片隅に生きる人々

伊集院アケミ
伊集院アケミ

第四章「角栄の行方を追え』編

第四十話「角栄邸」

公開日時: 2020年11月1日(日) 16:06
文字数:2,453

 愛車に乗って、ソラさんの所を勢いよく飛び出したものの、角栄を探すための具体的なプランがある訳じゃなかった。そもそも、選挙に出るのが田中きくゑという女性である以上、この世界に角栄が居るのかどうかすら定かではない。


 史実の彼は、終戦直前、朝鮮半島南部の大田テジョンという場所にいたはずだ。陸軍航空本部の命令で、理研工業のピストンリングの工場設備を移設するため工事を、田中土建工業で請け負ったのである。建築費の総額は、二千四百万円(現在の価値で百五十億円)の大工事だった。だが、この世界線で角栄が朝鮮に渡っているかは、勿論、僕には分からない。


 兎にも角にも、角栄の実家に行ってみるより他にない。二田村の方に向かう途中に闇市を見つけたが、和服は物凄く高かったので、二十円で国民服を買った。戦時中には、ほとんどの男子が来ていたものだから、これさえ着てれば目立つ事は無い。正直、格好悪いけれど、背に腹は代えられなかった。


 僕は村のはずれに車を隠し、購入した国民服に着替えた。自分は朝鮮から引き揚げてきた田中土建工業の社員だという設定にして、数人に角栄の事を尋ねてみたが、誰も彼の事は知らなかった。ただ、きくゑさんの準備してる、選挙事務所の場所だけは何とか分かった。


 事務所の周辺には何となく見覚えがあった。多分ここは、僕の元居た世界で田中角栄記念館の建っていた場所だ。過去に二度ほど足を運んだことがある。僕は初めて、この世界が自分の生きていた世界とつながっていることを実感した。


「あそこか……」


 僕は極力平静さを装いながら、事務所前を掃き清めている男たちに近づいた。その中でも一番地位の高そうな、番頭らしき男に声をかける。


「お忙しい所、申し訳ありません。私は伊集院と申しまして、朝鮮にいた時分に、田中さんに非常にお世話になった者です」

「旦那様に?」


 番頭らしき男が、いぶかしげな眼差しでこちらを見る。相当怪しまれてはいるが、この世界線に、角栄が存在しないという事はなさそうだ。


「はい。きくゑさんに渡すよう言付かっている品がありまして、それで参上いたしました。もっと早くにお伺いしたかったのですが、引き揚げにも色々と時間がかかりまして……」


 勿論、そんな品は本当は存在しない。こんな時間に突然訪れて、きくゑさんに会える訳がないのだから、品は後で用意すればいい。今はまず、次の約束を取り付け、向こうから情報を引き出すことが肝心だ。


「そうですか。それでは、こちらでお預かりいたしましょう」

「いえ。ご本人に直接渡すよう、田中さんからきつく言い含められております」

「奥様は現在、選挙のための準備中です。時間を作るのは難しいかと思いますが……」

「存じております。正確な住所がわかりませんでしたので、こうして出向いてまいりました。日を改めますので、どうかお時間を作っていただきたいのですが……」

 

 明らかに警戒されている様子だが、一つ分かったことがある。角栄ときくゑさんは夫婦だという事だ。この番頭は、きくゑさんの事を【奥様】と呼び、角栄のことを【旦那様】と呼んだ。それ以外の関係は、まずありえない。


 やはりこの世界線での角栄の妻は、『はな』ではなく、きくゑさんなのだろう。角栄が今、どこに居るかは勿論分からないが、亭主から預かっている品があると言っている人間を、無下にする妻もいないはずだ。


「奥様にお伺いを立ててきますので、少々お待ちください。失礼ですが、下の名前も教えていただけますか?」

「アケミです。伊集院アケミ。ですが、奥様は私の事は知らないと思います」

「何故ですか?」

「現地で直接雇用されたものだからです。私は理化学研究所の関係者としてソ連軍から尋問をうけていたため、こうして引き上げが遅れたのですが、田中さんは日本に戻っておられますか?」

「いえ……。旦那様の消息は不明のままです。引き上げ船に乗船した記録もありません」

「そうですか……」

「会社は、奥様が立派に継いでおられますが……」


 角栄は、軍と関係の深かった理研の総帥である大河内と懇意なうえ、戦前から多数の政治家とのつながりを持っていた。民間人とはいえ、逃げ遅れたのであれば、ソ連軍に勾留された可能性は十分にある。


「私が預かった品の中には、奥様への手紙も入っておりました。勿論、何が書いてあるか私は存じませんが、行方を探る手掛かりにはなるかもしれません」

「わかりました。とにかくお伺いを立ててまいりますので、こちらでお待ち下さい」


 僕は事務所の中に通された。角栄の部下であることは信じてもらえたらしい。パイプ椅子に腰かけ、お茶を頂く。壁一面に、テレビでよく見る『必勝』の文字がずらっと並んでいた。添え書きした名前の中には、【内閣総理大臣 幣原喜重郎】の名もあった。


「幣原さんも、こちらまでいらっしゃったんですか?」

「まあね。来るには来たが、すぐに帰っていったよ。その一枚を貰うのに、きくゑさんが一体幾ら積んだことか……」


 選挙戦が、あまり上手く行ってないのだろうか? そう語る事務員の口調には、少しとげとげしいもの感じられた。あまり余計な口は叩かない方がいいかもしれない。黙ってお茶を飲んでいると、事務所の奥から先ほどの番頭が出て来て、僕に言った。


「奥様がお会いになるそうです。但し、時間は五分。後のスケジュールが詰まっておりますので、必ず時間内に終わらせてください。後日、あらためて時間は作ると申しておりました」

「ありがとうございます。突然来たのに申し訳ありません」


 努めて冷静に答えたものの、まさか今日会えるとは思わなかった。これじゃ只の失礼な奴だ。兎にも角にも、きくゑさんに会える。後は、僕の腕次第だ。


「お待たせいたしました。私が家内のきくゑです」

 

 長い黒髪をたたえた和装の女性が事務所の奥から出てきた。「本当にあの角栄が選んだのかな?」と疑問に思うほどに美しい女性だ。全てを見通すかのような涼しい目をしていて、少し怖い。冬目景の漫画に出てくる美女のような感じといえば、分かる人にはわかるかもしれない。


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