「どうかしましたか?」
今は無きDJ君に思いをはせていた僕に、猫のユキさんが声をかけた。現実に引き戻された僕は、直前の会話を思い返す。確か、「今の僕が持つ武器は、は何か?」という話をしていたはずだ。
「いや、なんでもないよ。確か、創作ノートの話だったよね?」
「はい」
「あのノートの中には、戦後の政治経済史に関する知見が山ほど詰まってる。勿論、これからこの世界で起こることが、僕の知ってる歴史と同じになるかは分からないけど……」
「歴史の因果律が働いている以上、元居た世界の歴史を知っていることは決して不利にはならないという事ですね?」
「その通りだ。僕はこの世界じゃ、戸籍すらない人間だけど、そんなものなくったって、株を買う方法ならいくらでもある。まだ株券がある時代だからね」
「では貴方は、この世界でやっていく積りなんですね?」
「だって、再フォールドには意味がないじゃないか?」
「意味がない?」
「フォールドシステムが壊れてるんだったら、もう一度飛んだって、僕は昭和四十年にはたどり着けない。もし壊れてないんだったら、僕は日銀特融を成すために、この世界で何らかの仕事をする必要がある。違うかい?」
「その通りです。この世界の成り立ちをちゃんと理解されているようで何よりです」
「お勉強しか取り柄が無いからね」
もしこの時代を去らざるを得なくなったとしても、それはやれる事を全部やってしまってからだろう。正直に言って、フォールドをもう一度繰り返したくもなかった。一度は死まで覚悟したからだ。
「勿論、すべては君の支援を受けられることが前提だ。少なくとも日銀特融を成すまでは、僕らは協力し合えると思う。よろしく頼むよ」
「勿論です。ではまず、ガソリンをお金に変えることから始めましょう。近所の販売店を探してみます。調べ物なら、任せてください」
「ありがとう。ところでもう一つ質問なんだけど……」
「なんですか?」
「伝承者が僕のままであることに、本当に問題はないかい?」
僕は箱の所有権を失う可能性について、真剣に考えていた。伝承者に内定しても、その後の行動次第でその権利を剥奪される可能性があることは、最初のテストの時に警告されている。
今回のフォールドが、僕の意志なのか、それとも箱の暴走であるのか確認する術はないが、所有権について確認しておくに越した事は無い。
「大丈夫ですよ。伝承者を誰にするかは、私に一任されています。私が不適格だと判断するか、監視の任を解かれるまでは、貴方が箱を奪われる事は無いはずです。少なくとも、時空管理局からはね」
ユキさんの返事を聞いて、僕はホッとした。僕の見立てが確かなら、あの箱は多分、単なる時空転移装置じゃないはずだ。だからこそ、伝承者と監視者が両方必要になる。箱の秘密を守るだけなら、最初から破壊してしまえばいいだけだ。
そもそもこの箱が、【所有者の意思に反応して様々な機能を発現する】ことは、ユキさん自身も認めている事実である。
「箱を観察し、その機能を解明するのも、自分の仕事の一つです」
ユキさんは確かそう言っていた。そしてこの箱に、まだ未知の機能があるからこそ、彼らは僕に箱の力を使わせようとしている。彼らの目的に反しない限りにおいて……。
「株の話に戻しますが、取引所の再開はまだまだ先です。店頭での相対取引は行われていますが、値段はあってないようなものだと思います。逆に言えば、貴方の交渉能力が活かされることになるでしょう」
「そうかな?」
「ええ。やはり貴方は、政治よりも相場の方が向いていると思いますよ。これから、頑張ってくださいね」
「ああ……」
「その二つは、ほとんど一緒のものなんだけどな……」という言葉を、僕はそのまま飲み込み、泥で汚れた服を着替え始めた。
しばしの休息をとった後、僕はユキさんに教えられて、タツノ製作所という名のガソリン販売店を目指した。車で、ほんの数十分の距離だった。
製作所というからには、きっと何かを商品を作っていて、副業でガソリンも販売しているのだろう。あまり世間に知られてはいないが、長岡には国内で数少ない油田と、原油の精製基地がある。もしかしたら掘削絡みの商品でも作っているのかもしれない。
「ここか……」
思ったよりも、元いた時代のスタンドと変わりがないなと僕は思った。形が古風なだけで計量器もちゃんとあるし、建物の作りもしっかりしている。目についた違いといえば、よくある洗車機の代わりに、小さなガレージがついているくらいだった。
原爆の投下予定地だったため、ほとんど無傷だった新潟とは違い、長岡は空襲で相当の痛手を受けたはずだが、この辺りはそれほど寂れた様子もなかった。豊富に産出する原油と天然ガスのお陰で、立ち直りも早かったのかもしれない。
僕は計量器の前に車を停め、助手席で寝ていた全力さんを後部座席に移した。
「全力さんは、ここで大人しくしててね」
「かまわんけど、なるべくはよしてなー。ボクもう、お腹ペコペコなんよ。このままじゃ、夜にしか寝れない」
「ああ、ガソリンを換金できる場所が見つかったら、すぐに食事にしよう」
僕らの気配を察したのか、ツナギの作業服を着たメガネの女の子がガレージの奥から出てきた。歳の頃は、高校生くらいだろうか? アラレちゃんの背丈をそのまま伸ばしたような、ちょっと不思議な雰囲気の女の子だった。クロノトリガーのルッカみたいだなと、僕は思った。
「いらっしゃい、お客さん。なんだか、見慣れない車に乗ってるね」
「ああ、これは……」
ホンダの……と言いかけて止めた。創業者の本田宗一郎は、戦時中から有名な技術者だったが、昭和二十一年の時点では、本田技研工業はまだ存在すらしていない。
「アート商会のレーシングマシンの試作車だよ。今はロードテスト中なんだ」
「アート商会? あそこは修理屋さんだろ?」
「社長が大のレース好きなんだ。税金を払うよりはマシって言って、余計なお金は全部マシンにつぎ込んじゃうんだよ」
「そうなんだ。こんな時代に珍しいね」
アート商会とは、若き頃の宗一郎が丁稚奉公をしていた自動車整備工場の名である。創業者は、榊原郁三。彼はレース好きな人物で、宗一郎を助手として様々なレーシングマシンを作った。宗一郎は、この榊原からのれん分けを許された唯一の人物だった。
「じゃあ、有鉛ハイオクでいいかい? 何リットル入れる?」
「いや、今日はガソリンを買いに来た訳じゃないんだ。実は少し、困ったことがあってね」
「どうしたのさ? ピストンの棚落ちでもしたのかい?」
この少女は、単なる手伝いではないなと僕は思った。素人が、ピストンヘッドの損壊を意味する、【棚落ち】なんて言葉を使うはずがないからだ。そのあたりの部品に詳しいなら、宗一郎の事を知っている可能性は十分にある。
彼はこの時代の技術者としては、トップレベルの人物だ。居場所を知っておいて損はない。
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