『本気で創作に打ち込む時には、一人にならなきゃいけない』
それが、若い頃からの僕の信条だった。僕は施設で暮らしてた頃から自分でマンガを描くようなオタクだったし、師匠に先立たれた後も、その悲しみを創作で紛らわせていたのだ。そして、前回の事件で赤瀬川さんすら頼れなくなった後、僕は一人ぼっちで車で暮らしながら、本当の意味で創作に目覚めたのだった。
最初の目的地は、新潟県十日町市だった。そこには角栄の親戚が経営している水落という名の温泉旅館がある。赤瀬川さんがまだ現役だった頃には、この旅館を借り切って、忘年会や新年会をやったものだ。
身内が何か不始末を起こした時、とりあえずこの旅館に潜らせるのが師匠の常套手段だった。そういう訳で、僕も学生時代から師匠の名代としてこの地に何度も足を運んだのだ。水落の女将やその娘たちとも、僕は昔から顔なじみだった。
前回の事件の時、僕はひと月ほどこの町に潜伏していた。だがその時は、僕は宿に一切顔を出さなかった。彼らなら、本気で僕の事を守ってくれそうだったからだ。
水落家の人々に、迷惑をかける訳にはいかない。
当時の僕はそう思い、彼らに頼りたい気持ちを必死に堪えていた。師匠や、師匠を支援していた政治家たちのルートから洗えば、まず真っ先にここが狙われるはずだと思ったからだ。師匠は既に亡くなり、赤瀬川さんも堅気に戻っている。現役の悪党で、しかも相場を張り続けているのは、既に僕一人だった。
「すみません。伊集院と申しますが、本日の宿泊は可能でしょうか?」
僕は旅館近くの公衆電話の前に車を止め、電話を掛けた。時刻は既に十二時を回っている。前日の宿泊客の処理も済み、一息ついてる時間のはずだ。
「伊集院って? もしかして、アケミお兄ちゃん!?」
声を聞いてすぐに分かった。女将の娘のハナヱちゃんだ。
「ハナヱちゃんか。久しぶりだね」
「久しぶりどころの騒ぎじゃないよ。最後に会ったのは、私がまだ小学生の時だよ!」
「もう、そんなに経つかなあ。ハナヱちゃんはいま、実家の仕事を手伝ってるの?」
「うん。お姉ちゃんは、情報館の司書をやってるけどね」
「そうか……。キクヱちゃんは、図書館が大好きだったもんな」
ハナヱには双子の姉がいる。旅館から車で数分の所に、「十日町情報館」という名の素晴らしい図書館があるのだが、姉のキクヱはそこで司書をしているらしい。好都合だ。何故なら、僕がこの場所に来た目的は、そこで文献に当たることだったからである。
若かりし頃の師匠を描くために、そして、あの箱の過去の所有者たちについて知るために、僕はこの地に籠ろうと思っていた。前回の事件の後、当然張られていると思っていたこの場所がノーマークだったことを、僕は赤瀬川さんから聞かされていたからだ。
「私もね、ただの家事手伝いじゃなくて、小説を書いてるんだよ! この前、賞も貰ったの。奨励賞だけど!」
「へー、凄いじゃん」
「賞金も出たんだよ。十万円!」
姉妹は見た目がそっくりでありながら、それ以外真逆の存在だった。姉は勉強が得意で、妹は運動が得意。姉は内向的な性格で、妹は社交的。二人とも一度は東京に出たと、何かの折に赤瀬川さんから聞いたが、今はどちらとも故郷に戻っているらしい。
キクヱの司書の方は納得がいくが、運動しか能のなかったハナヱが文章をお金にしているのは正直意外だった。
「ところで今日、部屋は開いてるかい? お母さんにも、久しぶりに挨拶しておきたいんだけど」
「うん、大丈夫。お兄ちゃんなら特別料金にしてくれると思うよ。何日ぐらい、こっちに居るの?」
「二か月くらいはこっちに居ると思う。色々と、調べなきゃいけないことがあってさ」
「湯治者用の長期滞在プランもあるよ。そんなに長くいるなら、そっちにしてみたら?」
「いや、とりあえずは、二日くらいでいいよ。水落旅館に居ると、色々と甘えちゃいそうだからさ」
お上は既に、僕の使ってる証券口座をロックして、僕を相場の世界から追放することには成功している。僕の背後に何者かがいると誤解し、ガチに殺りにきた前回ですら捜査の手は及ばなかったのだ。ここが調べられるとしても、相当後になるはずだし、おそらくも今回もお上がこの地に来ることはないだろう。
「僕もこれから、一人で少し、書き物をする積りなんだ」
「書き物?」
「ああ。師匠の剣乃さんや、田中角栄について書こうと思ってる」
「そうなんだ。じゃあ、ライバルだね! 資料探しなら、きっとお姉ちゃんが手伝ってくれると思うよ」
「そうだね。それくらいは甘えようかな」
僕が見ていた箱の詳細ページは跡形もなくなっていたが、過去の伝承者として、幕末期の河合継之助や土方歳三がいたことはよく憶えている。北越戦争の舞台であり、角栄の地盤であった長岡はここから目と鼻の先である。この土地ならきっと、調べ物も進むに違いない。
「まあ何にせよ、そんなに長くこっちに居るなら、また遊ぼうね!」
「遊ぶのは難しいけど、作品はちゃんと拝見させてもらうよ。じゃあ、今からそっちに向かうね」
「うん。直ぐにお部屋に入れるように準備しておくよ!」
僕は電話を切って、十数年ぶりの水落旅館に向かった。道を覚えているか若干不安だったけど、何とか無事に辿り着けた。簡単に受付を済ませ、部屋に向かう途中に女将と会話を交わす。
彼女の名は、水落タマヱ。
二人の母親であり、全盛期の角栄や師匠を知る人物だ。
「随分、大人っぽい顔になりましたね。随分、苦労もされたようで……」
「いや、僕なんかまだまだです。出会った頃の師匠とさして変わらない年齢になったというのに、自分の未熟さに恥ずかしくなります」
「剣乃さんや角栄さんと比べたら、そりゃあ誰だって未熟ですよ。何にも恥ずかしがることはありません」
そう言って、女将は笑った。この辺りは中選挙区時代の新潟四区にあたり、過疎や豪雪対策が政策課題となることが多い土地だ。それらの問題に本気で取り組んだ角栄は、今でも人気が高い。新潟の過疎地域で『先生』と言えば、それは殆ど角栄の事を意味するのである。
「ところで……」
「なんでしょう?」
「ふた月ほど、こちらに滞在すると聞きました。どちらにお泊りになられるんですか?」
「色々あって、車暮らしに慣れちゃいましてね。寝泊まりは車でしようと思っています」
「宿泊費なら気にされなくて結構ですよ。先生は、剣乃さんの事を兄弟同然の男だと申しておられました。その方のお弟子さんを、苦労させる訳にはまいりません」
「いえ、お金の問題ではないのです」
僕はハッキリそう答えた。とはいえ、金融庁に追われているからと正直に言う訳にもいかない。
「少し調べ物や、書き物に集中したいと思いまして、ここに居ると色々甘えてしまいそうですから……」
「そうですか……。でも何か困ったことがあれば、遠慮なく頼ってください」
「ありがとうございます。もしもの時は、よろしくお願いします」
本気で頼るつもりはないが、女将の気持ちを和ませるために、僕はそう答えた。
「夕方になれば、キクヱも帰ってきます。あれは今、情報館に勤めておりますから、きっとお役に立つでしょう。お疲れでしょうが、娘の話を聞いてやってください」
「勿論です。僕の方こそ、楽しみにしてますよ」
そう答えて、僕は自分の部屋に入った。
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