片隅に生きる人々

伊集院アケミ
伊集院アケミ

第二十三話「第三の選択」

公開日時: 2020年10月30日(金) 00:37
更新日時: 2022年2月11日(金) 02:51
文字数:3,236

「歴史というものは、真実であることを意味しないし、真実である必要性もないってことですか?」

「その通りだ。力ある者に語られたことが歴史となり、伝説となる。お前はヤクザじゃないが、かといって堅気でもない。色んな意味で兄貴と同じだ」


 赤瀬川さんは少し間を開けた後、こう続けた。


「お前は、暗闇の中に輝く一凛の花だ。日の当たる場所に出るべきじゃないんだよ」

「――片隅に生きる人々のために生きろ、という事ですか?」

「そうだ。ロッキード事件も、あと数年もすれば全ての公文書が公となり、角栄を嵌めるための陰謀だったことが証明されるだろう。この世には暴くべき真実と、葬ったままの方が良い真実がある」


 そう語る赤瀬川さんの目には、強い意志を感じた。師匠の義兄弟おとうとである彼の気持ちは、僕だって十分に理解できる。ここは一旦、引くしかないだろう。


「分かりました。赤瀬川さんの言うとおりにします。この作品を、このまま世に問う事はしません。『親の言う事には絶対に逆らうな』と言うのが、師匠の口癖でしたからね」

「それでいい。どうせなら、もっと面白おかしく書いてやれ。その方が余計な腹を探られずに済む」


 そう言って赤瀬川さんは、僕の手から『片隅に生きる人々』の原稿をひったくった。


「フィクションとしてなら、楽しく読ませてもらうよ。悪いがこれから大事な会合があるんだ。夜には体が空くから、久しぶりに酒でも飲もう。まずは、久しぶりに将門と遊んでやれよ」


 そう言って、赤瀬川さんはどこかに行ってしまった。


「うーん、なんか釈然としないなあ……」


 主人のいなくなった事務所で、僕はそう独り言ちた。少なくとも赤瀬川さんだけは、僕のやることに賛成してくれると思っていたからだ。まあいい。赤瀬川さんは、僕が作品を書くことに反対してる訳じゃない。それを、真実として世に問うことに反対しているだけだ。


 手持無沙汰になった僕は、ソファーで眠る全力さんを両手で抱え上げてみた。全力さんは熟睡してるのか、まったく起きる気配がない。僕は久しぶりの全力さんの額にアゴ髭をこすりつけながら、もう半年以上も声を聞いてないユキさんの事を思い出していた。


「ねえ、ユキさん。とりあえず僕は、最初の一歩を踏み出したよ。赤瀬川さんは僕のやることに反対みたいだけど、多分、これでいいんだよね」

「いいんじゃないですか?」

「へっ?」


 それは間違いなく、僕があの日聞いた、ユキさんの声そのものだった。


「私、こう見えて結構忙しいんですよ。貴方が正しいと思う事を、これからもやり続けてください。貴方が道を誤った時には、貴方の心の中の師匠と同じく、ちゃんと叱りに行きますから」


 予想外にユキさんとつながって、僕は狼狽した。そういえばあの時も、「話せるのは全力さんの意識がない時だけ」とか言ってた気がする。ならば、全力さんが熟睡してる今なら、彼女とのやり取りに支障はないはずだ。僕は自分の動揺を悟られぬよう、努めて冷静な口ぶりでこう尋ねた。


「実はね、剣乃さんの過去をなるべく事実に近い形で書いてみたんだけど、赤瀬川さんはそれを世に問うことには反対みたいなんだ。それでちょっと、君の見解を聞いてみたいと思って……」


 僕はつい先ほどの赤瀬川さんとのやり取りと、この四カ月半で起こったことを、全て猫のユキさんに話してみた。


「なるほど。それは、一理ありますね」

「そうかい? 僕は、赤瀬川さんだけは賛成してくれると思ってた。僕を除けば、あの人が一番、師匠の事を考えているはずだからね」

「だからでしょう。真実として世に問う以上、信じてもらえなければ意味がありません」

「勿論、僕だってこんな話が素直に受け入れられるとは思ってないよ。だけど、この作品を読んだ人の何人かが、『そういう事もあったかもな』って思ってくれればそれでいいんだ」

「何故ですか?」

「僕の目的は種を撒くことにあるからさ。何十年かかってもいい。剣乃さんが角栄の盟友であり、美学を持った相場師であったことが、人口に膾炙されればそれでいいんだ」


 猫のユキさんは、少し考えこむような顔をして僕に尋ねた。


「確認ですが、赤瀬川さんは、フィクションとして書くことには反対してないんですよね?」

「うん。だけど僕は物語ではなく、真実として書きたいんだ。じゃなきゃ、もう一度筆を執る意味がない」

「剣乃さんの一番の偉業ともいえる真実を、作り物だとは言いたくないと?」

「その通りだ」

「貴方の言いたい事は、大体理解しました。ともかく、その作品を一度読んでみましょう。コピーは勿論、取ってありますよね?」

「ああ……」


 僕はカバンの中から、『片隅に生きる人々』のコピーを取り出し、机の上に置いた。赤瀬川さんの許可さえ得られれば、片っ端から出版社に送り付けてみる積りだったからだ。僕は物書きとしては素人だが、角栄と剣乃さんのネームバリューがある。食いつく人間は絶対に居るはずだ。


「あの……。めくって貰えますか?」

「えっ?」

「私、こんな手なので」


 そう言って、猫のユキさんは両手をプラプラさせた。


「ああ、ごめんごめん」


 僕はユキさんの指示に従って、原稿をめくったり、戻したりという事を何度も繰り返した。第一部の「日銀特融」の話は、四百字詰め原稿用紙で百五十枚程度の作品だ。そこで止めたのは、あまり長すぎると、誰にも読んで貰えないだろうと考えたからだった。


「とても良く出来ていると思います。少なくとも、貴方の剣乃さんへの思いは伝わりますよ」


 原稿を読み終えたユキさんは、僕にそう言った。だが、良く出来ているという言葉は、「作者の主張がちゃんと伝わる事」を意味する言葉であって、それに賛成する事を意味しない。案の定、それに続く彼女の言葉は、僕の期待したものではなかった。


「ですが私も、この作品を世に問う事には反対です」

「どうして?」

「角栄や剣乃さんが、本当にこの国の将来を思ってなした事だとしても、それを証明することは不可能だからです」

「それは、確かにそうだけど……」

「特融の真実について、書き残している人間が皆無なのが致命的です。第三者が検証して明らかになることは、剣乃さんの金が、角栄に流れたことだけでしょう」


 それは僕も懸念していたことだった。だからこそ、当事者の一人であり、今も存命する赤瀬川さんの力を借りたかったのだ。だが彼は、この物語を真実として世に問うことには反対している。それはやはり、片隅に生きる人間としての自覚が彼の中にあるからだろう。


「やるなら彼の言う通り、フィクションとして書くべきでしょうね。それならば、物語を真に受ける人間はいませんし、角栄の日銀特融という偉業が汚されることもなくなります。しかし……」

「しかし?」

「貴方の思いを叶え、赤瀬川さんの懸念を晴らす方法が一つだけあります」

「どんな方法だい?」

「忘れてしまいましたか? あの箱は伝承者に権力をもたらす箱ですよ」

「あっ……」

「力ある者に語られたことが歴史となり、伝説となる。赤瀬川さん自身が、そう言ってたじゃないですか」


 あの箱は今も車に積んであるが、今となっては単なる荷物入れになってしまっていた。


「君は僕に、この世界で政治家にでもなれって言うのかい?」

「そうは言っていません。あの箱の力を使えば、赤瀬川さんに不義理をすることなく、貴方の願いが叶うと言っているだけです」

「話が良く見えないな。箱の力って、結局何なのさ?」

「とうとう、それを語る日が来たようですね。貴方が突然いなくなるものだから、随分と待たされましたよ」


 そういって、猫のユキさんはニヤリと笑った。ユキさんもまさか僕が全力さんを置いていくとは思ってなくて、ここ数か月連絡が取れずに困っていたらしい。


「あの箱は、伝承者の望む世界線に貴方を飛ばすことが出来ます。つまり、貴方が本気でそれを望むなら、昭和四十年五月二十八日の日本に行くことだって可能だという事です」


「なんだって!?」

「証拠も証人も存在しないなら、貴方自身がそれを作ればいいんですよ」


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