「アケミー、なんか揉めとるの?」
全力さんが、後ろから突然口をはさんだ。
「ぜ……全力さん、ちょっと黙ってて」
「ん? ツーシーターかと思ってたけど、後ろに誰か乗ってるのかい?」
「えっと……。僕の助手みたいなものなんだ。気にしないでくれ」
CR-Xの後部座席は、「犬でも参るワンマイルシート」と揶揄されたほどの狭い場所だ。普通なら、子どもだってまともに座れない。ましてやそこで猫がしゃべってる。彼女に覗き込まれたら、一発でアウトだ。僕は全力さんに何か食べさせて、寝かしつけてしまおうと思った。
「悪いんだけど、机を少し使わせて貰えないかな?」
「机?」
「ああ、五分くらいでいいんだ」
まずはこの場から、彼女を引き離さなくちゃいけない。
「事務所の机で良かったらどうぞ。せっかくだから、お茶でも入れるよ。二つでいいかい?」
「いや、一つで大丈夫。ありがとう」
「じゃあ、準備してくるね」
彼女は再び事務所に駆けていく。かなり怪しまれたとは思うが、とりあえずこの場は凌げたはずだ。僕は後部座席の全力さんに声を掛ける。
「ねえ、全力さん。今から何か作ってくるから、ここで大人しく待っててくれよ。もう誰も来ないと思うけど、もし誰か来ても絶対に話しちゃダメだ」
「わかった。黙っとくけえ、はようなんか食わせてくれや。もう腹が減りすぎて、このままじゃ夜にしか眠れん」
「はいはい」
食べて寝るのが、全力さんの仕事だ。全力さんにメシを食わすのは、赤瀬川さんから命じられた僕の責務である。僕はアサリの入った飯盒とカセットコンロを持って、事務所に向かった。
「飯盒? 何か温めるなら、奥のコンロをかそうか?」
事務所の中に入ると、さっきの少女が、急須と湯飲みの置かれたお盆をもって奥から出てくるところだった。
「いや、ここで十分だよ」
僕は、事務所の中央にある応接机の上にカセットコンロを置いた。
「それ何?」
「何って、カセットコンロだけど……」
「カセットコンロ? それで火が起こせるのかい?」
「そうだよ。見たことない?」
「ないなあ……。それも、アート商会の発明品かい?」
「いや、そうじゃないけど……」
カセットコンロが発売されたのは、一体いつの事だろう? 単純な構造だから昔からある気がするが、計量器を作ってる会社の人間が知らないのだから、少なくともこの時代にはないのだろう。
「ガスはどうやって引くのさ?」
「ガスなら、このボンベの中に内蔵されてるよ」
僕はボンベが格納されている部分の蓋を開け、彼女に見せた。
「このボンベの中にブタンガスが入ってるんだ。この部分に切り込みがあるだろ?」
「うん」
「接触部がマグネットになっていてね。この部分に本体の凸部を合わせると、綺麗にくっつく。そしたら、中のガスが流れ出すんだ」
「なるほど。圧力をかけて、ボンベの中にガスを充てんしてるんだね。スプレー缶と似たような仕組みだけど、着火はどうするの?」
「このつまみをひねれば、火花が飛んで着火する。電池もいらない」
「なるほど。圧電効果か……」
少女は、点火部分を一目見てそういった。
「圧電?」
「この部分に圧電素子が内蔵されてる。簡単に言えば、火打石みたいなもんさ。原理は理解できるけど、ちょっとやって見せてよ」
僕は実際に着火してみせた。ボンベは海でおろしたばかりだから、火力も強い。
「おお、凄い! これ一本でどれくらい持つの?」
「火力にもよるけど、一時間以上は余裕で持つかな? 場所も選ばないし、便利なもんだよ。たまにしか料理をしないなら、こっちの方が遥かに経済的だ。プロパンガスは高いしね」
「この辺はそうでもないけどね。ガスなら、そこらじゅうで取れるから」
「そっか、そうだったな」
この時代には、まだ内風呂がある家も少ないし、LPガス車も殆ど実用化してないはずだ。個人用には、ガスは大して需要もないのかもしれない。
「海でアサリをとってきたんだ。砂出しはもう済ませてあるから、良かったら、君も一緒に食べるかい?」
「じゃあ、ご相伴にあずかろうかな。お昼ご飯食べてないし」
「ああ。何か簡単なものを作るよ」
僕は飯盒でアサリを茹で、全力さん用に少し取り分けると、残った分で酒蒸しを作った。ショウガはチューブの奴だし、小葱もなかったけど、それなりに美味しかった。何よりも、誰かと一緒に飯を食うのは物凄く久しぶりで、とても楽しかった。
「ご馳走様でした。料理上手だね」
「僕の母親は朝に弱い人でね。機嫌の悪い時にお腹が空いたというと、直ぐに怒る人だった。だから、自分で作るようになったんだ」
「そっか。僕の父さんは優しいけど、発明マニアでね。少しお金が出来ても、すぐに研究につぎ込んじゃう。おかげでいつも家計は火の車だったよ」
「お互い、親には苦労してるな」
「ようやく計量器が当たって、少しは生活も楽になったんだけどね。でも、戦争に負けちゃったせいで、軍の仕事は激減しちゃったしなあ……」
彼女は少し物憂げな顔をした。
「大丈夫だよ。これから一家に一台、自家用車を持つ時代が必ず来る。ガソリン販売を始めたお父さんは、先見の明があると思うよ」
「父さんも同じような事を言ってたけど、本当かなあ……」
「本当さ。応援してあげなよ」
「そうだね」
そんな会話を交わしながら、僕らは後片づけを始めた。そういえば、まだお互いに名前も知らない。
「ところでさ……」
「何だい?」
「これ、ものすごく便利だね。このコンロがあれば、ガレージで作業しながらでも食事がとれる。言い値で買うから、良かったら譲ってくれないか? ガスなら、付き合いのある業者で充填できると思うし」
卓上のカセットコンロを指さしながら、彼女はそう言った。この辺は天然ガスが豊富に産出するから、充填の話は多分本当なのだろう。
「とてもありがたい話だけど、これがないと僕も困るんだ。ゴメンね」
「そうか、残念」
「それよりも、君のルートでガスが手に入るなら回して欲しいな。予備があと二本しかないんだ」
「それは別に構わないけど、流石にタダって訳にはいかないよ。やっぱり一度、会社に戻った方がいいんじゃないのかい?」
「うん……」
今この場所を離れたとしても、僕には先がない。良いアイデアも浮かばないまま黙り込んでいると、彼女が急に変なことを言い出した。
「あのさ、どんな事情があるのか知らないけど、もし会社に戻りたくないのなら、しばらくの間、こっちにいたらどうかな?」
「えっ?」
「少しなら、お金も貸すよ。僕は営業時間の間しかここにいないから、寝泊まりをする場所がなければ、夜はあのガレージを使ってもいい」
何故突然、彼女が考えを変えたのか、僕にはよく分からなかった。
「とてもありがたい話だけど、ガソリン以外に渡せるものが、何もないよ」
「貸したお金を完済するまでは、そのコンロを担保として預かる。その条件でどうだい?」
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