あれからしばらくたったが、ガサのニュースが新聞で報道されることはなかった。金融庁は面子を大事にするところだから、僕を取り逃した事実をマスコミに流さなかったことは十分にあり得る。だが、あの日の出来事は確かに存在したはずだ。何故なら箱は今も僕の手元にあるし、爆弾の話も本当だったからだ。
箱の中には一通の手紙と、爆発物の仕掛けられたノートパソコンが入れられていて、電源を入れると、起爆シークエンスが発動するようになっていた。一度起動すると解除は不可能で、起動から二分後に爆発すると、その手紙には書いてあった。
そのパソコンを作ったのは、あの夜、運転席に座っていた女だった。「自分の作った爆弾を、自分で処理するとは思わなかった」と笑いながら、その女はテキパキと爆弾を外し、全てを持って帰った。元々、赤瀬川さんとは知らぬ仲ではないらしい。全てはユキさんの絵図通りだったという事だ。
もっとも彼女は、その爆弾が僕の元に運ばれるとは知らなかったし、赤瀬川さんもユキさんの事は何も知らなかった。既に堅気に戻った彼が、一歩間違えれば人が死ぬ企てに加担していたとは思えないから、今回のテストの事を知らなかったのは本当だろう。
あれから、猫の全力さんがしゃべりだすことは二度となかった。居眠りしてる間に、僕は何度も話しかけてみたのだけれど、彼はいつも不機嫌な顔をして目を覚ますだけだった。今となっては、あの日の車内の会話は、興奮状態だった僕が見た、白日夢だったのかなと思ったりもする。
車は無事に金融流れのものを手に入れたが、口座は全部監視されてるに決まってるから、相場を張る気にはならなかった。僕は全力さんと共にあちこちをプラプラしながら、無為な日々を二週間ほど過ごした。
今のところ、僕の人生は何も変わらない。スマホとパソコンを失い、相場が張れなくなってしまっただけだ。ユキさんのテストに合格した時(それは実際には仮合格だった訳だが)、僕はとても嬉しかった。彼女の最後の質問は、「僕がこの箱の所有者になって、一体何をしたいのか?」というものだったはずだ。
僕は何と答えたんだっけ?
「もし、僕が箱の所有者となって、何か力を持つことが出来るのだとしたら、僕は僕の大切な人たちの存在を世に知らしめることに、その力を使いたいと思う。良い部分も悪い部分も含めて、それを出来るのは自分だけだと思うからね」
自分の言葉を思い出した僕は、自分のやるべきことをちゃんとやろうと思った。そして、二週間前に経験したあの不思議な出来事を必死に思い出しながら、なるべく嘘をつかないように、この物語を書いたのだ。
勿論、この物語はフィクションだし、演出過多な部分もあると思うが、本質としては何も嘘をついていない。この物語を読めば、僕がどんなものを美しいと思い、どんなことを表現したいと思って生きている人間であるかは、ちゃんと伝わるはずだ。
箱の力が本物なら、この作品がきっと、僕の人生を前に進めてくれるだろう。限られた時間の中で、今の僕が出来ることはすべてやりつくした。この物語を読む人間が、僕らみたいな相場師を色眼鏡で見ることなく、美しいものをちゃんと美しいと判断できる人間であることを、今はただ祈るだけだ。
「これから先はこの場所じゃ書けないな。調べなきゃいけないこともあるし、これ以上全力さんを連れまわすわけにもいかない」
僕はそう独り言ちた。そして僕は全力さんを連れて、国分町にある、赤瀬川さんの事務所に顔を出したのだった。
「久しぶりだな、アケミ。どこで何をしてたんだ?」
ひと月以上、顔を出してなかったにもかかわらず、彼はいつものように僕に話しかけた。あの強制捜査の後、僕は赤瀬川さんに連絡を取ったのは一度だけだった。全力さんの無事を伝え、爆弾の入ったパソコンの処理をお願いするためだ。
「この先どうするかを考えていました。ここ一か月の顛末は、すべてこの中に書いてあります。勿論、僕や赤瀬川さんの事が特定されないように、適当にぼかしてはありますが」
僕はそういって、プリントアウトした『片隅』を手渡した。彼とはもう二十年以上の付き合いだ。別に余計なことを言わなくても、これだけ言えば、大丈夫だと思った。下手に言葉を交わすよりも、この作品を読んでもらった方が、僕の気持ちも伝わるはずだ。
「わかった。後で読んでおこう。これからどうするつもりなんだ?」
「もう一度、師匠ために時間を使おうと思います。しばらく旅に出ますので、全力さんをお返しに来ました」
今の僕には逮捕状が出ているかもしれない。前科のある彼が、犯人隠匿の罪に問われぬよう、全力さんを返したら、直ぐにでもお暇するつもりだった。
「義兄のため? 一体どういうことだ」
「相場師としての剣乃征大を知る者は、もはや僕らしかいません。語られても、それはフィクサーとしての側面でしかない。彼が本物の相場師であったことを証明できるのは、僕しかいないと思います」
「そうか。ちょっと待ってろ」
赤瀬川さんはそういって、何も聞かずに事務所の奥へと消えた。そして、かなり厚めの封筒を持って戻ってきた。
「餞別だ。これだけあれば、お前なら一年は潜れるだろう。車もやるよ」
「ありがとうございます。遠慮なく頂きます」
おそらく二百万はあるだろう。別に金をせびりに来た訳ではなかったのだが、お上に居場所を気取られぬよう、ずっと出金できずにいたから、正直、助かった。手持ちの金も合わせれば、当分は楽に暮らせるはずだ。
「で、具体的には、何をするつもりなんだ?」
「その小説を書いてみようと思います。今度は、師匠の若い頃の姿を描くつもりです」
「そういや、お前は物書き志望だったな。食うために始めた相場にどっぷりと浸かって、気づけば兄貴の片棒を担いでたが……」
「そうですね」
僕は苦笑しながら、そう答えた。僕を仕手の世界に引きずり込んだのは、目の前にいる彼である。相場の世界に飛び込んだことを後悔したことは一度もないが、もしあの時、場末の証券会社で赤瀬川さんと出会ってなかったら、僕はまったく別の人生を歩んでいただろう。
「まあ、しばらく物書きをやるのもいいだろうさ。お前の使ってた口座は、俺がいずれ何とかしてやるよ」
「ありがとうございます」
「どうせそのうち時効だ。お前のガラを抑えなきゃ、どうにもならんしな」
「そうですね。稲見先生に話は通ってますから、あの件については全て赤瀬川さんにお任せします。戻ってきた時には、必ずお役に立ちますので」
「ああ……」
「じゃあね、全力さん」
僕は最後に全力さんをひと撫でして、赤瀬川さんの事務所を離れた。旅の支度は既に終えている。
「これから暑くなるし、とりあえずは、涼しい所に向かうか……」
僕はそう独り言ち、新潟方面に車を走らせた。お気に入りの図書館と、昔世話になった温泉があるからだ。角栄の記念館にも、久しぶりに行ってみたいと思った。
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