僕は山道を駆け下り、一気に街までに出た。このCR-Xで公道を走るのは、随分久しぶりだ。まずは足のついてない車を手に入れて、ユキさんと連絡を取らねばならない。身の安全が確保されたら連絡をすると手紙には書いていたが、スマホもパソコンも、既にお上に任意提出してしまった。一体どうやって連絡を取ればよいのだろうか?
「まあ、何とかなるさ」
僕はそう呟き、少し車のスピードを上げた。なじみの車屋まではここから百キロぐらいの距離だ。高速なら一時間で着くが、ナンバーが手配されてたら一発でお縄になってしまう。下道なら、Nシステムさえかわせば、まず問題ないだろう。余計なリスクをとることはないと思った僕は、カーナビをNシステム表示モードに変え、そのまま下道を走った。
久しぶりに、『空手バカボン』が聞きたくなった僕は、グローブボックスからCDを取り出し、ナビに挿入した。空手バカボンとは、大槻モヨコ、内田ユウイチロウ、ケラの三人組による伝説のインディーズ・バンドだ。自称、「最後のテクノバンド」である。
彼らの楽曲を初めて聞いた時の衝撃は、今でも忘れられない。『日本の米』というその曲は、納豆の美味い食い方を叫びながら、いまわの際の爺さんから遺産のありかを聞き出そうする息子の歌だった。爺さんの方も大概で、何を聞いても「コメは美味い」としか言わないシュールな曲だ。
大槻と内田は、その後、筋肉少女帯を結成して活動は下火になるが、その筋少の原点は間違いなく空手バカボンにあった。楽曲のレベルが恐ろしく低いだけで、彼らの芸風は十代の頃に既に確立されていたのだ。
今まで何百回と聞いたアケミ先生の声が、スピーカーから流れてくる。そう、僕の通名である【伊集院アケミ】は、このバンドからあやかったものだった。この前説を聞くのも、ずいぶん久しぶりだなと僕は思い、お言葉をちゃんと聞こうと少し車のスピードを落とした。
そもそも、バカボン教の創始者バカボン様は、エチオピアでお生まれになり、諸国を放浪の末、死ね死ね団と戦ったのち、インドの菩提樹の下で涅槃を開き、『バリバリ全開、ぶっちぎりだぜ』という悟りを得られたわけですね。本日は皆様に、そのバカボン様のお創りになった、「なにくそ精神」をご紹介致しましょう。
僕はお言葉を一緒に口ずさみながら、車のスピードを徐々に上げていった。
なにくそのなー、【投げ出さない】
なにくそのにー、【逃げ出さない】
なにくそのくー、【腐らない】
なにくそのそー、【背かない】
お判りになって頂けたでしょうか?
バカボン様は、いつも貴方の心の中に、住んでおられます。
空手バカボンを聞くと、僕はいい意味で全てがどうでもよくなる。現実世界で理不尽な目に遭うたびに、僕は必ず空バカを聞き、なにくそ精神で苦境を乗り切ってきたのだ。この世に宗教は数あれど、これを超える教えはこの世にはない。
「ご機嫌ですね」
「そうかい? まあ、ここまでうまくいくのも久しぶりだしな」
返事をしてから違和感に気づいた。僕に話しかけたのは、一体誰だ?
「ここですよ、ここ」
助手席の方に目をやると、椅子の下でガタガタ震えていたはずの全力さんが、僕の方を見てニヤッと笑った。
「全力さん、何でしゃべってるの?」
「全力さんじゃないですよ。今は代わりに、私がしゃべってます。分かりませんか?」
その口調には、何となく聞き覚えがある気がした。
「もしかして、ユキさんかい?」
「そうです。ここ数か月間、私はこの猫の目を通して貴方の事を見ていました。最終テストはこれで終了です」
「やっぱりそうか」
「やっぱりとは?」
「このタイミングでガサが入るのは、あまりにも出来過ぎだろ? 運び屋にしろ、手紙にしろ、ちょっと芝居がかってるし、きっと何か裏があるんだろうなとは思った」
「流石ですね」
そういって、猫のユキさんは満足げな顔をした。
「で、結果は?」
「勿論、合格ですよ。今日から貴方は、正式にあの箱の所有者です」
「そうか、ありがとう。ところで一つ質問して良いかい?」
「どうぞ」
「本物の全力さんは、どうなっちゃったの?」
「気絶してるだけだから、目覚めれば元に戻ります。私がこうして話す事が出来るのは、全力さんの意識がない時だけです」
「なるほど、了解」
こうやって会話してる以上、全力さんの体に問題はないとは思っていたが、確認が取れてホッとした。
「じゃあ、もう一つ質問。もし、あの手紙の指示通りに全力さんを置いて逃げてたら、結果はどうだった?」
「勿論、不合格です。身内を捨てて自分だけ助かろうという人間に、あの箱を持つ資格はありません」
「戻って良かったよ。まあ全力さんに何かあったら、赤瀬川さんから半殺しにされるから、おいて逃げるっていう選択肢は、元々なかったんだけどね」
「赤瀬川さんって、土佐波さんの事ですよね? 剣乃さんと義兄弟の盃を交わしてた、その筋の人……」
「そこまで知ってたのか、凄いな」
そう。師匠が「土佐波」と呼んでいた彼こそが、僕をこの世界に引き込んだ全力さんの飼い主である。僕がお上に追われても態度を変えなかった、唯一の人物だ。
「赤瀬川さんは、師匠と組んで稼いだ金をどんどん組織に上納してね……現役時代は誰でも知ってるあの組の二次団体として、自分の組も持っていた。彼が、剣乃さんと裏社会の人間を繋いでたんだ」
「なるほど」
「僕がいま向かってる車屋も、赤瀬川さんの息がかかった店だ。辿り着きさえすれば、当分は安泰だよ」
「逃げ慣れてるんですね」
そういって、猫のユキさんは笑った。
師匠が死んだ後、赤瀬川さんは組を解散し、地元である仙台に帰った。だが、マスコミや警察にすら手を回せる彼は、今でも地元のヤクザたちから「長老」として一目置かれている。国分町に店を持つ者で、彼の名を知らぬ者はいない。
娑婆に戻った後の僕は、赤瀬川さんのシノギの手伝いをしながら、東京と仙台の二重生活をして暮らしていた。お上に身ぐるみ剥がれた僕が、もう一度立ち直ることが出来たのは、そういう訳だ。今の僕にとって、師匠の義弟である彼は親同然の人物である。まあ、親にしては、金の巻き上げ方が激しいけれど。
「何にせよ、無事に脱出できて良かったです。もし捕まっていたら、最悪の場合、命を落とす可能性までありました」
「まさか……。流石に冗談でしょ?」
「本当ですよ。あの箱の中には、強力な爆弾が仕掛けられています。貴方が何かヘマをして、第三者に箱を奪われそうになった場合には、こちらで爆破する予定でした」
「……」
どうやら、あの箱に何らかの秘密が隠されているのは、確からしい。異常に重かったのは、中に爆薬が仕掛けられていたせいなのだろう。
「ところで一つ忠告ですが、今すぐ高速に乗るべきだと思いますよ。この車はただでさえ目立つ上に、排気音が凄いですからね」
「排気音?」
「サイレンサーを元に戻してないですよね?」
「ああっ!」
いつもの僕なら、この車で公道を走るときは仮ナンバーとサイレンサーを絶対に付ける。でも今日は、そんな余裕がなかった。
「ナンバーを読み取られることを恐れてたんだけど、確かにその方がいいね。通報でもされたら、下道じゃ逃げ切れない」
「その通りです。ガレージの場所を把握してなかった位ですから、あの二人はナンバーなんて覚えていません。まずは早く店に落ち着いて、箱の中の爆弾を処理しましょう。爆薬の知識を持つ人間が必要ですが、赤瀬川さんなら、きっと手配できるはずです」
「わかった」
いくら彼でも、爆弾処理が出来る人間なんかに伝手はあるだろうかと思いながら、僕は一番最寄りのインターに向かった。後日、赤瀬川さんに依頼され店に顔を出した人物は、あの夜、運び屋の車を運転していた女だったりするのだが、それはまぁ、別の話だ。
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