「特別な商品ですので、お届けは業者ではなく、しかるべき人間を使ってやります」
そう言い残して、彼女は電話を切った。僕は、ユキと名乗る売主の少女と小一時間話しこみ、『人生を変える箱』の所有者として認められたのだ。持ち主に必ず、栄光と挫折をもたらすというこの箱の――
翌朝、まだ真っ暗なうちに電話が鳴った。時刻はまだ午前六時を回ったばかりだった。
「伊集院アケミさんの携帯電話でよろしいですか?」
「……そうですが」
「ご注文の商品をお届けに上がりました。大変申し訳ないのですが、ご自宅がわかりません。近くまで来ているとは思うのですが……」
このヤサは、標高九四〇メートルの山奥の中にある。一応、別荘地ではあるのだが、敷地がとても広いうえに道がかなり入り組んでいて、宅配業者でもなかなか辿り着けない。深夜なら猶更だ。
「管理事務所の場所は分かりますか? 別荘地の入り口にあるんですけど」
「はい、先ほど通過しました」
「あそこは終日管理です。この時間でも誰かしらいると思うので、預けておいてください。あとで取りに行きます」
「いや、報酬を頂きませんと……」
「報酬?」
と、僕は尋ねた。
「はい。私は通常の宅配業者ではありません。訳アリの商品を専門に扱う【運び屋】です。話は既に通っているはずですが……」
「おいくらですか?」
「五万円です」
「ちょっと、高くないですか?」
「大負けに負けて、この値段ですよ」
運び屋の女は不満げにそう言った。
「まあ、ユキさんはお得意様ですし、今回は自宅まで辿り着けませんでしたから、大幅に値引きしました。納得いかないという事であれば、持ち帰りますが……」
『お代は送料のみで結構』という、あの煽りの最初の文言を僕は思い出していた。しかるべき人間を使うことも、確かに聞いている。少し嵌められた気もするが、ここは素直に支払うしかないだろう。
「わかりました。すぐに伺いますので、管理事務所前で待っていてください」
「事務所の駐車場の隅に車を停めておきます。仮ナンバーの車ですので、すぐにわかるかと……」
どうせ、その仮ナンバーも偽物なんだろうなと思いながら、僕は自分の車に向かった。今の愛車は、いつでも旅に出られるように改造した、車中泊仕様のモビリオ・スパイクだ。最低限の生活用品と保存食糧は積んであるし、ドアにも鍵はかけてない。
「んじゃ、行くか」
勢いよく乗り込んでキーを回すが、エンジンがかからない。多分、バッテリー上がりだ。ルームランプでもつけっぱなしていたのだろう。ただでさえ低くなってるテンションが、更に落ちていくのを僕は感じた。
「仕方がない。向こうのCR-Xを動かそう」
このヤサには、少し離れた場所にガレージがついている。僕はそこに、若かりし頃の愛車であるEF7型のCR-Xを保管していた。車検はとっくに切れているが、私有地内で転がす分には問題ない。幸いなことに、そちらのエンジンはすぐにかかった。この車なら、事務所まで二分とかからないはずだ。
早朝の別荘地内に、マフラーの爆音が木霊する。まだハイシーズンではないとはいえ、定住している人間にはいい迷惑だろう。この車の売りは旋回性能の高さで、下りの山道でこの車より早い相手は、まずいない。久しぶりの愛車で駆け抜ける山道はとても気持ち良く、少しスピードを落とそうとした時には、事務所がもう目の前だった。
駐車場には、黒づくめの服装をした女が一人立っている。相方がもう一人いるようだったが、車の運転席に座ったまま出てこない。顔はよく見えないが、ぱっと見は女性のように感じた。あれがユキさんだろうか?
「伊集院さんですか?」
立っていた女が、僕にそう声を掛けた。
「そうです」
「お届け物はこちらになります。少し重いので、気を付けてください」
「分かりました。ではこれで」
むき出しのままの五万円を女に見せると、彼女は大事そうに抱えていた箱を、僕に手渡した。
「なかなかの品のようですね」
箱に施された蒔絵は本当に美しく、高級品であることに間違いはないように思えた。上面A3程度の大きさだったが、高さはそれなりにあって、女が言ったようにかなり重い。多分、中に何か仕込まれている。
「同梱物があるとは聞いていませんが、何が入っているのですか?」
「そちらについては、ユキさんから手紙を預かっています。箱を開ける前に、必ず読むようにと言付かりました」
「ありがとうございます。では、あちらの女性はユキさんではないのですね?」
僕は車の方に目をやって、そう言った。
「彼女は私の助手です。危険物の取扱については天才的なんですが、それ以外に特にとりえもありません」
女は苦笑しながらそう答えた。
「そうでしたか。ユキさんとは一度お会いしてみたかったので、とても残念です。それにしても、この箱はえらく重いですね」
「先ほども申し上げましたが、中身については、本当に何も知りません。私たちに頼むくらいですから、いわくつきの代物なんでしょうが、何も知らない方がお互いのためですしね」
女はそう言い残し、車の助手席に乗り込んだ。
「夜分に失礼いたしました」
運転席にいた女が、少しだけ頭を下げ、二人はあっという間に青白みつつある朝の空気の中に消えていった。僕は、申し訳程度についているCR-Xの後部座席に箱を置き、運転席で渡された手紙を読み始める。
拝啓 伊集院アケミ様
この手紙を読んでいるという事は、無事に箱を受け取ったという事だと思います。突然で申し訳ありませんが、今すぐ、その場所から離れてください。行く先はどこでも構いません。遠ければ遠いほど良いです。
現在、貴方の身には危機が迫っています。しかし、今ならまだその危機を回避できますし、箱の力が貴方を助けてくれることでしょう。箱は既にその力を発揮していますので、開封する必要はありません。それは、最後の手段です。
何らかの事情で、貴方自身が拘束を受けそうになったり、第三者に箱を奪われそうになった時のみ、この箱を開封してください。幾ばくかの後悔と引き換えに、貴方の願いは叶えられることでしょう。少しばかり手違いがあり、栄光より先に挫折が迫る事態となりましたが、貴方ならきっと、この危機を切り抜けられると信じています。
繰り返しになりますが、箱の開封は最後の手段です。
そうなることを、我々は望んではいません。
貴方の安全が確保されたと判断した時点で、必ずこちらからご連絡いたします。またお話しできる日を楽しみにしています。ユキより。
全然、話が違うじゃないか、とは思ったものの、手紙の内容を疑うことはなかった。相場を生業とする僕は、人の恨みなら死ぬほど買っているからだ。それにこの箱は、単純な京漆器だとしても、相当な価値がありそうに思える。深夜に人を動かして、受け取ったのが五万だけじゃ、愉快犯にしたって割が合わなすぎるはずだ。
ユキさんが何者かはわからない。だが、彼女や彼女の背後にいる人たちは、なんらかのきっかけで僕を知り、僕に迫る危機も知った。そして、この箱を使って何かを企んでる。それだけは間違いないだろう。
少し考えた後、僕は一旦ヤサに戻ることに決めた。知人から、猫を一匹預かっているからだ。猫の名前は、全力さんという。やや太り気味の三毛猫で、名付け親は僕だ。本名は、デーモンコア・将門というのだが、余りにも呼びづらいので、僕が全力さんという通名を付けたのである。
ちなみに全力さんは、強そうなのは名前だけで、自分じゃエサもとれないし、たった半日間、家を留守にしただけでもメンヘラ化するダメ猫だ。たとえエサがあったところで、三日も放置すれば、孤独死してしまうだろう。今の僕にとって、全力さんはたった一人の家族ともいえる存在だ。放っておく訳にはいかない。
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