あらゆる魔力を吸収する次元空洞、暗黒洞。
魔王は小さな暗黒洞を作りだすことで、その中への融合侵入に成功した。
不要になった小さな暗黒洞を解除、魔王は次元空洞の中に出現する。
そこは完璧な暗黒に塗りつぶされた世界。
光もなく音もなく風もない。
いや、その中にひとつの存在があった。
白い甲冑をまとい、剣を提げた少女。
虚空に浮かぶ少女が魔王に一礼してみせる。
ヴァールの意識は魔王と重なってこの様を見ている。
だが少女の姿をはっきりと捉えることがどうしてもできない。
直視できない、したくないのだ。
「ふふふ、待っていました。私の魔王様」
「信じとうはなかった…… 汝なのかや…… なんぞ化けているのではないのかや」
少女は不満げな口ぶりだ。
「間違いなくあたし、エリカ・ルーンフォースですよ。ほら」
エリカは虚空でくるりと一回りしてみせる。甲冑の裾がふわりと泳ぐ。
少女の身でありながら人間最強の剣士にして魔法をも極めた大魔導師、魔王の天敵として生まれた者。そして魔王の愛する友。
別人が化けたとて、魔王の前にだませようはずもない。
「紛れもなく勇者エリカ、本人じゃ…… しかし」
拭い去れない違和感もあった。
「共に和平をもたらそうと誓い合ったではないかや」
「ふふっ、魔王国がなくなれば戦争も終わりますよ」
魔王は歯を食いしばる。
エリカの声色にからかいの色はある。しかし嘘をついているとは思えない。
「ーーそんなことを言うエリカではない」
「ふふふふふ、聖女神アトポシス様がおっしゃってます。魔力は星から盗んだもの。星に返さなきゃいけないんですよ」
「アトポシスじゃと? あの新興宗教の」
聖女神アトポシスはこのところウルスラ王国で急速に勢力を伸ばしている宗教だ。
聖女神の元に人は魔との聖戦を戦う、いつか魔を滅ぼしたときに救いが訪れるという教えは、魔族との戦争に疲れた人々に大人気となった。
各地に教会が作られ、聖騎士と呼ばれる兵士が魔族の集落を襲撃し始めている。そうした報に魔王と勇者は憂慮していたはずだった。
「ふふ、ふふふふふふ、新興宗教じゃないですよ。アトポシス様は太古の神、死せる星の神の座を継いだ、この世の守り神なんです」
「正気かや、エリカ」
エリカの変わりように魔王は戸惑う。
権力や教えから誰よりも自由だったのがエリカではなかったか。
洗脳されるとは信じがたい。
「ふふふふふふ、正気も正気、今までがおかしかったんです。正しいから貴族の皆さんも王様も私の作戦に従ってくれました。ふふふ、どうですか、王様は少しぐらいがんばってくれましたか?」
エリカは楽しそうに笑う。
魔王は自分の正気を疑う。あの優しいエリカが人死にを笑うというのか。
「国王は自ら死を選んだ。無駄死にをさせたのじゃぞ!」
「ふふっ、やっぱりそんな終わり方なんですね」
「偉大な王じゃった。彼を失ったウルスラ王国は四散してしまうであろ。民に多くの犠牲を強いると分かっておるのかや!」
「ふふふふ、安いものです。だって会談のために魔王様は魔力を捨てて、魔王国から離れてもくれたじゃないですか、ふ、ふふふふふ」
エリカは笑い続ける。
「なんじゃと!」
「ふふふふふふふふふふふ、おかげで四天王を、始末できましたし。さすがのあたしも、全開の魔王様と、四天王を相手にするのは、辛いですから、ね、ふふふふふふふふ!」
エリカの声が震えている。
誰かに魔法で支配されているのではと魔王は疑う。
しかし支配された者の虚ろさは勇者から感じ取れない。
「ふふふふふふふふふ、これで、魔王様も、おしまい。ふ、ふふふふふふふふふ、星に、アトポシス様に、その力を返すんです」
「汝と余は友ではなかったのかや……」
「あたしは聖女神の勇者、魔王様を倒すのが務め、ふふ、ふふふふふふふふふふ」
剣を提げたエリカへと魔王は近づいていく。
魔王が手を伸ばせば触れられるほどの距離に。
勇者が剣を振えば魔王を斬ることができる間合いに。
魔王はそっと手を伸ばす。
エリカの胸に掌を当てる。
「二人で約束したではないかや。戦争が終わったら、元気な者たちが血の気を余らせる。そしたら迷宮を作って冒険をさせてやるのじゃと」
エリカは魔王を切り裂くべく剣を振り上げる。
だが、その手は震えていた。
エリカは振り絞るように言う。
「……忘れるわけ…… ない……」
エリカの震えが魔王の手に伝ってくる。
魔王の手に熱い液体が当たる。
エリカの顔から涙が滴り落ちている。
「ふ、ふふ、ふふふ、ふふふふふ、ふふふふふふふふ、あはははは」
エリカは高く嗤う。
魔王はようやく気付いた。
この少女は確かにエリカ。だがその中に誰かもう一人が潜んでいる。
エリカはそんな自身をずっと嗤っていたのだ。
「余は迷宮の底で待つ。そこに勇者が会いに来るのではなかったのかや!」
魔王は叫ぶ。
振り下ろそうとする剣をエリカ自身が懸命に止める。
「……違いますよ、魔王様…… あたしも、一緒に、魔王様の隣で…… だってあたしたち……」
「ここを出ようぞ、エリカ」
「無理、です。ここは封印結界、あらゆる魔力を逃がさない、魔力があればあるほど結界は強くなる…… ほら……」
暗黒洞の吸収した魔力が多重の結界を構成し始めている。
「結界など破るだけじゃ!」
魔王は魔力を振り絞って結界にぶつける。
だが魔力を吸って結界はより強固になる。
次元空洞は縮小していきながら、幾重もの結界となって魔王とエリカを包み込んでいく。
「余は魔王じゃぞ、誰よりも魔法には詳しいのじゃ! こんな結界ごとき!」
「この結界は、魔王様自身の魔法です…… 魔王様が鍛えたこの剣、ヘクスブリンガーが、根源なんです。自分の魔法に、自分の魔力をぶつけても、強化してしまうだけ、ふ、ふふ、ふふふふふふ、だから、絶対に、魔王様には、破れない、結界なんです! どんな魔力も、逃がさない! あはははははは!」
エリカは泣き叫ぶように嗤う。
「それでは汝も出られないではないかや! 生命とて魔力の一形態なのじゃぞ!」
「ああ! そうですね! 魔王様、さすがです。その言葉のおかげで、ふふふふふ、あたしだけ出る方法を考え付きました!」
エリカは魔王を突き飛ばした。
高く剣を振りかぶる。
「止めよ、エリカ!」
魔王の叫びはエリカに届かなかった。
エリカはその剣を己の胸に突き通した。
魔力をすいとる剣ヘクスブリンガーの力がエリカの生命を魔力として吸いだし、そして次元空洞に放出していく。
「エリカ、治すぞよ!」
しかし魔王の治癒魔法は魔力を結界に吸われて拡散してしまう。
「……ご、ごめんなさい、魔王様…… 死んで、生命がなくなれば…… 魂は外に出れると思うん…… です。だから…… 生まれ変わって…… 封印を解きに…… 来ますから……」
エリカが本来の彼女に戻ったことを魔王は感じる。
エリカに巣食っていた存在は、宿主の肉体が終わることを察知して離れていったようだった。
「馬鹿なことを言うでない! 死ぬでない、エリカ!」
魔王はエリカを抱きしめて治癒魔法を流し込もうとするが効果はない。
「次は、魔王と勇者じゃなくて…… そうだ、はんりょが、いいな……」
エリカの言葉はそこまでだった。
魔力を放出しきった彼女の身体は、その胸を貫いた剣ごと結界から消え去る。
「うあ、うあああああああっ! うわあああああああああっ!」
魔王は、ヴァールは泣き叫ぶ。
アウランを失い、エリカを失った。
他の四天王たちも瀕死。
魔王国の民を守ることはできず、ウルスラ王国もこれから戦乱に襲われるだろう。
結界はどうしても破れない。
最強たる魔王自身の力を使った結界だ、魔王国の誰にも破れないだろう。
魔王国を救いには戻れない。
死者の取り返しはつかない。
全ての願いは潰えた。
魔王の心は張り裂け消えそうになる。
だが消えるわけにはいかなかった。
エリカと約束したのだから。
魔王はあまりにも辛い記憶を今は心の奥底に閉じ込める。
魔王の心から、エリカの、アウランの、サスケの、ネクロウスの、バオウの姿が消えていく。
いつかここから出ねばならないという想いだけを残して。
この虚空に存在し続けるために。
約束を守るときのために。
そして今、三百年を経たヴァールの心に想いが蘇っていく。
アウラン、サスケ、ネクロウス、バオウ。皆への想いが。
エリカとの約束が。
エリカが消え去る時、ヴァールの記憶を覆っていた霧は晴れた。
彼女の顔をヴァールは見た。
全然似ていないのに、その顔はそっくりだった。エイダに。
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