ゴブリン。
それは自然界において最も弱いと言われる魔物の一つであり、そして何の因果か儂が転生してしまった存在でもある。
その容姿は低い身長に、枯れ木のように細い手足、少し突き出た腹に、特徴的な緑色の荒い肌をしている。
顔立ちは鼻が高く尖っていて、目はギラついている。
口に生える歯は人間のよりギザギザとして尖っているが、奥歯は平であるため肉食ではなく雑食であることが理解できる。
実際、ゴブリンはどんなものでも食べる。
もちろん、流石にスライムのように鉱物まで、とは言わないが、一般的な動物が食べる肉や魚、植物の類はなんだって食べられると言っていい。
そのために、儂はだいぶ助かっていると言えた。
今ではさほど狩りをするにも困らなくなっているとは言え、そもそも獲物自体が運悪く見つからないことはある。
そういう時に、果物や山菜の類を食べられるという体はとてつもなくありがたかった。
これが肉しか食べれないとかだったらかなり厳しい腹具合になっていたことは想像に難くない。
ただ、儂は人間として生きた経験と知識があるため、毒性のある植物と食べられるものとを見分けることができるが、野生のゴブリンの多くはそのようなことが出来ない。
したがって、どちらかと言えば肉の方を多く食べる。
肉の方がその辺の植物を食べるより、彼らにとっては安全だからだ。
特に、人間の肉は彼らにとって確実に毒ではないと分かっているからか、見つけたら率先して襲いかかるのだろう。
戦闘技能を持つ人間ならともかく、一人で旅をしている行商人や、村人などのような大した戦力を持たない人間は特に狙いやすく、ゴブリン程度であってもそういう者たちには抵抗する術がない。
そして、野生のゴブリンは人間を食い散らかした後、その人間の持ち物を道具として利用する程度の知能がある。
そのため、野生のゴブリンには結構、粗末ではあるもの衣服を纏っていたり、武具を持っていたりする者も少なくない。
実際、今、儂の目の前にいるゴブリンも、ボロい衣服と、それに錆び付いてはいるが短剣を持ってうろうろしているようだった。
儂はいつも通り茂みに隠れて観察している。
周囲に仲間はいないか、魔術を使える個体ではないか、高い戦闘技能を持っていないか、など確認すべきことは色々ある。
ゴブリンだから、と無闇に襲いかかると痛い目に遭うのだ。
儂にもそれなりの武具があり、魔術もある程度まで使える状態にあるのならもう少し勇敢になれるのだが、今の状態では臆病過ぎる方がいいくらいである。
そしてそんな儂の観察の結果、目の前のゴブリンは儂にとって、非常にいい獲物であることがわかった。
衣服については正直剥ぎ取ったところで身につける気にはならない。
儂自身、こうして転生した時から粗末ながらも腰布だけはあった。
それさえあればとりあえずはいい。
野生のゴブリンが着ているものなど、流石に汚過ぎて病気になりそうで怖いというのもあった。
魔物だろうと病気にはかかるだろう。
儂は毎日湖で水浴びをしているからゴブリンにしては綺麗だ。
石鹸なども欲しいところだが、あれはそれなりに贅沢品であり、こんな森でゴブリンが手に入れられるようなものではないので仕方がない。
そんなわけで、服についてはどうでもいいのだが、それよりも何よりも、あのゴブリンは武器を持っているのだ。
短剣。
錆びてはいるものの、僅かな赤錆が浮いているくらいでこんなところでゴブリンが使っているにしては状態がいい。
あれがあれば出来ることの幅が結構広がる。
動物を捌くにも使えるし、戦闘で魔物に致命傷を与えられるだけの攻撃力も得られるだろう。
今は敵を力任せに棒で叩くくらいしか出来ないが、刃物があれば……。
しかし、あれを手に入れるということは、儂があのゴブリンと戦うということに他ならない。
負けるとは思っていない。
いくら同種とは言えど、儂には経験と知恵がある。
野生のゴブリンの大半は、人間のような高度な知恵を持っていない。
道具を多少使える程度が関の山で、せいぜい三歳児程度の頭脳だ。
また武術の心得もない。
だからいけるはずだ……。
そう思って、儂は心を決めて茂みから出る。
それでも確実な勝利のために、ゴブリンが茂みに最大に近づき、そして背を向けたその瞬間を狙った。
そのまま急いで距離を詰めて、短剣を使わせる間もなく、その首に腕をかけて思い切り締める。
「……ギィッ! ギギギ……ギッ……」
初め驚いたように高い声を上げたゴブリンだったが、儂の絞め技が完全に決まっており、手に持ってい短剣を落とした。
ここで儂の勝利は決まったようなもので、そのまま短剣から距離を取るように後ろに下がっていき、絞め続けた。
何かのタイミングで外れて、短剣を拾われては困るからだ。
ただ、その懸念が実現することはなく、ゴブリンはそのまま意識を失い、体からふっと力が抜け、白目を剥いたのだった。
「なんとか、なったか」
ほっとしつつ、しかしまだゴブリンは絶命していない。
儂は短剣を拾うと、ゴブリンの横に跪き、
「これも弱肉強食の掟よ。お主は運がなかった……さらばじゃ」
そう言って少し祈り、その胸元をついた。
「ギッ……」
と、一瞬声を上げるも、心臓を一突きにしたため、すぐにその瞳の輝きは失われて、ゴブリンは絶命したのだった。
生き物の命を断つことには、人間の時代に慣れきってはいたが、しかし感情が何も動かないわけではない。
特に、こうして人からゴブリンに生まれ変わって、微妙に同族意識でも芽生えたのか、少しだけ悲しいような気もした。
しかしすぐにその感情は薄れて消えていった。
これからはゴブリンを殺しても、おそらくなにも思わないだろう。
「さて……では魔石を……うっ!?」
ゴブリンも魔物であるから魔石を持っている。
それを取り出そうと短剣を振り上げたところで、ふと体に違和感を感じた。
それは妙な感覚だった。
まるで体の中に熱いお湯を注ぎ込まれているような、そんな感じだ。
「これは一体……?」
しかし、あくまでもそれは一瞬で、すぐに落ち着く。
なにが起こったのか、それは分からなかったが、
「……む? 少し……ほんの少しじゃが、魔力と闘気が増えた、か……?」
そう、体の奥底にある魔力と闘気。
それが少しだけ増えたような感覚があった。
それに自らの体を見てみると、そこにはあいも変わらず枯れ木のような手足が見えたが、先ほどよりも若干、たくましくなっているような気がした。
ただの気のせい、と片付けることも出来たが……。
「いや、これはおそらく気のせいではなかろう。しかし確信を得るためにはもう少し検証が必要じゃな……」
そう思って、儂はとりあえず実験をしてみることにした。
*****
「……ギギィ!」
儂の短剣がゴブリンの首筋を切り裂く。
致命傷だ。
ゴブリンはそのまま地面に崩れ落ち、少しの間ピクピクと震えていたが、目から光が消えていった。
「これで五体目、か。そしてこの後は……っ! やはり、来たか……!」
体の中に熱いお湯を注ぎ込まれたような感覚。
それがまた、儂に襲いかかってくる。
最初のうちは驚いたこの感覚も、五回目ともなればもう慣れ始めていた。
それも、これを受け入れた直後、体内に存在する魔力と闘気が増えているとなれば、むしろ嬉しい苦しさだった。
「……やはり、今回も増えている。微々たるものじゃが、しかしそれでもそう簡単に増やすことは出来ぬもの。ゴブリンを倒す程度でこれだけ増えるのであれば、ありがたいことじゃ」
そう思った。
魔力も闘気も、修練によって増やすことが可能な力だ。
しかし、大幅な上昇は中々見込めず、特別な秘薬を使うとか、命を賭けた修行をするとか、そういうことが必要になってくる。
また僅かな上昇幅にしても、毎日深く瞑想を何時間も行なったり、魔力が完全に尽きるまで魔術を使い続けたり、といった負担を根気よくかけ続けることが必要なのだ。
けれど、今回の儂の魔力や闘気の上昇は、ただゴブリンを倒しただけだ。
それなのに、深く瞑想を行なった場合に匹敵する上昇をしている。
もちろん、今の儂の魔力量全体からすれば大した量ではないが、普通に修練してもこれだけ上げることは意外に難しいのだ。
それなのに……。
どうしてこんなことが起こったのか。
少し悩んだものの、儂には心当たりがあった。
それは、魔物だけが持つと言われる性質である。
曰く、魔物という存在は魔物同士で争い、殺すことによって、殺した相手の力を僅かだが吸収することができる、という学説だった。
魔物がより上位の魔物に《進化》する。
その現象は頻繁に確認されてはいたものの、その条件についてははっきりとしていないことも多い。
例えばスライムなどは摂取した食べ物の傾向で《進化》しているように見えるし、おそらくその可能性が高いことを考えると、その方法は一つではなさそうだからだ。
ただ……儂が今感じている感覚からして、一つの方法として他の魔物を殺すことによって力をつける、というのも《進化》の方法として正しいように思える。
少なくとも、確かに儂の力は上昇しているからだ。
見た目上は多少筋肉がついたかな、というくらいだが、これを何度も繰り返していけば……。
いずれはもっと上位のゴブリンになれるかもしれない。
それが出来なくとも、より多くの魔物を殺せば、その分、力がつくのは間違いないのだ。
魔物を倒していくことで、通常の修行を重ねるよりも容易に強くなれる。
これは、儂にとって間違いなく朗報だった。
なぜと言って、いくら修行しようともただのゴブリンのままでは、つけれられる実力にも限界がありそうだからだ。
緑鬼族であれば人と同様に、限界などなくどこまでも伸びていくかもしれないが、流石にゴブリンでは……。
それに、それが出来るとしてもかなりの時間がかかりそうだ、というのも確かだ。
しかし、魔物を倒すことによって魔力や闘気を容易に増やせ、さらにより上位種への《進化》の可能性もあるならば。
きっと際限なく強くなっていくことも可能なはずだ。
ゴブリン種の最上位は、ゴブリンキングだ、と言われている。
歴史上もほとんど出現したことはないが、出現すればとてつもない数のゴブリンを従え、その上自らも戦士としてドラゴンに匹敵する能力を持っているという。
かつて出現したものは、数え切れないほどの犠牲を出し、その上で英雄とか勇者とか呼ばれるような強者の手によってやっと倒されたのだ。
それだけの力を得られれば、儂の復讐もきっと成ることだろう。
ただ……そんなことが出来るのかどうか。
これについてはやはり、検証が必要だ。
魔物が魔物同士で殺し合うことでこんなに簡単に力がつけられるというのなら、それこそゴブリンなどすぐに強くなって、ゴブリンキングも簡単に生まれそうに思える。
それなのに、そんな存在が現れたのは歴史上でも数えるほど。
となると……そう簡単な話でもなさそうだからだ。
ただのぬか喜びで終わらないためには、しっかりと確認していく必要がある。
今はまだ、その可能性がある、くらいで留めておいた方が良さそうだと思った
*****
「……む。力の上昇が、止まった……?」
十匹目のゴブリンを倒したその時、九匹目までと同様に魔力と闘気の上昇が見込める、と思っていたのだが、いつまで経ってもその瞬間は訪れなかった。
勘違いか、と思って自らの魔力と闘気の量を確認してみるが、やはり、増えている様子はなかった。
「ここが限界だということか……? やはり、楽な話はなかったようじゃな」
しかし、ショックはさほど大きくない。
かなり期待はしていたが、これ以外に強くなる方法がない、というわけではないからだ。
そもそも、儂は魔術と闘気を磨いて強くなっていくつもりだったのだから、多少でも魔力と闘気が増えたことを喜びこそすれ、極端に落ち込む必要はなかった。
けれどそれでも……。
「残念なものは残念じゃな……今後一切、魔物を倒しても力は得られぬのだろうか。それとも……いや、まだ分からん。ゴブリンとスライムしか倒していないのであるし、他の魔物を倒せば違うかもしれぬ」
武術の修行と同じだ。
弱い相手と戦い続けても、実力の上昇には限界がある。
それと同じことが、この魔物の《進化》にも言えるのなら……。
もっと強い魔物を倒せば違う、と言うことになりはしないだろうか。
安易な考えかもしれないが、だからと言って試さないと言う手はない。
儂は新たな魔物を探して、森の中を徘徊する……。
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