僕が事務所の中に入ると、社長自ら応対してくれた。僕には、「担当者が辞めてしまって状況が分からない」とか言っていたが、本当に他に社員がいるのかなあと思うくらいの小さなオフィスだった。
「お前、一体何者だよ。剣乃さんを担ぎ出すなんざあ……」
応接机のソファーにどっかりと腰掛けながら、中野さんがそう言った。僕の返金請求をのらりくらりと交わし続けてきた、あのニッパチ屋の社長だ。
「聞いたでしょ? 剣乃さんの上客の息子ですよ」
「嘘つけ。剣乃さんの身内が、ニッパチ屋なんか使うかよ。最初から、俺を嵌めるつもりだったのか?」
「さあ、どうでしょうね。確かなことは、『誠意』の分も含めて僕にお金を渡さないと、剣乃さんが貴方の敵に回るってことだけです」
少しばかり意地悪してやろうと思って、僕はそう答えた。
「ほらよ。これで文句ないんだろ?」
大帯の一千万と僕の百五十万、そして一通の封書が、応接机の上に置かれた。大帯を目にするのは、それが初めての経験で、流石に少しドキドキした。僕はこれから、このお金を剣乃さんのところまで運ばなければならない。
「端数はこの封筒の中だ。計算書も一緒に入ってる。確認したら、この受取にサインをしてくれ」
「拝見します」
僕は封書を開け、計算書を改めた。過去の売買報告書は、既に何度も確認してある。計算自体は全く問題なかった。問題は、「実際には売買してない」って事だけだ。ざっくりと計算書に目を通し、明らかにおかしい部分がないことを確認してから、僕は言った。
「足りませんね」
「何っ!? そんな訳がない。後で難癖付けられたらたまらないから、検算もちゃんとしたんだ」
「いや、数字自体はあってます。利息分を返してくださいってことです」
「利息?」
「本当は全部呑んでたんでしょ? だったら、利息を取られる筋合いはないじゃないですか?」
「じゃあ、利益も返せよ」
「売買しなかったのはそちらの勝手です。僕はちゃんと発注したんだから、売買益は頂きます。FAXで証拠も残ってますしね」
「ふざけるな!」と、中野さんが怒鳴った。
「今さら凄んだって無駄ですよ。剣乃さんの目もありますし、これからもこの商売を続けたいなら、ここで揉めない方が良いと思いますがね」
「あまり調子に乗るなよ、小僧」
「もし僕が一時間以内に金を持って帰らなかったら、土佐波さんがここに人を連れてくることになってます。どんな人たちが来るか、中野さんには想像がつきますよね?」
「……」
僕は一つブラフを入れた。土佐波さんは、現役の筋者と付き合いがあることを知っていたからだ。彼自身が、誰もが知るあの組の二次団体の組長で、経済ヤクザとして飛ぶ鳥を落とす勢いの人物であった事を、僕は後に知ることになるのだが。
「剣乃さんが後ろにいるからって、いい気になりやがって……。お前、あの人がどういう人なのか、本当に分かってんのか?」
「どういう人なんです?」
あまり追い込み過ぎるのも良くない気がしたから、僕はつとめて軽い感じでそう答えた。
「どういうって……。お前、本当に何も知らないのか?」
「ええ、土佐波さんとは一年ほどの付き合いですが、剣乃さんにお会いしたのは、今日が初めてです」
「じゃあ何で、お前みたいな若造に、剣乃さんが肩入れするんだよ!」
「さあ……。死んだ息子に似てるとか、そんなんじゃないですかね?」
僕はスッとぼけてそう答えた。
「ったく……。あの人が、そんなのに流されるタマかよ。あの小沢を裏で操ってると、噂されてる男だぞ」
「小沢……? あの新生党党首の小沢一郎ですか?」
「そうだ。角さんの懐刀だった時代から、剣乃さんは宮澤の事が大嫌いだった。『奴の政権を続けさせるくらいなら、党を割らせた方がマシだ』と言って、小沢を焚きつけたとの、もっぱらの噂だ」
「……」
余りにも荒唐無稽すぎる話だ。でも妙に、筋が通っている話でもあった。田中は博打うちの父を持ち、進学したくともその金すらなく、たまたま彼の事を気に入った理研所長の大河内の庇護の元、現場からの叩き上げで首相になった男である。
政治家の家に生まれ、東大法学部を主席で卒業し、エリート官僚から政治家に転じてとんとん拍子に出世してきた宮澤とじゃ、そりが合わないに決まっている。剣乃さんが田中派だというのなら、宮澤の味方は絶対にしないだろうと僕は思った。
小沢の話はあくまでも『噂』だ。だが小沢は、かつて角栄から息子のように溺愛された男でもある。それに彼は、『角さんの懐刀』という部分については全く言葉を濁さなかった。つまり、角栄との繋がりについては、何か具体的なネタがあるってことだ。
おそらくそれは、角栄が作った裏金の運用だろう。剣乃さんはそれを原資に仕手をうち、政治家たちとの深いつながりを築いた。少なくとも、この界隈の人間は、剣乃さんの事を【そういう人間】だと見なしている。
「だからって、自民党を割るメリットなんて、株をやる人間には全くないんじゃないですか?」
僕はとりあえず、そう答えた。
「普通に株をやるだけならな。だが、政権内部の権力争いが裏にあるなら、話は違ってくる」
「権力争い?」
「ああ。せっかく過半数を割らせたのに、自民党に連立政権を作られちゃ意味がないだろ? あの細川 護熙を一本釣りするための金も、全部剣乃さんが出したらしいよ」
「バカな! 細川内閣はクリーンさがウリですよ」
「本当さ。細川は七日会の結成メンバーの一人だ。あの政権の実態は、一度は黄泉に沈んだ田中派の復権だよ」
「……」
小沢の陰に彼がいるという話が本当なら、あり得る話だと僕は思った。もし自民中心の連立政権が発足した場合、与党第一党から首相を出すのが憲政の常道だ。つまり、総選挙で敗北したにも関わらず、総裁である宮澤再選の目が出てくる。
彼の復権を阻止するためには、自民党を無理やりにでも野党に引きずり下ろすしかない。剣乃さんはきっと、それを小沢に実行させたのだ。首班指名のキャスティングボードを握る日本新党を、無理やり連立与党に引き込むことによって……。
政治家としての宮澤の命運は、非自民・非共産の連立政権が成立した時点で完全に尽きた。政治改革の旗の下に野党をまとめ、発足したばかりの日本新党から細川を抜擢したことは、【剛腕・小沢】の仕事として世間から認知されているが、その陰には、剣乃さんの尽力と、身内に裏切られた角栄の怨念があったのかもしれない。
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