ノルトン川流域、ノルトン。
北辺の森につながる街道筋の町だが、魔族の森を好んで訪れる人間は少なく、宿商売は繁盛していない。
対魔族で駐屯している軍隊相手に細々と暮らしている田舎町だ。
そこに建てられた、城とは名ばかりの貧相な砦に晴れがましい金甲冑の近衛兵が詰めている。
ウルスラ国王を守る精鋭部隊だ。
砦の屋上には深紅の絨毯が敷かれ、天幕が設えられている。
一見すると魔法狙撃されそうで危険な高所だが、砦内に隠れたとしても大出力の魔法砲撃を受ければなす術もない。
それよりは見晴らしを重視して、守りは近衛術師の探知と結界に頼るのだろう。
風を巻いて飛んできた魔王はそこへと降りていく。
ヴァールの意識も魔王についてきて、その様を見つめている。
ここで起きることをヴァールはぼんやりとしか思い出せない。
屋上にはずらりと近衛兵に近衛の魔法術師が並んでいた。
臆せず、その中に魔王は降り立つ。
精鋭の近衛たちとはいえ、初めて見る魔王に驚きと慄きを隠せない。
彼らは魔王を直視しないように遮光仮面をつけているが、効果は不十分のようだ。
近衛兵は槍を魔王に向けかけたが、天幕の中からの声がそれを制した。
「魔王陛下をこちらにお迎えせよ」
壮年男性の落ち着いた声。
魔王は天幕の中に招かれ、ヴァールの意識もそれについていく。
そこには一人の男性が豪奢な椅子に座していた。
男は立ち上がり、挨拶する。
「私がレイウォード=ウルス、ウルスラ国王だ」
ウルスラ大陸の東西南北地方を収めるウルスラ国王、その人だ。
彼もまた仮面をつけていた。
「余はヴァール・アルテム・リヴィール、ヴァール魔王国の王じゃ」
魔王は優雅に一礼。
促されて、魔王は国王と向かい合わせの椅子に座る。
天幕の中には二人きりだ。
「知らなんだ、仮面をつけて会談するのが人の礼儀なのかや。仮面なしに訪うた無礼を詫びるぞよ」
すました顔で魔王が述べる。
「これは失礼」
国王は仮面を外す。
その両目は横に走った傷で惨たらしく潰されていた。
「見苦しさは許してくれ。なに、慣れているのでな。陛下に迷惑をかけることはない」
国王は口角を上げた。
「知らぬこととはいえ、こちらの無礼も許されよ」
魔王は椅子に深く座り直して堂々と背筋を伸ばす。
これは国王の手だ。押されてはいられない。
魔王と国王は和平条件を互いに提示し、確認し始める。
これまでに何度もやりとりをして詰めてきた条件ではあるが、必要な段取りだ。
ウルスラ王国は北辺の領土権を放棄する。
互いの組織的戦闘行為を中止させる。
互いにこれまでの戦闘行為の賠償を請求しない。
「異存はないぞよ」
魔王は告げる。
まだ完全な和平とは言えない条件だが、焦らずに一歩一歩進めていければよい。
「私にも異存はない。我々が滅んだ後もこの条件は守られるだろう」
国王は淡々と告げる。
その顔は感情を読ませない。
魔王は違和感を覚えた。
ようやく和平が成ろうとしているのに滅んだ後の話をするのか。
国王はゆらりと立ち上がって、その手を一閃させた。
「御留流、凪鎌」
天幕の布が横一直線に割ける。
その向こうにいた近衛たちも上下に両断されて崩れ落ちる。
屋上に赤い血とその臭いが広がる。
あまりの早業に一人の悲鳴も上がらない。近衛の全員が即死していた。
「魔王陛下はご無事かな。当たらないように斬ったつもりだが」
「どういうことじゃ……?」
立ち上がった魔王は確かに無傷だった。
「互いの組織的戦闘行為は中止させる。約束したとおりにな。だからこれは私と貴殿の決闘」
「ーー和平のために来たのではないのかや」
国王は芝居じみた態度で両手を上げ、ため息をついてみせる。
「魔王陛下は斃れ、魔王国は滅び、そして永遠の和平は成る」
「なぜじゃ。魔族と人が手を結べば富が得られ、智は増し、戦争の犠牲者もいなくなる。じゃが、和平が成らざればその数倍どころではない被害が出る。さんざん利を計ってきたではないか!」
魔王は怒りの声を上げる。
国王は長く深いため息をついた。今度は芝居ではなさそうだった。
「魔王陛下はあまりにも聡い。そして人は悲しいまでに愚かだからだよ」
「何が言いたいのじゃ」
「ウルスラ王国の諸侯は恐れているのだ。和平が成った後、あまりにも美しく優しく聡明にして偉大な魔王に誰もがひれ伏し、王国を奪われるのではないかとね。和平会談が決裂して多くの民が塗炭の苦しみにあえぐことになることは覚悟の上なのだよ。諸侯の座を追われるよりはましなのだ」
「民に犠牲を押し付けることが覚悟というかや!」
魔王は激昂する。
「共通の敵であった魔王国を失えば、ただでさえ不安定なウルスラ王国は瓦解するだろう。そうなればこの国王も無用になる。だから最期の務めを果たすとしよう」
国王は刀を構えるかのように手を構えた。
その手には何も握られてはいない。
「この私は魔王を倒すために据えられた王なのさ。叩きこまれた無刀の刀は、武器を持たない場所で魔王を倒すための技。あの勇者すら魅了する魔王の美しさに捉われないよう、視力も奪われた」
「暗殺者のわりには、ぺらぺらとよく話す口じゃな」
国王は皮肉げに口を歪めた。
「俺も王なのだ。せめて尽くせる礼は尽くそうと思ってね」
国王はじりじりと動いて魔王を狙う。
魔王は武器ひとつ持っておらず、魔力は枯れている。
その時だった。
北の空が白く光った。
魔王城がある方向だ。
魔王は思わず目をやる。
この機を逃さず、国王の攻撃が奔る。
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