。
ダメだ。ひどく眠い。全力さんが何でしゃべれるようになったのかは分からないが、二人ともちゃんと生きている。今はそれだけで十分だ。出血はないんだから、このまま寝たって別に死にはしないだろう。
「ごめん、全力さん。もう一回寝るね。起きたらなんか作ってあげるから……」
「えー!」
僕は再び瞼を閉じ、そのままストンと眠りに落ちた。
ここが昭和四十年、五月の東京ではなく、昭和二十一年、四月の長岡市である事を知るのは、僕がもう一度目覚めた後の事だ。史実では、田中角栄が始めての衆議院選挙に向けて、虎視眈々と準備を進めている頃だった。
第二章『創作者への道』編・完
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