◆ノルトン ゴッドワルド男爵領 聖教団寺院
聖教団寺院の二階は小部屋に分かれている。
その一室、飾り気がない質素な作りの部屋に木製のベッドが置かれていて、そこにヴァールは寝かされていた。
地味な寝具だが品は良くて手入れも十分、清潔でふかふかしている。
だがヴァールは汗をかいてうなされている。
傍らで見守っていたジリオラは濡らした布でヴァールの顔や首を拭く。
「こんなに熱くて大丈夫なのかな。あの偉そうな人はただ寝かせておけばいいって言ってたけど」
ジリオラはヴァールに額に手を当て、
「うん、やっぱり熱すぎるよ。診てもらおう!」
呟いて部屋を出ていった。
ヴァールは夢にうなされていた。
もう何百年も出していなかった高熱が、ヴァールを昔の記憶へと誘う。
周囲はにぎやかだ。
手が温もりに包まれている。
大声で話している者がいる。
ヴァールは自分がどこにいて何をしているのかと訝しむ。
目の前に誰かいて自分に話しかけている。
直視しているのに顔がはっきりしない。
胸が痛みに襲われる。
見えないのではなく、見たくないのだ。
目をそらした先には大勢の魔族。
きらびやかに飾られた大広間。
ああ、ここは魔王城だ。
そうだ、今日はヴァール魔王国とウルスラ王国の和平会談が行われる日。
魔王城には久々に四天王が集まってくれている。
自分に話しかけているのは四天王アウランだ。
元気で楽しい大好きな友。
その顔をどうして見たくない?
ヴァールは記憶からアウランの顔を呼び覚まそうとする。
血に塗れた姿が脳裏をよぎる。
刺すような激痛を覚えて胸を手で押さえる。
違う。
そんなことはありえない。許されない。
ヴァールは必死で記憶の底から元気なアウランの姿を探す。
だが見つからない。
なぜだ。
そう、自分が固く蓋をしているからだ。
離れたところから自身の声が聞こえる。
気が付くと、いつの間にかヴァールは自分自身を眺めていた。かつての姿、ヴァール魔王国の王。
魔王が四天王アウランと話をしている。
アウランの顔ははっきりとは見えない。
「いよいよ会談だな! ヴァール。どかんと成功させろよ」
龍王国の支配者にして、ヴァール魔王国の押しかけ四天王、龍王アウランが魔王の手を握る。
「遂に和平の話ができるところにまで来たのじゃ、慎重に進めるぞよ」
魔王は穏やかな声で応える。
「はあああ? 遠慮してんじゃねえよ、気合込めてやるからさ」
アウランは魔王の手をぎゅっと握りしめる。
彼女の強大な魔力が流れ込んでくる。
「大事な日だってのに顔色が悪いじゃねえか、しっかりしろよな」
「ありがとう、気合が入ったのじゃ」
魔王は目を細めて礼を言う。
アウランは態度こそ乱暴だが本当に優しい。その証拠にアウランの怖がりな娘ジュラが、彼女の後ろにしがみついている。
紅の髪の毛を持つアウランとやはり紅の髪を伸ばしたジュラ、よく似た母娘だ。
「やい、魔王、お母さんのほうが強いんだからなあ! びびってんじゃねえぞお!」
アウランの後ろに隠れながら、幼いジュラは小声でヴァールに文句を付けてくる。
微笑ましい光景だ。
魔王は背をかがめてジュラの頭に手を伸ばす。
ジュラは引っ込みかけたが、おそるおそる頭を前に出す。
「いい子じゃ、ジュラ」
「な、舐めるんじゃねえぞお」
ジュラの頬は真っ赤に染まっている。
アウランは笑った。
「この子は魔王に会えるんだってそれはもう楽しみにしてやがったのさ。魔王は世界一きれいなんだとよ。ったく、この母をさしおきやがって」
ジュラはひしっとアウランにしがみつき、
「お母さんは世界一好き」
武闘派で知られるアウランが蕩けるような表情を浮かべる。
つられて魔王も微笑む。
ここは魔王城の大広間。
魔王はそろそろ和平会談の地であるノルトンに出立せねばならない。
魔族と人間、いずれも首脳が代表として会談に赴く。
魔族からは魔王、人間からはウルスラ王。
本来であれば大臣級が全権委任されて出るべきところだが、有力魔族の中で穏健派なのは魔王だけ。人間側も派閥だらけで抑えられるのは唯一ウルスラ王だけ。
問題は魔王が魔族の最大戦力でもあるところだった。
やろうと思えば一瞬で人間の代表者たちをまとめて屠ることもできるだろう。
人間の恐怖を抑えるため、魔力吸収能力を備えた剣ヘクスブリンガーを魔王は自ら鍛え、己の魔力を封じ込めた。
今の魔王にはごくわずかな魔力しか残っていない。これ以上魔力を使えば自らの身体を削ることになる。
それでもまだ魔王を恐れる人間たちのために、魔王はヘクスブリンガーを人間の勇者に渡すことまでやった。
人間側はさすがに安堵したようだが、収まらないのは魔族たちだ。
そもそも強い力を持つ魔族たちだ。それが魔王によって統合され、一大軍団を成している。しかも史上最強の魔王を擁しているのだ。
小うるさい人間など滅ぼすべしという意見が魔族の大半だった。
「我が君、今からでも遅くありません。和平は取りやめましょう。せっかくですから人の王は生かして帰さないのがよろしいかと」
四天王の一人、冥王ネクロウスが陰気に言う。
彼はいつも魔王の真似をして黒いローブに身を包み、杖を持った姿だ。
実体のないヴァールは、魔王とネクロウスが会話する様子をただ眺めている。
こんな会話をしただろうか。
まるで思い出せない。
いや、思い出したくないのだ。
せっかく数百年もかけて心の奥深く封印したというのに。
ネクロウスやバオウとの再会が封印に傷をつけた。
あふれ出てくる楽しく温かく優しい思い出、そして恐ろしい鮮血。
ヴァールの目にはネクロウスの顔も定かには映らない。
ネクロウスに限らず誰も彼も曖昧だった。魔王自身の姿を除いて。
ヴァールにはただ眺めていることしかできない。
自分のせいで皆が破滅へと向かっていくというのに。
魔王はこの上なく美しい顔で苦笑する。
「ここに至るまでにどれほどの血が流れたと思うておるのじゃ。もう血は要らぬ」
「しかし人間なぞ」
「余にとって、全ての魔族と人間は等しいのじゃ」
ネクロウスは口を歪めるが反論はしない。
彼自身、魔族からも忌み嫌われてきた死霊操術師だ。
しかし魔王は彼を差別することなく仲間に入れた。
それからのネクロウスは一途な思いで魔王に尽くし、闇の魔法を司る四天王、冥王として魔法の発展に取り組んできた。
ネクロウスは魔王を崇めている。不本意を表明はしても逆らうことなどありえなかった。
大広間の柱、その陰からふわりと男が現れる。森魔族《エルフ》の忍者だ。
四天王が一人、忍王サスケ。
「陛下、ノルトンを調べてきましたぞ。伏兵はござらぬ。近衛兵を連れたウルスラ王だけですな」
「ウルスラ王も本気のようじゃな。しかし、てっきりエリカもおるものとばかり思うておったが」
「勇者の姿は見ませなんだ」
「そうなのかや」
魔王は寂しげな表情を浮かべる。
ヴァールは胸をかきむしる。
なぜ気が付かない。
もう始まっていたというのに。
痛い。苦しい。
「人間側の最大戦力であるエリカ=ルーンフォースの動向が分からない以上、和平会談は延期すべきかと存じますが」
サスケが主張する。
「会談は予定通り行うぞよ」
魔王は断固とした様子だ。
「人間なぞ信用なりませぬぞ」
サスケは苦々しそうな声で言う。
一際大きな巨躯の鬼魔族、四天王が一人、鬼王バオウがか細くかわいらしい声で、
「わたしもついてっていいかな…… ヴァールちゃんを守りたい……」
「すまぬのう、バオウ。余が一人で向かう約束なのじゃ」
「でも…… なんだかこわい……」
魔王は腕を広げてバオウの巨躯を抱きしめた。
「いつも怖がらせてばかりですまぬ。しかし、もうじき恐ろしい戦もおしまいじゃ」
「……うん」
「では、そろそろ時間じゃな」
魔王の周囲に魔法陣が生じ、風を巻き始める。
大広間の窓が風に押されて勢いよく開く。
「我が君、万歳」
ネクロウスがぼそぼそと言う。
「ヴァールちゃん、ばんざい」
バオウが小声で言う。
「ま、魔王さま、ばんざあああい!」
ジュラが勢いよく叫んだ。
それをきっかけに皆が大声で万歳を叫ぶ。
「行ってくるぞよ」
魔王は風のマントをなびかせて宙に浮かび上がった。
行くな。行ってはならない。ここに残らねば。
ヴァールは声なき声で叫ぶ。
だが誰に届くこともなかった。
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