片隅に生きる人々

伊集院アケミ
伊集院アケミ

第三十七話「最初の契約」

公開日時: 2020年10月31日(土) 01:49
更新日時: 2020年10月31日(土) 01:52
文字数:3,109

 渡りに船の話だったが、彼女は何故、このコンロをそんなに気に入ったのだろう?


「いくら貸して貰える?」

「そうだな……。二百円くらいでどうだい?」

「二百円か。電報料金って、今いくらだっけ?」

「確か、基本料金が一円五十銭だったと思う。最近はインフレも凄いから、また値上がりしそうだけどね」

「なるほど……」


 電報の価格から逆算すると、この時代の一円には約四百円の価値がある。二百円なら八万になる計算だ。きつめに割引いて半分の二百円だとしても、コンロ一台を担保に入れて四万なら、全然悪くない。


「食事を作るときは、一時的に返してもらえるかな?」

「ボンベの予備は二本しかないんだろ? 君がここにいる間は、事務所のコンロを使ってくれて構わないよ」

「返済期限は?」

「今日から一か月。もし返せないようだったら、このコンロをボクに譲ってくれればそれでいい」

「決まりだ。借用書を作ろう」


 僕は筆記用具を取りに、再び車に戻った。後部座席では、アサリを食べ終わった全力さんが食休みをしている。


「どしたん? なんか嬉しそうやね」

「ああ、最初のトレードは大成功だ。予定とは大分違ったけど、とにかく金は手に入る」

「カリカリ食える?」

「カリカリはまだ無理かな。でも、しばらくは食うに困らないよ」

「そっかー。カリカリが食えんのは残念やけど、とりあえず、ひと安心やね」


 僕は事務所に戻って借用書を作りはじめた。

 コピー機はないから、なるべく文面を簡単にまとめる。


「僕の名前は、伊集院アケミだ。君の名前は?」

「宇宙と書いて、ソラ。洒落た名前だろ?」

「ソラか。確かにいい名前だね」

「ありがとう。父さんが、自分の名前にちなんでつけたんだよ」

「父さんの名前?」

「ああ。ボクの父さんは右忠うちゅうっていうんだ。ソラなら、どっちが生まれて来ても使えるしね」

「ウチュウとソラか……。そりゃあ、気がきいてるね」


 まだ相方が健在だった頃、僕はソラという名前のSNSを愛用していた。あれを使っていた頃は、毎日が希望に満ち溢れていた。そのサービスはもう存在しないけど、この時代に飛ばされて最初に取引をした相手の名がソラだとは、不思議な因縁を感じる。


「どうかした?」

「いや、何でもないよ。名字のタツノはこれでいいかい?」


 僕はメモ用紙に、龍野と記した。


「うん。それで大丈夫」

「住所は、ここの事務所でいいかい?」

「かまわないよ」

「今日は確か、三月二十日だったよね」

「うん」

「じゃあ、ここに名前だけお願い」


 僕はソラさんから署名を貰うと、その場で借用書を二組つくり、手早く住所を書き入れた。二枚とも、勿論手書きだ。


 金銭消費貸借契約書


 貸主(甲) 龍野 宇宙《ソラ》

 住所  新潟県長岡市要町一丁目五番二八号


 借主(乙) 伊集院 アケミ      

 住所  東京都中央区日本橋兜町一一一-一


 甲および乙は、次の通り金銭消費貸借契約を締結した。


 第一条 (貸借)

 甲は、乙に対し、昭和二十一年三月二十日、金二百円を貸し渡し、乙はこれを受け取った。


 第二条 (返済方法)

 乙は、甲に対し、前条の借入金、金二百円を昭和二十一年四月二十日までに甲方に持参して支払う。期日まで全額の返済がなされなかった場合、担保として提供したカセットコンロの所有権は甲に帰属するものとする。


 上記の金銭消費貸借契約を証するため、本契約書2通を作成し、各当事者が署名押印のうえ、各一通を所持する。


 昭和二十一年三月二十日



「文面に問題がなければ、名前の後ろにハンコを押してくれ。あと、この部分に割り印もお願い」

「担保を取ってるんだから、こんなの別に作らなくてもいいよ」

「いやこれは、こっちの世界における僕の最初の取引だ。最初くらいは、ちゃんとしておこう」

「こっちの世界?」

「いや、何でもないよ」


 危ない危ない。こんな調子じゃ、またユキさんに脇が甘いと叱られてしまう。


「じゃあこれ。間違いなく、二百円。数に間違いはないと思うけど、念のため改めて」

「了解。じゃあ、僕の方もこれを」


 僕は十円紙幣で二十枚のお金を受け取り、カセットコンロを彼女に引き渡した。ソラさんは、とても嬉しそうな顔をした。


「龍野さん。僕はこれから探さなきゃ人がいるんだ。少し買うものもあるから、もしかしたら、営業時間内には帰ってこないかもしれない」

「全然、かまわないよ。シャッターの鍵はかけないでおくね」

「ありがとう。必ず戻って来るから、当分の間、よろしくお願いします」


 まずはどこかで服を手に入れて、それから角栄の実家に当たろう。正確な住所は分からないが、柏崎市 二田村ふただむらまでは確実だ。この時代の角栄は実業で成功しているはずだから、実家の近くで聞き込めば、何か情報が入るかもしれない。


 いくら不在の時とは言え、一人娘の働いてる場所に得体の知れぬ男が寝泊まりしてて、大丈夫なんだろうかと思ったが、追い出されても行く当てもないので黙っていた。とにかく今は、この二百円を元手に一刻も早く生計を立てる方法を考えなきゃいけない。


「ああ、アケミさん。ボクの事はソラと呼び捨てしてくれて構わないよ。周りの人間は皆そう呼んでる」

「その方が良いかい?」

「うん。まあ、父さんはボクの事を溺愛してるから、目の前で呼び捨てにすると、ぶっ飛ばされるけどね」

「君の父さんも、この給油所に顔を出すの?」

「普段は会社の研究所に詰めてるけど、たまにフラッとボクの顔をのぞきに来るよ。こんな格好してるけど、一応は一人娘だしね」


 そう言うとソラさんは、オイルで少し汚れた作業服ツナギを指さしながら笑った。


「ぶっ飛ばされるのは嫌だから、ソラさんのままにしとくよ」


 多分、いいお父さんなんだろう。僕は母に手をあげられた事はないが、怒ると手当たり次第に物を投げつけてくる人だったから、余計に始末が悪かった。鍋釜辺りは日常茶飯事で、金魚鉢を投げつけられた時には流血騒ぎになって救急車で運ばれた。勿論、金魚も全部死んだ。


 母は泣きながら僕に謝っていたが、「だったら、最初から投げなきゃいいのにな」と幼い頃の僕は何度も思った。勿論、そんな気持ちはおくびにも出さなかった。会うどころか、声も聞かなくなって三十年以上になるけれど、今だに母は僕にとって恐怖の対象でしかない。


「ところで、誰に会いに行くの?」

「田中角栄という名前の事業家だ。この辺じゃ結構有名だと思うんだけど、知ってるかい?」

「いや、知らないな。『かくえい』ってどういう字を書くの?」


「角栄」と、僕はメモ用紙に記した。


「んっ? これって、もしかしたら、菊栄きくゑさんの写し間違いじゃないかい?」

「きくゑ?」


 僕の知っているキクヱといえば、水落旅館の双子の姉の方しかない。


「ああ。直接の面識はないけど、とても綺麗な女の人だって聞いてる。時々、お付きの人がガソリンを入れに来るよ。うちのは混ぜ物をしてないからね」

「女だって?」

「ああ、元々は東京の生まれで、こっちの人じゃないらしい。成り上がり者だって嫌ってる人もいるけど、うちにとっては良いお客様さ。確か、今度の総選挙にも出るって聞いたな……」

「……」


 角栄の妻は、確かに東京の生まれだ。だが、名前は『はな』だし、取り立てて美しい女性でもない。彼女は出戻りで、角栄が借りていた事務所の家主の娘だった。彼女の父は土建業者で、角栄は結婚によりその事業も受け継ぐ。その事務所を改組して出来たのが、今も現存する田中土建工業である。


 史実の角栄は、理研コンツェルンの総帥である大河内 正敏に見いだされ、大きく飛躍を遂げる。事業を受け継いでから僅か二年足らずで、年間施工実績で全国五十位入りするまでに、田中土建工業を急成長させたのだ。


 もし、きくゑという女性がこの世界の角栄だとすると、元々の角栄は一体どこに消えてしまったのだろう?


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