あれから念のため、もう一匹野ウサギを狩り、ミュールの葉で包んで保存しておいた。
湖もあるから、飲み水の確保も本題ない。
加えて、最低限の雨風を凌げるように、木の上に木材を大雑把に組んで、簡易的な小屋を作った。
そこをとりあえずの拠点にして、まず実力をつけることから始めることにする。
とはいっても、ゴブリンの貧弱な体しか持たない儂が実力をつける。
それは通常では容易なことではない。
しかし儂には七十五年の研鑽の日々がある。
その日々の中で経験したことは多岐に亘り、修行方法もまた同様であった。
そして、儂の体の中には魔力と闘気が十分に宿っていることも確認している。
これだけ揃っていれば、やるべきことははっきりしていた。
魔術と、闘術の鍛錬だ。
魔術とは、魔力を使った世界への干渉であり、それによって様々な現象を起こすことができる。
一番分かりやすいものだと、火球とか水球の魔術だろう。
魔力を持ち、魔術を多少でも学んだ者でこれらの魔術を使えないものはいない、と言ってもいいほど有名なものだ。
しかし、最も基礎的な魔術であるからこそ、実力が如実に出るものでもあった。
つまり、ほとんど魔力回路が発達していない者がこれらを使おうとしても、極めて小さな結果しか出ないのが一般的なのだ。
「……火精よ、我が声に答え、この手にその力を与えん。《火球》」
とりあえずの試しに、私は魔力を手のひらに集め、前に向かって掲げ、呪文を唱えてみた。
もしもうまく使えれば儲け物、仮にあまりいい結果でなくともとりあえず使える確認さえできればそれでいい、そう思って。
ちなみに、この場合の呪文には実のところ決まった形式がなく、流派や個人にとって変わってくる。
儂の場合はかなり昔に学んだ記憶があるから、それを唱えた。
一応、皇帝として様々な流派の知識や技術はあるのだが、なんだかんだ一番初めに学んだ者がつい最初に口から出てしまうな。
そんな気持ちで使った魔術。
魔力は確かに手のひらに集約し、それはやがて現象へと……つまりは炎へと姿を変えた。
ただ、それはとてつもなく小さなもので……。
ーーポンッ。
と、儂が植物を使って火種として作った炎よりもずっと小さな火が、一瞬弾けただけで終わったのだった。
「……先は長そうじゃな」
ついそう独り言を言ってしまったのも仕方のないことだろう。
以前であれば、晩年であっても人の体の数倍の火球を放つことが出来た儂である。
それなのに、今ではこんなものしか生み出すことが出来ないのだ。
以前とのあまりの違いに、うんざりしそうになった。
しかし、どんなことでも最初は小さな一歩から始まるのだ。
今はこれ以上に出来ることがない以上、コツコツと積み上げていくしかない。
それに、確かに今はまだこの程度のことくらいしか出来ないが、儂は魔術の修行方法を知っているのだ。
普通の人間が、魔術を身につけようとすれば、まず教えてくれる魔術師を探すところから始めなければならない。
さらに仮に見つかったとしても、本当に魔力を持っているのか、そして魔術師になれるだけの魔力量なのかというところも問題になる。
また、修行したところでまるで才能がなく、初歩の魔術を使えるようになっただけで終わった、などという話も枚挙に暇がない。
そういったことを考えれば、儂は相当恵まれていると言える。
師など探さずとも自ら知っている修行を実践すればいい。
魔力を持っていることははっきりしているし、才能の有無についても前に出来たことなのだから今回も出来るだろうと確信が持てる。
あとは根気よく、頑張っていくだけなのだから……。
それに、どれだけ小さな火であっても、こうして魔力を使うだけで短時間で火を生み出せるのは今の儂にとっては極めて助かる話だった。
これが出来なければ、毎日、先日のように火種を起こすところから奮闘せねばならなかったからだ。
ともかく、火種は確保できたということをまず喜ぼう……。
後の問題は、獲物の方だろう。
食い物を得るためには、狩りをしなければならない。
ただ、先日の戦果を見る限り、野ウサギを狩ることが出来たのはどう考えても運が良かったから、に過ぎない。
このままの状態だと、またいつ狩れるかわからない。
だからこそ、野ウサギくらいは狩れるだけの力をまず、身につけなければならなかった。
そのために最も手っ取り早い方法は、儂にとっては闘気である。
魔術の方でも頑張れば無理ではないのだが、やはり多少の時間が必要だ。
そもそも、人間だった時代、儂は魔術師というよりは戦士として成り上がった人間だった。
つまりは、腕っぷしで挑む方が、魔術よりも得意だったのだ。
そして、そのために有用なのは魔術より闘気の方であると儂は考えている。
何せ闘気は最も簡単な技法でも、使えさえすれば身体能力を強化し、耐久力も上昇させることが出来る。
もちろん、その割合は扱える闘気の量と質によってまちまちだが、闘気の量については十分あるのがわかっている。
あとは質を上げてやればいい。
闘気の質を上げる方法は、練気と呼ばれるやり方が最もポピュラーだ。
つまりは深く瞑想し、体内の気を練り込むことである。
儂は自らが作った拠点の中で座禅を組み、体内に宿る気を感じるところから始めた。
通常であれば、これもまた魔術の場合と同じで、一朝一夕で出来ることではない。
何の修行もしていない人間が、自らの闘気を感じるのにかかる期間は、短くて半年、長い場合には数十年とも言われている。
闘気というのは、それだけ掴みにくいものなのだ。
だが、儂の場合、すでに闘気がどういうものなのかを知っている。
だから自らの身に宿るそれを見つけることは極めて簡単だった。
やはり、その量は以前確認した時と同様で、人間だったときの十分の一ほどだ。
何も修行をしていない状態としてはかなり多く、これだけあれば無駄遣いをしても相当の力を発揮できるはずだ。
もちろん、使いこなせれば、という注釈がつくが。
通常、体内の闘気はそのままでは使えず、十分に練り込んだ状態にしなければ使用することはできない。
一般的には、戦士が魔物などと戦闘を重ねることによって、自然に練り込まれていき、そしてある時その存在に気付くことで意識的な運用が可能になるものだ。
だから、闘気を使用できる者はそれほど多くない。
大半の冒険者や騎士は、闘気よりも魔力を使って身体強化などをするのである。
魔力の方が遥かに掴みやすい力なのだ。
だったらみんな魔力の訓練だけをしていればいいではないか、と言いたくなるだろうが、闘気には魔力にはない利点がいくつもある。
最も分かりやすいのは、魔力が全くない人間であっても闘気は努力さえ重ねればいずれ必ず身に付けられる、ということだ。
闘気は、誰にでも宿っている力……生命力が形を変えた者であり、どんな人間にも僅かながらに宿っているのだ。
だからこそ、魔力のように、持っていなければそこで詰む、ということはない。
ただし、修練の長さは人それぞれだ。
才能によって不可能、ということはないが、使えるようになるまで十年、二十年とかかることも珍しくはない。
それだけの期間、根気よく修行を続けることは普通の人間には難しく、だからこそ、魔術よりも身に付けている者が結果的に少なかったりする。
そんなものを、修行方法を知っているとはいえ、儂が新たに身に付けられるのか、という問題は一応ある。
ただ、儂はそれについて全く疑っていない。
前の時も、そしてゴブリンの体になってしまった今も、変わらない儂の性質があるからだ。
つまりは、諦めないこと。
儂は必ず、あやつらに復讐をする。
そのために必要なことならば……たとえ闘気を身に付けることだろうと、それ以上に難しいことだろうと、必ずやり遂げるだろう。
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