「もう一度、貴方を伝承者とすることは不可能ではないですが、いきなり行方をくらませちゃう人を、上の人間が所有者として認めるかどうか……」
「ちょっ! そういうことは早く言ってよ!」
「だから言う前に、貴方が消えちゃったんじゃないですか! 危うく、テストした私の首が飛ぶところでしたよ」
そういうと猫のユキさんは、「やれやれだぜ」みたいな仕草をした。見た目が全力さんなだけに微妙にムカつくが、ここでキレたって仕方ない。
「悪かったよ。で、その四〇二六時間まで、あと何時間残ってるのさ?」
「四時間くらいですかね。正確に言うと、あと三時間と五十二分八秒です」
「四時間!?」
「いやだから、三時間と五十二分ですって。あっ、今五十一分になった」
「なんだよ、もう! 赤瀬川さんにお別れを言う時間もないじゃないか!」
「大丈夫。フォールドすれば、ちゃんと若い頃の彼に会えますよ。ヤクザだけど」
「いや、赤瀬川さんは初めて会った時から、ずっとヤクザだし……って、そういう話じゃなくてさ!」
混乱する頭の中で、僕は必死に考えた。今すぐ昭和四十年に飛ばなければ、伝承者としての権利が失効するなら、僕が今やるべき事は、そのための準備のはずだ。
「あーもういいよ! とりあえず、出かけてくるから、ユキさんはここで大人しくしててね!」
「どこに行くんですか?」
「古物商に行って、手持ちの金を、昭和四十年で使える金に換えてくる。後の事は、動きながら考える!」
「じゃあ私は、時空移動の準備をしときますねー。時間厳守でお願いしますよー」
猫のユキさんは、能天気にそう答えた。
昭和四十年で使える金は、聖徳太子の一万円札と、伊藤博文の千円札。五百円札は岩倉具視だけど、まだ青くはない奴だ。五千円札は、一体誰だっけ?
などと考えながら、僕は事務所の階段を全速力で駆け下りた。
車に乗り込んだ後、僕は仙台市周辺の古物商を全て見て回った。そして、昭和二十一年の新円切り替えから、昭和四十年までに発行された古札と古銭を買えるだけ買いあさった。結構ボラれたものもあったけど、額面の五倍までは、何も言わずに言い値で買った。昭和四十年の一万円には、現在の五倍から十倍の価値はあるからだ。
僕は、入手した古札と古銭をカバンに詰め込み、車の中の箱と荷物を全てCR-Xに移し替えた後、赤瀬川さんの事務所に戻ってきた。そして、直ぐに彼宛の手紙を書き出したのだ。
拝啓 赤瀬川アキラ様
やむを得ぬ事情により、突然旅立つことになりました。全力さんを、少しの間お借りしていきます。親の愛猫を勝手に借り受け、何のご挨拶もせずに立ち去る無礼をどうかお許しください。
いつ戻ってくるか、はっきりしたことは分かりません。明日ひょっこり戻ってくるかもしれないし、もう二度と帰ってこない可能性もあります。全力さんだけでも、なるべく早めにお返ししたいと思っていますが、お約束できないのが本当に申し訳ないです。
一つだけ質問というか、予測というか、もし今晩一緒にお酒が飲めたら、尋ねてみたかったことを書いておきます。
師匠や赤瀬川さんがまだ若い頃、ちょうど昭和四十年の日銀特融が成るかならないかの頃に、今の僕にとても良く似た、怪しい男と関わり合いになった事は無かったでしょうか?
僕はきっと、そんな男に出会った事があるんじゃないかなと思っています。そしてもし、そういう出来事があったとしたら、それが今、僕が旅立たなければならない理由です。
多分、赤瀬川さんには、僕が何を書いているか分からないでしょうし、厳密に言えば、その男と僕とは無関係です。それでも、その男が居たからこそ、今の僕があるんだと思います。
前回の旅に出る少し前、僕は剣乃さんの遺品であるという、ある箱を手に入れました。その箱が本当に師匠の遺品だったのか、僕には今だに分かりません。もし目論見通りに師匠に会う事が出来たら、どうやってこの箱を手に入れたのか、直接尋ねてみるつもりです。
もし赤瀬川さんが口座とお金を貸してくれなかったら、僕は相場に復帰することも叶いませんでした。そして、相方を失った時点で、生きる気力を失っていたと思います。赤瀬川さんと、貴方の連れてきた全力さんが居たからこそ、僕はこれまでなんとか生きてこられたんです。
(この手紙は遺書ではありません。慌てて警察に駆けこんだりはしないで下さい。この箱は師匠の遺品ではないかもしれませんが、少なくとも、僕の人生を変える箱にはなるはずなのです)
もし全力さんが何年も戻ってこないようでしたら、せめてものお詫びとして、口座に残ってるお金は赤瀬川さんの自由にしてください。お預けした『片隅に生きる人々』の原稿をどうするかも、全てお任せいたします。僕はいま、冷静にこの手紙を書いていますが、この手紙の存在が、僕の頭がおかしくなってしまったことを証明してくれるでしょう。
赤瀬川さんならきっと、この手紙をうまく使えると信じています。
師匠と赤瀬川さんは、父親のいない僕にとって、親以上の存在でした。それは単に盃事の関係を意味するのではなく、心の底からそう思っていました。実の親からは見捨てられ、仕事仲間からは裏切られ、良い友を持つことも叶わぬ男でしたが、素晴らしい親と叔父を持つことが出来たことを嬉しく思っています。
沢山ひどい目に遭ってきましたが、相場を始めたことを後悔したことは一度もありません。相場は、命の次に大切な金を奪い合う場所あり、生きて帰ることすら難しい戦場みたいな場所ですが、そこで培われた信頼関係よりも重いものは、この世には存在しないと思っています。
僕は、お二人の全盛期に立ち会うことは出来ませんでしたし、独り立ちした頃には、師匠は既にこの世の人ではありませんでした。ですが、赤瀬川さんに見初められ、剣乃 征大の最後の弟子として、その相場人生の最終盤に立ち会えたことは、僕の一生の誇りです。
もう二度と会えないかもしれないので、シラフだったら絶対言えないような、恥ずかしい事ばかりを書いてきました。もし僕と全力さんがひょこっと戻ってきたら、この手紙に書いてあることは全部忘れて、これまで通りにしてください。これまでお世話になったことを、本当に、心から感謝しています。
偉大なる相場師の最大の友であった人に、感謝と畏敬の念を込めて。
伊集院アケミ
箱の発動までに残された時間は、あと十五分を切っていた。
「書きたいことはいくらでもあるけど、もう時間がない。とりあえずはこんな感じでいいだろう」
「では箱の力を使って、昭和四十年にフォールドする準備が出来たという事でよろしいですね?」
「ああ。手紙の内容に、何か問題はないかい?」
「特にないと思います。というか、貴方が【最初の一人】じゃないことに、気づいた事には感心しました」
「世界線の分岐とは、全く別の世界が生まれることを意味するのではなく、ほとんど同じ世界が、無数に生じていく事を意味するのです。貴方が昭和四十年にフォールドして何かをやれば、これから先に生まれる世界線にもまた、貴方のような人が登場し、似たようなことをやるでしょう」
ユキさんは、僕にそう言った。つまり今の僕が、その貴方のような人だ。僕は最初の一人なんかじゃない。歴史の因果律によって過去に飛ぶことを宿命づけられた、その他大勢の一人だ。
だからこそユキさんは、世界線の安寧と秩序を守るために、今僕をフォールドさせようとしている。
「自分の人生はマンガみたいだな……って、前から少し思ってたんだ。今日の君の話を聞いて、全てが腑に落ちたよ」
「何しろ、『事』が特融ですからね。因果律を破壊するのも難しいでしょう。とはいえ、説得に時間を取られなかったのは、私としては助かります」
そう言って、猫のユキさんは少し笑った。
勿論、もし僕がここで過去に飛ばなければ、因果律を打破することが出来るだろう。そしたらきっと、これまでの歴史とは違う新たな世界線が生まれるはずだ。だがそれは、僕の大好きな人たちが皆、不幸になることを意味する。
たとえどんなに腹立たしい運命だろうと、そんな決断は僕には出来ない。
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