ゴブリン。
それはこの世界のありとあらゆるところに出現する最弱の魔物として有名な存在だ。
ただ反面、その器用さは人間に迫るところもあることで知られており、武具を扱う者や魔術を操る者もいることでも知られる。
さらに歴戦のゴブリンはその力を磨き上げ、強力な戦士や魔術師に成長することもある。
それでもやはり、それは珍しいことで……その辺の森などに出現するのは、低級の冒険者でも倒し切れるような、弱いノーマルゴブリンであるのが普通だ。
また、似たような見た目をしている種族に、緑鬼族という亜人もいて、判別が難しいことでも知られる。
オーガに似た大鬼族や、オークに似た豚鬼族などと言った魔人族に分類される種族の一つだが、魔人族自体、今の時代には非常に珍しく、滅多に見ることは出来ない。
だから儂は湖面を鏡として見たとき、そこにゴブリンがいる、と即座に思ったのだが……緑鬼族の可能性もある。
見た目は同じだが。
ぺたぺたと自分の顔を触り、確かにそれが自分であることも確認していく。
そして、それが間違いなく事実であると頭に染み込んでいくにつれ、自分の状況に考えが及んでいく。
「何故……儂はゴブリンなどになっている……? 儂は、普人族《ヒューマン》であったはずではなかったか?」
そうだったはずだ。
普人族のバルタザール・レシャークとして七十五年生き、そして自らの子供や孫、部下たちによって殺された愚かな皇帝。
それが自分で間違いない。
それなのに……一体これはどういうことだ?
そんな疑問が頭の中を支配する。
しかし、当然のことながらその疑問に対する答えはどうやっても出すことができなかった。
周囲に人もいないし、ゴブリンに話しかける者などもいない。
自分一人で考えるしかないが、いくら考えてもわからないことだ。
加えて、一応、亜人に分類される緑鬼族の見た目と同じだとは言っても、魔人族は色々とあって、多くの国で差別されがちな種族だ。
帝国の街に行って、門を遠ろうとしても止められるか門前払いになる可能性が高い。
場合によっては殺される危険すらある。
それを思えば、今いる場所が人のいなさそうな森であって助かった。
もしこれが街中であればと考えると恐ろしい。
そもそも、ゴブリンは最弱の魔物だ。
もしもこの体が、その性能もその辺のゴブリン程度であった場合、野生のスライムにすら負ける可能性がある。
そんな状況で冒険者や騎士のいる街に唐突に放り出されたら……。
もうその瞬間に殺されておしまいだろう。
身につけているものも、それこそ布切れ一枚で、緑鬼族だと言い張ってもゴブリンだと判断されてしまうような格好である。
魔人族と魔物との見分け方の一つに、格好、というものがあって、魔人族はしっかりとした衣服や武具を纏っているのが普通だ、というのがある。
そこからしても、今の儂の格好はとてもではないが文化的な存在には見えない。
やはり、森の中で良かった……。
問題はまだある。
それはこんな森の中で、ゴブリンが一匹でどうやって生きていくのか、というものだ。
さっきまでは勇ましく自分を殺した連中に復讐してやろう、などと思っていた儂であるが、現実的に考えてそれを達成する前に餓死したりその辺の魔物に襲われて死ぬ方が先、という危険性が高い。
そうなればどれだけ復讐心を燃やしていようとあやつらになんの痛痒も与えることなくこの世から消え去る羽目になってしまう。
それはどうしても避けたかった。
どんな理由で今、儂がこんな存在になってしまったのかはまるで分からないが……それでも、目標は一つだ。
あやつらに復讐をする。
この際、この見た目、格好、そんなものはどうでもいいと受け入れるしかない。
その上で、目標を実現できるように努力を積み重ねるのだ。
ただ、そのためにはまず、今日明日を生き延びることを考えなければならない。
それが出来てから復讐については考える。
そういう優先順位をとりあえずつけ、そしてこれから何をすべきか考えてみた。
「……ふむ。森、か。そしてゴブリンという貧弱な体……。いや? そもそも今の儂は本当に貧弱なのだろうか? あまり普人族だった時と感覚は変わらぬが……」
まずはそこからだろう。
自分の体の性能の把握。
貧弱なら、鍛える。
それで解決するからだ。
ゴブリンの体であったら色々と絶望的だが、緑鬼族の体であれば、鍛えればかなりの戦士になれる可能性がある。
魔人族というのは強力な力と魔力を持つ種族であり、それはゴブリンとそっくりな緑鬼族とて例外ではなかったはずだ。
レシャーク帝国という広大な版図を有する国家の皇帝であった儂で滅多に遭遇することはなかったくらいだから、絶対正しいとまでは言い切れないが……。
「……何にせよ、とりあえずは色々と試してみるか……む、ちょうど良いところに木の棒があるな」
落ちている枯れ木を拾う。
出来ることならこんなものではなく、ちゃんとした武具が今すぐに欲しい。
森というのは危険なところだ。
動物も多くいるが、魔物が跋扈し、弱いものは強いものに食い物にされるという単純な論理が支配する空間。
その中で、最も弱い存在であるだろうゴブリンの命など、それこそ風前の灯火に等しい。
だからこそ、戦う力がなければ……。
わしは拾った枯れ木を構え、降ってみた。
ヒュン、といういい音が聞こえた。
ゴブリンが振ったにしては鋭いと思う。
だが、その一振りで理解できたことは、以前の体の時よりも明らかに弱くなっているということだった。
死の間際は七十五歳だった儂であるから、全盛期と比した場合、どう考えても衰えてはいたが、それでもその辺のゴブリン程度ならば簡単に討伐出来るくらいの実力はあった。
鍛え上げた肉体で振るう剣のたてる音はこんなものではなく、本気で震えば衝撃波が生じるほどだった。
それが今やどうだろう。
粗末な枯れ木一本すらまともに振れない。
いや……そこまで捨てたものではないかもしれないが……。
何度も枯れ木を振るって自分の体を把握していく。
やはり、見た目通り腕に筋力がなく、まるで力が乗らない。
それに相当に小さな体、大体六、七歳くらいの少年のほどしかない体であるからリーチも短い。
ただ、悪いことばかりでもなく、小回りはかなり利くし、身を隠すのだったら前の体よりもずっといいだろう。
今いるような森の中なら、茂みを見つければすぐに隠れることが出来る。
それは森でとりあえず生きるのにはかなりの利点である。
生きていくにはこの体が魔物だろうが亜人だろうが、食料と水を確保することが大事だろう。
水については湖があるのだから問題ないとして、問題は食料の方だ。
木の実や果物、山菜などで凌いでもいいが……それだけだと効率が悪い。
やはり動物を捉えて肉としなければ、体力も失われていくだろう。
幸い、儂は若い頃は野山で過ごした経験が豊富にある。
元々は冒険者として、冒険者|組合《ギルド》で依頼を受けながら生活していたのだ。
魔物の討伐や素材の採取、護衛仕事などなどをする中で、当然、野山で生きる術というのが必要になってくる。
初めのうちは全くやり方も分からなかったが、一つずつ学んでいき、最後の方は身ひとつあれば春夏の森であればいくらでも生活できるくらいになった。
その経験が、これから生きるはずだ。
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