「……ふう。とりあえずはこんなところかのう」
息を吐くと、体の中に籠もっていた熱が蒸気のように吹き出てきた。
あれから三日。
食事の時間以外はずっと闘気を練り続けて、やっと一応の目処がついたところだった。
と言っても……。
「完成には程遠い、か。当たり前だとは分かっているが、もどかしいものじゃな」
体を動かしてみるが、初期よりもかなり軽くなっている。
特段闘気は使っていないが、練気は体の調子を整えることにも繋がるため、その効果だ。
通常の人間は、身体中にぼんやりとした気が満ちている状態で、しかもそれが常に垂れ流しになっている。
場合によっては体の中で凝り、病気となって現れることもある。
しかし練気によって一応、気が整えられた状態にまで持ってくればそのようなことは起こらない。
体の調子が良くなり、疲労も溜まりにくく、さらには体力の向上も見込める。
ここに闘気の意識的な運用もすれば、野ウサギを狩ることくらいは造作もなくなるだろう。
なら最初からそうすれば良かっただろう、と思えるかもしれないが、この状態に至るまで三日間もかかったのだ。
可能な限り、間髪入れずに集中する必要がある修行なので、途中途中で狩りに行く、などということは出来ない。
だからまず数日分の食料確保が必要だったのだ。
まぁ、そういう訳で、今日からは食料の心配はあまりしなくてもいいだろうと思う。
ただ、何の心配もなくなった、という訳ではもちろんない。
あくまでもスタート地点に立っただけだ。
これから儂がすべきことはたくさんある。
そもそも、あやつらに復讐する、という目的から考えて、一人でそれをなすことは現実的ではない。
そうである以上、誰か仲間となるべき者を探す必要があるだろう。
このようなゴブリンの体である以上、普通の人間の中にそれを求めるのは難易度がかなり高そうだが……。
それでも誰かと接触を持つ必要がある。
何せ、儂の復讐対象は、世界でも有数の国家のトップたちなのだ。
それに対抗しようと思ったら、生半可な人数では対抗できない。
人を集め、組織を大きくし、そして可能であれば国家を起こすことまで考えなければならないだろう。
それを想像するとその目標の遠さが身に染みる。
確かに儂は人間だった時、その七十五年の人生でもって、国家を作り、レシャーク帝国という世界最大級の国にまでした経験がある。
けれど、もう一度同じことをやれ、と言われて、はい出来ますと即答できるかと尋ねられれば、当然、無理だという話にしかならない。
なぜと言って、そもそもそのような国家を作れたことそれ自体が奇跡のようなものだからだ。
儂とて、自分の力に自信がない、という訳ではない。
しかし、それとこれとは話が別なのだ。
どれだけ個人として優れた力を持っていたとしても、国を作ろうと思ったらいくつもの幸運に恵まれなければ無理に決まっている。
実際、人間だった時の儂には、その幸運が数え切れないほどあったことを自覚している。
中でも一番は、《人》に恵まれたことだ。
儂はもともと、あくまでも腕っぷしと、人を戦いの中で率いる力にだけ、優れている人間だった。
それだけでは当然、国などできない。
しかしそんな儂を助けてくれる仲間たちがたくさんいて……彼らと共に儂はあの国を作り上げることが出来たのだ。
だからこそ、仲間が、家族が、国民が、最も大切なのだと思っている。
最後にはああして家族と部下に裏切られてしまった訳だが、あの中にはレシャークの創成期に協力してくれた者たちは一人もいなかった。
あくまでも彼らは、国が安定した状態で統治に参加した者たちに過ぎない。
だから優れていない、という訳ではないのはもちろんだが。
国が安定した状態で必要とされる人材と、国を作り上げるときに必要な人材は異なる、ということだ。
どちらも兼ねることができる者というのはいるし、儂がレシャークを作り上げたときに協力してくれた者たちはまさにどちらも兼ねることができる者たちだった。
ただ、彼らは残らなかった。
ある者は寿命のゆえに、ある者は任務中に命を落とし、ある者はもはやここに自分は必要ないと言って。
櫛の歯が欠けるように、一人、また一人といなくなっていった。
それでも皆が死んだ訳ではなかったのは確かだが。
「……もしも儂が死んだ後、葬式があったのなら、来てくれたのだろうか」
柄にもなく、そんなことが気になった。
もし来てくれたというのなら、せめてそのシーンくらいまでは見せてくれても良かったのに、とも。
あんな腹の立つ場面だけ見せられてゴブリンになりました、なんて。
神もへったくれもあったものではない。
「だが……そうか。まだ皆死んだ訳ではなかったな。ではいずれ会いに行くのもいいだろう」
そうも思った。
もしもかつての仲間たちに会えたとして、儂のことを儂であると認識してくれるかどうかという問題はある。
だが、あいつらなら、笑って受け入れてくれるのではないか。
そんな気もした。
まぁ、それすらもまだまだ夢のような話だが……。
「……さて、随分と喉が渇いた。水を飲みに行くか……」
三日間、最低限の食事と水分だけ取っていたので、だいぶ喉が乾いていた。
特に三日目は丸一日食事も水分摂取のしていなかったので、かなり乾いている。
幸い、というべきか、水の確保のために湖の真ん前に儂の拠点はある。
木から降りて少し歩けばすぐに湖に到着した。
「……ふう。このまま復讐も何もせずに、ここで暮らしていくというのも悪くなさそうなんじゃがな……そんなわけにはいかんか」
澄んだ水を口にすると、身体中に水分が行き渡って爽快な気分になる。
闘気をある程度操れるようになって、体の感覚が鋭敏になったことが影響しているのだろう。
一瞬、復讐の感情を忘れてもいいかもしれない、というような考えも湧く。
だが、やはりそれは出来ない相談なのだ。
すぐに怒りの感情は戻ってきて、儂の心は赤く燃えた。
こんなもの、ない方がいいことは分かっているが、それを儂の中の何かが許さない。
「死したのち、こんなものに囚われるようになるとは予想外じゃったな……じゃが、人生に明確な目標があるというのも悪くはない。しっかりとそれを目指して……むっ?」
ぶつぶつと独り言を言いながら水を飲んでいると、ふと、突然、大きな気配を感じて儂は近くの茂みに隠れた。
練気を応用して、体内の闘気の放出を極限まで抑えると、周りからは気配のほとんど感じられない状態になる。
《隠伏》と呼ばれる技法であり、闘気の技法の中でも比較的覚えやすいもののうちの一つだ。
これに長ければたとえ目の前にいたとしても存在に気づかせないところにまで達するが、今の儂では茂みに隠れるなどの補助的な手段に頼らなければ見つかってしまうだろう。
人間だった時なら、それこそ目の前にいても気づかせない自信があったが……やはり、修練あるのみだ。
そして、息を殺しながらしばらくじっとしていると、それは現れる。
のっしのっしと現れたのは、二メートルほどはある、豚がそのまま直立したような存在だった。
服は身につけておらず、粗末な腰布を巻いている程度である。
手にはかなり太い木の枝をちょうどいい長さにまで折ったかのような、棍棒のようなものを持っていた。
きょろきょろと周囲を見回しているのは、獲物を探しているのか、それとも脅威となるものを警戒しているのか……。
しかし、幸いなことに儂の存在にはまるで気づくことがなく、そのまま安心したように湖にしゃがみ込んで水を飲み始めた。
この湖を拠点にして数日が経ったが、ここにはああいうものは来ないのだろう、と少し安心していた。
けれどそれは間違いだったようだ。
あれは魔物だ。
その中でもゴブリンやスライムよりずっと強力な魔物。
オークと呼ばれる存在であった。
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