僕は再び箱の事を考えた。土方の後の伝承者の名前はハッキリとは憶えてないが、職業軍人の元を転々としていたように記憶している。ともかく戦争が終わった後、角栄に箱が渡った事だけは確実だった。
そこから約五十年。九十三年まで箱は彼の元にあり、彼の死後、盟友であった師匠が箱を受け継いだとされている。師匠が死んだのは九八年。つまり、僕が師事していた時期と、彼が伝承者だった時期はほぼ重なる訳だ。
その後の空白の二十二年間の間に、箱が誰の手元にあったのか、何人の伝承者が居たのかはわからない。ユキさんは、関係者が存命の内は伝承者について明かすことは出来ないと言っていた。確かなことは、箱は一旦、僕のよく知る人物に受け継がれ、その死後に僕のものになったという事だけだ。
死んでいるのだから、僕の前の所有者は赤瀬川さんではない。その人物が今年死んだのか、あるいはもっと以前に死んでいたのか、それすらもわからない。分からないことを考えても仕方ないから、分かっていることを良く調べようと思って、僕はこの土地にやってきたのだった。
僕は旅館の風呂に入った後、食事を終わらせ部屋で休んでいた。姉のキクヱとも少し話したいと思ったが、戻ってきた時に一度挨拶をしたっきり、宿の仕事の手伝いを始めてしまって、ほとんど口もきけなかった。
明日に備えてさっさと寝るかと思った時、もう夜も遅いというのに、ハナヱが平気な顔して僕の部屋に入ってきた。
「アケミ兄ちゃん! 今度は何をやらかしたの?」
「今度ってなんだよ、別に何にもしてないよ」
「うそだー! 何の理由もなくて、こんな田舎に来る訳ないよ」
別に大したことはしてない。相場操縦の嫌疑をかけられて、金融庁に追っかけまわされてるだけだ。
「なんだって急に物書きなんて始める気になったのさ。ゲーム屋さんになって、自社の作品をアニメ化するんじゃなかったの?」
ハナヱは夕方の話を蒸し返した。
「残念ながら、その夢は破れたんだ。相場もあんまり調子よくないしね」
「そうなんだ」
「剣乃さんの事を覚えてるかい?」
「忘れるわけがないよ。剣乃さんと赤瀬川のおじちゃんには、お年玉も一杯貰ったしさ」
そういえばそうだ。年始はいつもここだったから、僕がまだ学生だった頃は、まるでここが実家みたいになっていたのだ。
「お姉ちゃんにはもう会った?」
「いや、まだ会ってない。キクヱちゃんは、大学時代はずっと東京だったんだよね?」
「私だって行ったもん」
「ハナヱは半年で帰って来たんだろ?」
「それは、そうだけどさ」
「ハナエは昔とちっとも変わらないよ。でも、それが君の良い所でもある」
わりかし素直な気持ちで、僕はそう言った。だがいつも、お姉ちゃんと比べられているハナヱには、それはかなり嬉しい言葉だったらしい。
「私ね、奨励賞を貰った時、物凄く泣いたの。やっとプロの人たちに、自分の文章が認められたんだってね」
それでも嬉さは七割ぐらいで、残りの三割は受賞できなかった悔しさだという。賞金が十倍も違うそうだ。
「大賞なら書籍化も確約だったのにな……」
「奨励賞だって立派なものさ。色んなことをやったけど、僕は結局、相場以外はなんにもモノにならなかった」
そしていま、僕はその相場のせいでお上に追っかけまわされている。
「ありがとう。でも姉さんは、私の事をちっとも褒めてはくれなかったんだよ。ああ見えて、けっこう性格がきついんだよね」
「そうなんだ」
「うん。もう二十二歳なんだから、家に居るならお金を入れるか、ちゃんと働きなさいって。私だって、旅館の仕事はちゃんと手伝っているのに……」
ハナヱの味方をしてやりたいが、姉の気持ちもわからないではなかった。彼女はハナヱと違って、司書の仕事もこなしながら家業を手伝っているのだ。ずっと家で小説を書いていて、あまり手伝いに身の入らないハナヱに不満を感じても、それは仕方のない事だろう。
十日町には、あの図書館くらいしか名物がない。昔みたいに反社の人たちを、おおっぴらに迎え入れることも許されない。もし温泉と、キクヱの手伝いがなかったら、水落旅館はとっくに潰れているはずだ。
「ねえ、お兄ちゃん。責任を取ってよ」
「何の責任?」
「お兄ちゃんが、面白い本を一杯送って来たから、私は小説を書き始めたんだよ。ちっちゃいころは、お姉ちゃんと奪い合うようにして読んでたんだから」
「ハナヱをこんな風にしたのは僕ってことか。青は藍より出でて藍より青しとは良く言ったものだな」
「そうそう。何か大きな賞を受賞したら、『お兄ちゃんのお陰でここまで来れました』ってコメントしてあげるね」
要らなくなった漫画や小説を、捨てるよりマシだと一方的に送り付けてただけなのだが、その事は黙っておこうと思った。
「私ね、いつも姉さんに叱られてばっかりいるの。確かにただの奨励賞だけど、編集さんだって、ちゃんと付いたのに」
「そうなの?」
「うん。しっかり手をいれて、一緒に書籍化を目指しましょうって、編集さんも言ってくれたんだよ」
「すごいじゃん。おめでとう! 僕の代わりに、ハナヱは自分の夢を叶えてくれよ」
「うん、頑張る。だから私、書籍化の目途が経ったら、また東京に出るかもしれないわ」
夢に向かって邁進するハナヱを、僕は少し羨ましいと思った。誰かに評価されたくてやってたわけではないが、僕も同じ創作者の気持ちで相場に挑んでいたからだ。美しいチャートを描くことと、絵や音楽を作ることに、一体どんな差があるというのだろう?
「でも、お兄ちゃんがちゃんと堅気になって、相場も止めてくれるって言うなら、私、お兄ちゃんと一緒になってあげてもいい」
ハナヱがふと呟くようにそう言った。
「えっ?」
「あっ、小説を諦めるって意味じゃないよ! 今は打ち合わせでもなんでも、ネットで出来る時代だしね」
ハナヱは笑っている。だけどその目は笑ってない気がした。
僕は少し考えてから、こう答えた。
「どうぞ、東京に行かれてください。水落先生の、一層のご活躍をお祈り申しあげております」
まるで不採用通知の様な僕の言葉を聞くと、ハナヱは思わず吹き出した。
「お兄ちゃんひどいわ。ひどすぎて、鼻が出ちゃった」
「ハナエの方がひどいだろ? 僕が一度、結婚に失敗したことあるの知ってるくせに。第一、僕が相場を辞められるはずないじゃないか」
「そりゃそうだね。でも今回は、書きものに集中するって言ってたからさ」
とはいえ、僕はちょっとご機嫌だった。年の離れた妹のような存在とはいえ、年頃の女の子に好意を示されて嬉しくないはずがない。
「私ね。昨日、夢を見たの。アケミ兄ちゃんが、立派なタキシードを着て、お姉ちゃんも素敵なドレスを着て、二人が私の授賞式で泣いている夢」
「そうか」
「私も嬉しくて、夢の中でずいぶん泣いたわ。そしたら、あんまり泣きすぎて、自分の嗚咽で目が覚めちゃった」
「あはは。正夢になるといいね」
「そしたら、いきなり来るんだもん。びっくりしちゃった」
ハナヱはその後も、自分の小説を僕に読ませようとしたり、まだ東京に居た頃の話をまくしたてたりして、遅くまで機関銃のように話を続けていた。でもそれは、別に不愉快な時間ではなかった。
思い出補正を別にしても彼女の話は面白く、ハナヱが真面目に小説家を目指しているという話は、ウソではない気がしたのだ。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!