片隅に生きる人々

伊集院アケミ
伊集院アケミ

第十二話「逃亡」

公開日時: 2020年10月28日(水) 02:09
更新日時: 2022年6月16日(木) 20:54
文字数:3,149

「あの車の事ですか?」


 捜査官は家の前に停めてある車を指さした。朝方、バッテリー上がりで動かなかったモビリオ・スパイクだ。


「いえ、違います。実は、ここから少し離れたところにガレージがあるんです。今では中々手に入らない車なので、屋根のあるところに停めたいと思って……」


 捜査官の顔色が、少し変わった。


「もう一台、別に車があるという事?」

「はい。普段はあまり乗らないのですが、昨日はたまたま、あの車のバッテリーが上がっていたので、ちょっと乗っていたんです」


 するすると言葉が出てきた。バッテリー上がりは嘘じゃないし、CR-Xが大切な愛車なのも事実だから、僕のこの言葉には真実味があるはずだ。そこらの詐欺師は、嘘でヒトを騙そうとするからすぐに捕まる。僕はそんなバカな事はしない。


 本物の詐欺師は、本当の事だけを使って人を騙す。本当の事を、人は疑えないからだ。大事なのは相手に誤解させることである。嘘でヒトを騙す奴は、所詮素人だ。



 捜査官の反応から考えて、ガレージの存在は認識されていなかったのだろう。彼は動揺の色を隠せないまま、僕をこの場に残して、上司に相談しに行った。ここまでは予想通りだ。これから先の展開も、おおむね想像がつく。


 携帯は令状では差し押さえ出来ない場所にある。そこにある重要な証拠を、被疑者が任意提出するといっているのに、断ってくるわけがない。問題は、僕の逃亡防止に何人が付いてくるかだけだ。


 先ほどの捜査官が戻ってきて、こう言った。


「私と、もう一人が付き添いますので、一緒にガレージに向かいましょう。携帯は操作を一切せず、そのまま渡してください」


「たったの二人か。舐められたもんだな……」と、僕は心の中でつぶやいた。複数人を付けるのは、買収や逃亡を避けるための当然の措置だが、逆に言えば、必要最小限の人数ともいえる。おそらく彼らは、僕の過去を知らないんだろう。


 彼らがついてれば、僕は何の疑いもかけられずにガレージまで行ける。あとは得意のおべんちゃらで、この二人を撒けばいい。こんな下っ端が何人いようと、これまで何度もお上の手を免れてきた僕を止められるものか。


「ガレージはあっちです」


 僕はわざと遠回りをしながら、車庫に向かった。無事に逃げおおせた後、追跡がかかるまでの時間を少しでも稼ぐためだ。この辺は電波が悪いから、携帯はなかなか繋がらない。別荘の中でなら対策をしてるから問題はないが、外からの発信は相当苦労するはずだ。


 方々で恨みを買っている僕は、そういう場所ばかりをヤサに選んでいる。ここらの道はとても入り組んでいるから、僕が遠回りしていることは、この二人には分からないだろう。


 遠目に車を見ると、屋根の上で全力さんが昼寝をしていた。幸先がいい。これで稲見先生の手を煩わせずに済みそうだ。全力さんが眠ったらすぐに出発するつもりだったから、車は車庫に入れずに、ガレージ前にそのまま横付けしてある。


「あの車です。先に猫を捕まえたいんで、少しゆっくり来てもらっていいですか?」

「逃げないでくださいよ?」

「そんなことしやしませんよ」


「今はね……」と、僕は心の中でつぶやいた。このまま逃げることだって可能だろうが、今は全力さんの安全が最優先だ。


「証拠品の押収が終わったら、僕は出頭させられるんでしょう? アイツは人に懐かないんです。この辺は日が暮れたら、イタチも出る。もし死んだら、責任をとってくれますか? あいつの飼い主は、普通の人間じゃないですよ」


 そういって僕は、全力さんが元・筋者からの預かりものであることを仄めかした。下っ端に過ぎない彼らを脅すには、十分のはずだ。仕方ないという感じで、目上の方の捜査官が車の方に顎をしゃくる。「確保しろ」という意味だ。僕は屋根の上の全力さんを難なく捕まえると、もう片方の手でCR-Xのドアを開けた。


「ほら、全力さん。ちょっとここで寝てて」


 僕は、後部座席に置いてある箱の上にそっとタオルをかけた。そして、お腹がたゆんたゆんになった全力さんを抱え上げ、その上に置く。「とりあえず、ここに」といった感じで振舞ったから、そこに隠蔽の意図があるとは気づかないだろう。


 全力さんは、その場所が意外と気に入ったのか、再び眠りについた。緊迫した場面だというのに、猫が蓋の上で寝入るその光景はなんだか滑稽だった。僕は全力さんがマジ寝し始めたのを確認すると、助手席のグローブボックスをあさり、中に入っているスマートフォンを取り出した。


「ありました、ありました」


 このスマホは、ゲームをする時だけに使っている型落ちのものだ。SIMも入ってないし、ゲーム以外のデータは全部消去してる。差し押さえられたところで何の問題もない。


「では、こちらに渡してください。電源は入れないように」

「どうぞ」


 調査官は、僕の申し出通りに証拠品が出てきたことに、少しホッとした様子だった。僕は素直にスマホを渡し、自分の本当の意図を悟られぬよう、努めて軽い感じでこういった。


「すみません。車庫に車を戻したいんですが、後ろを少し見ててもらえませんか? この車、後方視界が良くないので」

「かまいませんよ」


 先ほどの捜査官が、快く後ろに回ってくれた。これまでずっと従順に振舞っていた甲斐があったというものだ。これで邪魔者は一人消えた。あとは、前に突っ立っているもう一人をどうにかすればいい。


「オーライ、オーライ」


 僕はゆっくりハンドルを切りながら、少しずつ車庫に車を収めていく。二人とも、僕が逃亡を企図しているとは思ってないだろう。やるなら今だ。


 僕はクラッチを切り、ギアをバックからニュートラルに戻して、思いっきりアクセルを踏み込んだ。ZCエンジンは唸りを上げ、タコメーターの針はレッドゾーンまで一気に食いこむ。


 辺り一面に轟音が響き渡った。この車のマフラーにはサイレンサーがついてない。敷地内でしか乗らないから、走行のために不必要な部品は全て外してあるのだ。勿論、ギアはかみ合ってないから車は動かない。これはただの脅しだ。


「死にたくなかったら、そこをどけ!」


 僕はそう叫びながら、ギアを一速に叩き込んだ。前にいた捜査官は、慌てふためきながら道をあける。警官でも、検察事務官でもないただの公務員なんて、所詮こんなもんだ。自分の命を賭けてまで、車を止めようとするはずがない。


 とはいえ早く出発しないと、また前をふさがれるだろう。ガレージ前の道は狭いが、車庫に下がったおかげで加速距離は十分にある。この車なら、行けるはずだ。


 僕は五千七百回転辺りでクラッチをつなぎ、車を急発進させた。そして、ガレージから少し頭が出たくらいのタイミングで思いっきりハンドルを切り、同時にサイドブレーキを引く。サイドターンだ。車はあっという間に真横を向き、道と平行になった。軽量で、ホイールベースの極端に短いCR-Xだからこそできる挙動だ。


 僕はハンドルを元に戻し、アクセルを床まで踏み抜いた。車庫前にへたり込んだ捜査員が、ミラーの中であっという間に点になっていく。この辺の道は入り組んでいるとはいえ、何度も走り込んだ勝手知ったる場所だ。下りなら、どんな車にだって負けない。


「こんなに読み通りに事が運んだのは、久しぶりだな」


 そう言って、僕はほくそ笑んだ。もし運よく彼らの携帯がつながったとしても、追手が来る頃には、僕はとっくに敷地内から抜けている。全力さんはおびえて助手席の下でガタガタ震えているが、ともかく身柄は確保した。箱も無事だ。


「この程度で何が不幸だ。こっちは相場でもリアルでも、何度も生き死にの経験をしてるんだ。自分の運命は自分で決める。箱なんかに決められてたまるもんか」


 僕はそう独りごちながら、なじみの車屋の方に車を向けた。ちょっと、口笛を吹いたりなんかして。

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