「キクヱちゃん。良かったら、僕の車に乗っていかないか? 僕もこれから情報館の方に行くんだ」
翌朝、朝食を早めに済ませた僕は、キクヱちゃんにそう声を掛けた。夕方、戻ってきた彼女は、挨拶もそこそこに宿の仕事の手伝いに出てしまい、昨日は殆ど話せなかったからだ。
「少し離れた場所で降ろしてもらえるなら……。職場の人たちの目もありますので」
キクヱはそう答えた。連泊だから、荷物をまとめる必要はない。僕は受付で鍵を預けると、車の中でキクヱちゃんを待った。
「情報館は九時からだよね。何時までにつけばいいの?」
「八時半です。十日町車庫のバス停辺りで降ろしていただければ、助かります」
「わかった」
時刻はまだ、八時を回ったばかりだった。のんびり走りながら、昔話をするくらいの時間はあるだろう。
「司書の試験に現役で受かったんだってね。凄いじゃないか」
「地元に戻りたかったですし、私には勉強しか取り柄がありませんから」
「それでも凄いよ」
キクヱちゃんは、現役でお茶の水女子大学に進んだのだと、昨日僕はハナヱから聞いた。ちなみにハナヱは同じ時期に、東〇学院映画専門学校に入学したが、半年で中退して、直ぐにこっちに帰ってきたそうだ。
なんでも、あ〇〇〇〇〇るの講義を聞いて、「こんなものを聞くのに、時間とお金を使うのは人生の無駄だ」と感じたらしい。まあ、入る前に気づけよって感じではあるが。
「どうして、急にいらっしゃったんですか? 十年以上もいらっしゃらなかったのに」
キクヱちゃんが僕に尋ねる。
「僕の師匠の剣乃さんや、角栄について調べなきゃいけない事情が出来たんだ。あと、幕末の頃の志士たちについても色々知りたいと思ってる。力を貸してもらえないかな?」
「資料探しならお手伝いできますけど、在住者にしか、資料の貸し出しは出来ませんよ」
「大丈夫。今回は、結構長くいるつもりなんだ。どうしても、貸し出してもらいたいときは、ハナヱちゃんに頼むさ」
「聞かなかったことにしておきます」
そういって、キクヱは少し笑った。
「ハナヱちゃんは、小説家を目指してるんだってね。逆なら分かるけど、最初はびっくりしたよ」
「長岡に居る親戚の真似事ですよ。私たち、高校時代は長岡に居たんです」
「長岡に?」
「ええ、母が私たちを長岡高校に進ませたがったので、二人ともその親戚の所に三年ほど下宿していたんです」
その家に男の子が一人いて、小説家を目指していたのだという。結局ものにならなくて、大学卒業と共に筆を折り、今は教師をしているそうだ。
「奨励賞の話は、もう聞きました?」
「ああ。その話なら、ハナヱから散々聞かされたよ。賞金も十万円ほど出たって」
「はい。担当編集もついたとの話で、それからハナヱは小説の方に夢中になりました。それは別に構わないのですが、家の手伝いの方が、最近おざなりになっているのです」
「そうか……。それは良くないね」
「はい。正直に申しまして、ハナヱの受け持ちの仕事まで、ほとんど私がやっているような状況なのです」
今日のハナヱの雰囲気を見る限り、キクヱの言っていることは本当なのだろう。キクヱは情報館での仕事を終わらせた後、旅館の仕事まで手伝っている。公務員だから無償のはずだ。
「最近は旅館の経営も思わしくなく、新しく人を雇う余裕もありません。仮にお金があったところで、こんな田舎の客商売を手伝ってくれる人も、なかなか見つからないと思います」
「そうなんだ……」
お上の事が無ければ、僕がここに住み込みで働きながら小説を書いても構わないのだけれど、そもそも僕に、旅館の仕事がこなせるか疑問だった。
「僕の方から、少しハナヱに言って聞かせようか?」
「えっ?」
「キクヱちゃんが司書の仕事もやりながら、家業を無償で手伝っているというのに、ハナヱが家で好きな事ばかりやっているというのは、ムシが良すぎるよ」
「いえ、そういう事ではないのです。私も母も、ハナヱの夢は応援したいと思っています。ただ……」
「ただ?」
「ハナヱの小説というのは、本当にお金になるものなのでしょうか?」
母もいい歳だし、父はとっくに亡くなっているから、水落旅館は母の代で終わりだ。正直な話、ハナヱがちゃんと自立できるのなら今すぐ畳んでも良いと、二人で話しているのだと言う。
「私は公務員ですから、旅館がなくなっても何も心配はありません。ですが、あの子の将来が心配なのです……」
「それで突然、あんなことを言い出したのか……」
「えっ?」
「いや、こっちの話」
僕は昨晩のハナヱの必死な様子が、少し理解出来た気がした。
「あの子はまだ二十二です。姉の私が言うのもなんですが、とても気立ての良い子です。今からでも、勤め先を探すことは可能だと思います」
どうしても働きたくないのなら、誰か堅いお勤めをしている方の元に、お嫁に行っても構わない。彼女がその気なら、縁談の当てを幾らでも持ってこれるのだと、キクヱは僕に説明した。
「しかし、結婚は出来たとしても、ハナヱはあまり家事が得意じゃなさそうだ。家の事もロクに出来ないのに、小説を書いていくことを、相手の方が認めてくれるかどうか……」
「はい、それが頭の痛い所です。ですからまずは、お勤めに出て欲しいと思っているのですが……」
キクヱは多分、ハナヱが小説で喰うのは無理だと思っている。でもそれを、キクヱが言ったところで妹は聞く耳を持たない。だから、多少なりとも業界の事を知っている僕から、彼女に引導を渡して欲しいのだ。
どちらの気持ちも僕は理解できるし、どちらかが間違ってる訳でもない。確かなことは、止めろと言われて止められるような人間には、創作は向いてない事だけだ。もう少し家の手伝いに身を入れるべきだとは思うが、僕はきっと、ハナヱに『筆を折れ』とは言わないだろう。
「朝からこんな話をしてすみません。ではまた」
僕はバス停で彼女を降ろし、周辺を散歩して三十分ほど時間を潰した後、素知らぬ顔で情報館に向かった。
十日町情報館は、『図書館戦争』のロケ地にもなったとても大きな図書館である。当時の僕は開館と同時にそこに飛び込み、一日中本を読んだり、気になった言葉を書き取ったりして暮らしていた。閉館後は近くにあるスパ銭に入って身を清め、そこも終わると道の駅に車を停め朝まで寝ていたのだ。
そんな生活を、もう一度やってみようかなと思ったのである。
この物語はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係がありません。
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