すぐに湖に戻り、とりあえず首をどうにか鋭い石を包丁代わりに落としてから、手頃な木の枝に拾った木の蔓を使って吊るし、血抜きをする。
周囲についてはよくよく確認している。
こういった水場は実のところ危険だからだ。
水は生き物ならどんなものでも必要とするもので、つまりこの湖を飲み水にしているのは儂だけであるはずがない。
野生動物や魔物の類も来ているはずだ。
魔物については豊富な魔力さえあれば生きていく分には問題ないと言われているが、ただ息をしているだけでそれだけの魔力を確保できる場所など稀だ。
従って他の動物や魔物を襲って食べるだろうし、水も飲むだろう。
「……この森はかなり魔力が濃いようじゃが……それでも魔物が何も食わずとも生きられるほどではないじゃろうな……。儂が腹が減るのもその証拠かもしれん」
儂もまた、魔物である。
ゴブリンとて、最弱とはいえ魔物であるのだから十分な魔力があればそれだけで生存を確保することもできるはずだ。
ただ、残念ながらしっかりと腹は減る。
体内にかなりの魔力を持っているからこれでなんとかならないか、と思うのだが、魔力回路が全く出来ていないため、吸収できないのかもしれない。
高位の魔物になればなるほど、生物としての食事をあまり必要としないものが増えていくが、ゴブリンは人間と同じくらい食べる。
それは魔力回路が皆、貧弱で、魔力を吸収する力が弱いからだと言われていたが……この分だとその学説は正しい可能性が高い。
魔力回路を鍛え上げれば、儂は食事が不要な存在になれる可能性もあるということか。
そう考えると、この体は……これからもこつこつ調べ上げていく必要がある。
今一番気になっているのか、この体の年齢と寿命なのだが、調子はすこぶる良く、今日明日死ぬという感じではない。
少なくとも皇帝だった時の晩年のような、体から力がどんどん抜けていくような状態ではなく、むしろ若い頃のなんでもやれると思っていたときのようなエネルギーすら感じる。
こうやってゴブリンになったことで、体もかなり若いものになっている可能性が高い。
魔力回路や気の練りが全くのゼロになっているとこから考えても、そう間違ってはいないような気がする。
ちなみに、魔物というのは基本的に高位のものになるにつれ、寿命という頸木から解放されていくという。
強大なドラゴンなどに数千年の月日を存えている者がいることからもなんとなくわかるような話である。
ただ、当然のことながら我ら……とはもう言えないが、普人族という種族は寿命が短く、そういった長き時を生き抜く存在をずっと観測し続けることは至難の業であり、果たしてそれが本当なのかどうかははっきりはしていない。
魔物というのは昔から研究され続けているが、その生態のほんの一部しかわかっておらず、これから先もその全容が明らかになることはないだろうとも言われているほどだ。
だから儂が、儂自身について全て知るのは難しいかもしれないが……それでも自身の体なのである。
ただゴブリンを捕獲して研究するくらいしか出来ない学者より、正確なことが分かるかもしれない。
もちろん、学者のようにわかる、というわけではなく、あくまでもこの体で生きていくのに何が大事なのかをわかる、というくらいの意味だが。
「そろそろ良いじゃろう……」
吊るしていたウサギを外し、解体を始める。
腹を裂いて内臓を出し、そこまでやったら後は部位を適当に切り分けるだけだ。
後は三日分に分割して、今日の分以外は森の中でちゃっかり採取してきたミュールという木の葉で包んでおく。
これは昔からの知恵で、この葉で包んでおくと、生肉の劣化が防げるのだ。
理屈は昔、エルフの知り合いに聞いた記憶があるが、かなり細かいことを言っていたので忘れた。
ともかく、保存が効けばいいのだから、今の儂にとって理屈などどうでも良い。
概ね、気温が高すぎない環境でなら一週間程度は持つという話だったから、三日間くらいなら余裕だろう。
そして、しっかりと肉をしまった後は、ウサギの肉を焼いていくのだが……。
「……火を作れるかどうか……」
よく乾いた枯れ木を拾って火床を組んであるのだが、肝心の火種がない。
一応、できるだけ真っ直ぐな木の枝と、太めの枝をうまく割って板状にしたもの、それから何の木のものかはわからないが、シュロの皮のようなものを拾ってある。
木の枝と板の間にシュロの皮を起き、木の枝を高速で回して摩擦で火種を作ろうという作戦なのだが、うまくいく可能性はそれほど高くない。
ただ、それでもやってみるしかないのだ。
「……どうか、ついてくれ……!」
そこから儂の奮闘は始まり、一時間が過ぎたか、という頃になってやっとコツを掴めてきたようだ。
煙が僅かながら出てきたので、それをなんとか大きくすべく、儂は一生懸命木の枝を高速で回した。
そしてついに……。
ぼっ、と小さな火というか、シュロの皮のような植物の繊維の一部が炎の色に染まった。
儂はそれに慎重に空気を吹き込み、大きくしていく。
そしてなんとか蝋燭の火の半分くらいの大きさになった、と思ったところで、火床にそれを移した。
なんとかシュロの皮のようなものに火はついたが、ここから火床に移らなければ全てはおじゃんだ。
またゼロからになってしまう……。
そう思うと不安でたまらなかった……。
「……おぉ!」
徐々に煙が大きくなり、そしてパチパチと焚き火の音が聞こえ出した。
火はしっかりと火床に移ったのだ。
これでなんとか、生活できる目処は立ったので、儂はひどく安心する。
なんとなく、腰が抜けるような感じでそこに座り込んだ。
しかし……。
「おっと、火をつけてそれで終わりではなかったわ。肉を焼かねば……」
そのために火をつけたのだ。
儂はウサギの肉に細い木の枝を打ち、焚き火の周りに刺す。
魔導コンロのように調整できる火ではないので、うっかりすると全てが真っ黒焦げになってしまう。
それではせっかくの肉が台無しだ。
命を奪ったのだから、しっかりと食べてやねば……。
しばらくそんなことを思いながら肉の向きを調整し続け、そしてとうとう、ウサギの肉が焼き上がる。
香ばしい肉の匂いがした。
涎が我知らず垂れる。
儂は我慢できずにガブリと噛みつき、そして口の中に広がるウサギの肉とその油を堪能した。
「……実にうまい。死の間際に飲んだあの毒……あれも甘やかで、味自体は悪くなかったが、やはりこちらの方がうまいな……。それに、味覚もだいぶ鋭くなっているようだ……やはり、若返っているのか……」
思いがけず、体の性能チェックにもなった食事である。
ただ……。
「残念なのは、塩や香辛料がないことか……。帝国であればいくらでも手に入ったものだが、こうしてどうやっても手に入らない身分になると酷く欲しくなってくるものよな……だが、今はこれで満足するしかあるまい。いずれ必ず、またうまい料理を食えるようになろう……それまでの我慢じゃ……」
言いながら、そんな日が果たしてくるのだろうか、という気がした。
一応三日間の食料の心配はなくなったとは言え、まだまだ綱渡りのような状態だ。
ここから、あの儂の死を願った者達への復讐をするまでに、どれほどの距離があるのか。
考えるだけでも頭が痛くなってくる。
「それでも……儂はやるのじゃ。必ず。必ずじゃ……」
ぶつぶつと決心を新たにする中、森の夜は更けていったのだった。
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