新しい生活が始まった。日中はずっと情報館に籠り、師匠との過去の思い出を次々とノートに書き写していった。眠ってる記憶を呼び起こしたり、頭の中を整理するためには、自分の手で書きだしてみるのが一番いいからだ。
水落旅館で身を清めた後は、直ちにファミレスに向かい、その日の纏めを整理する。閉店後は道の駅に向かい、そのまま車の中で眠っていた。夜明けと共に目覚め、ストレッチをしたり、これまで書いたノートを読み返したりして時間を潰しながら、開館と共に再び図書館に飛び込む。そんな毎日を、僕は三か月近くも繰り返した。
過去の記憶を書き止めた創作ノートは、山のように溜まっていった。師匠との思い出だけではなく、角栄を中心とする戦後日本の政治経済史や、あの町で過ごした日々の中で思い浮かんだ妄想の全てが、そのノートの中に全部詰まっているのだ。
その創作ノートは、今でも僕の手元にある。自分の人生に迷った時、僕は必ずそのノートを読み返し、軌道修正を図る。当時の僕が思った事、もう一度人生をやり直せるとしたら、これから何をすべきで、何をすべきでないのかが、そのノートの中にはまるで預言書のように書かれてあるのだ。
この段階になって初めて、僕はパソコンを購入し、ノートの中の思い出の欠片を眺めながら、誰に見せる当てもない師匠の物語を綴り始めたのだった。
僕のこの行動は、この小説を読んでる読者には、きっと馬鹿げたことのように映るだろう。だが、僕があの町で過ごした数か月間は、ウソばかりのこの物語の中ではっきりと言うけれども、僕の人生の中で最も充実した、幸せな時間だった。何の見返りも求めず、自分にとって一番大切な人のために使った、純粋な時間だったからだ。
僕は、あの頃の自分を尊敬している。創作というものは、本来そう言うものであるべきだと、心の底から信じているからだ。あの頃の僕が今の僕を見たら、「堕落しやがって」と背中を蹴り飛ばすだろうが、それでも僕は出来る限り、当時の僕のように生きたいと願うのだ。
気づけば僕が十日町に来てから、四か月近くが経っていた。季節はもう車中泊には辛い時期である。
元々この土地は、真夏でも夜はエアコンが要らないほど冷涼な土地だ。師匠の物語の第一部を脱稿した僕は、一旦仙台に戻ろうと決めた。最後にもう一度、僕は水落旅館に泊まり、姉妹たちとの別れを惜しんだ。
「長い事世話になったね、キクヱちゃん。おかげで原稿も進んだよ」
「私は資料探しをお手伝いしただけですから……。お仕事が上手くくことを願ってます」
「ハナヱも自分の小説を頑張ってね。本が出るのを楽しみにしてるよ」
「うん。まかせといて、お兄ちゃん!」
「もし僕の身に何かあったら、その時はよろしくね」
「うん……」
僕がこんな話を切り出したのには訳がある。昨日の夜、僕は遅くまで彼女と一緒に過ごし、少し真面目な話をした。伝承者の人生は、最後は悲劇に終わると決まっている。だから僕は、僕より二回り近く若くて文才もある彼女に、語り残せることを全部語っておこうと思ったのだ。
僕はハナヱに、赤瀬川さんに渡したあの小説(この小説の第一章とほとんど同じだ)と、この土地で書いた師匠の物語の第一部の写しを渡した。そして、第二部以降の構想をなるべく丁寧に彼女に話した。
この地で書き上げた作品は、剣乃さんから聞いた角栄との出会いの話だった。小説の形をとってはいるが、嘘は殆ど交えてない。むしろ僕はこの四か月間、師匠の言葉の裏付けをとるために、資料調べに奔走していたのだ。
「お兄ちゃんは何のために書くの? お兄ちゃんの作品を一番喜んでくれる人は、もうこの世にはいないのに」
ハナヱが僕にそう尋ねた。
「いないから書くんだ。僕が消えたら、剣乃さんも消える。人間としての彼を語り残す人は誰もいなくなる。僕にはそれが我慢ならないんだ」
「剣乃さんの素晴らしさを、世に知らしめたいってこと?」
「それもあるけど、本当の理由は多分違うと思う」
「じゃあ何?」
「僕は多分、僕が一番、彼を愛していたことを証明するために書くんだ」
「家族よりも?」
「うん、家族よりも。というか剣乃さんは、実の家族からは目の敵にされていたよ。案外、良い所のお坊ちゃんだったからね」
師匠の実家は結構な名家で、上場企業の役員や、医者や、マスコミの上層部に居る人間が沢山いた。親族は皆、東大法学部か、旧帝大の医学部ばかりだった。師匠は、『早稲田なんかに入った落ちこぼれ』だったのだ。
「師匠は実家と絶縁して相場の世界に入った。そして勝つために、政治家やヤクザの金をガンガン使った。剣乃という名前には、実家に弓を引き、堅気の世界には戻らないという強い意志が込められているんだよ」
師匠の本当の名字は菅野という。彼は財務大臣だった時代の角栄との太いパイプを築き、幾多の危機を乗り越えて、表面的には堅気のまま死んだ。だが菅野の名を捨て、筋者の赤瀬川さんを義弟とした時点で、真っ当に生きるという意識は本人にはなかったと思う。
師匠は決して家庭を持とうとはしなかった。親族の事を憎みながらも、自分との繋がりを悟られぬために、表舞台に立とうとはしなかった。堅気には迷惑をかけるなと口癖のように言った。
「実の親にすらまともに愛されなかった師匠は、『血』というものを憎んでいた。親が優秀なら子も優秀だとか、『親は子を愛し、子は親を愛すものだ』といった概念を、心の底から否定していたんだ」
だからこそ、赤瀬川さんのような極道や、僕みたいな親に捨てられた人間を好んで近くに置いた。そして、血の繋がりなどなくても人はちゃんと家族になれることを、自分の人生で証明しようとしたのだ。
「師匠は別に、家族制度そのものを否定してた訳じゃない。むしろ、擬制的な家族関係を回りとどんどん築いていった。師匠が人生を賭けて否定していたのは、『血縁関係』だ」
「血縁関係……」
「だから、剣乃さんは家庭を持とうとしなかったんだね」
「ああ。勿論そこには、それまで付いてきた人間の心を傷つけちゃいけないという配慮もあったと思う」
「血の繋がりなんかなくても、お前は俺の子だ」
僕は何度も師匠にそう言ってもらえた。物心つく前に施設にぶち込まれた僕が、その言葉で一体どれだけ救われたことだろう? 多分それは、剣乃さん自身が誰かに言って欲しかった言葉だ。だからこそ、あの言葉には本当に心がこもっていた。
「本当の事を使って、人を騙す」
僕はそれを、師匠の生きざまから学んだ。彼が僕を意のままに操るために、自分の人生を使ったことは事実だろう。かといって、彼の悲惨な過去や、彼が僕を愛していた事実が嘘になる訳じゃない。本当の言葉じゃなきゃ、人の心は絶対に掴めないからだ。
だから僕は、師匠のことを作品に残さなければならない。彼が僕を引き上げてくれたからとか、相場の達人だったからとかじゃなくて、僕は一人の人間として師匠の事を愛していた。
師匠と盃を交わした人間は、きっと皆同じ気持ちだったと思う。僕の師匠は堅気でもヤクザでもない、この世界の片隅でひっそりと生きる人間だったが、本物の家族を何人も持てた『勝ち組』のはずだ。
そのことを証明しなくちゃ、僕は死んでも死にきれないのだ。
ハナヱがどれくらい、僕の話を理解できたかは分からない。だが、僕が本気で創作の道を志し、万一の事の時には、その志を継いでもらいたいと思ってることだけは、ちゃんと伝わったと思った。
師匠の遺品であるあの箱は、伝承者に栄光と悲劇をもたらす箱だ。その力が本物なら、この作品がきっと、僕の人生を少しだけ前に進めてくれるだろう。少なくとも、僕がどんなものを美しいと思い、どんなことを表現したいと思って生きている人間かだけは、読むものにちゃんと伝わるはずだ。
ハナヱに全てを語り終えた僕は、あの日の顛末と、まだ第一部までしか出来てないその小説のタイトルを、僕の人生を狂わせたあの作品と同じ名前にしようと決めた。
『片隅に生きる人々』
それが、その物語の名前だ。
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