ヴァールの駆るヘルタイガーは男爵領へとひた走り、普通に馬で行けば数日はかかる道のりを一日弱で駆け抜けた。
北辺の森を出たヴァールの前には男爵領の丘陵地帯が広がる。
立ちはだかった王軍は鎧袖一触で倒してきた。
残敵掃討を任せて森に置いてきたアークデイモンの活動もあり、もう追撃してくる者たちはいない。
夜に出立して一日が過ぎてまた夜。
なだらかに広がる丘陵は普段であれば夜闇に包まれていただろう。
だが今は違った。
無数の灯火が丘陵一帯に広がり、夜空を煌々と照らしている。
灯火は森へと動いてくる。
大部隊が進軍しているのだ。
風にはためくのは北ウルスラ王国の旗。王軍の証だった。
「敵発見!」
「報告通りに単騎!」
「油断するな! 最前線はこいつに壊滅させられた!」
次々に報告の叫びが上がる。
「かかってくるがよい!」
ヴァールは迷わずまっすぐに突撃していく。
「放て!」
指令の声と兵士の雄たけびが響き渡る。
空を埋め尽くさんばかりの火矢が赤い光の線を引いてヴァールに迫る。
殺到する火矢で、ヴァールとヘルタイガーは炎に包まれたかのように見えた。
だが、火矢は空中で止まっていた。
ヴァールを中心に火矢は回り出し、渦巻き、炎の風がヴァールの怒りの形となって吹き荒れる。
「余からエイダを奪いしこと、この指輪にかけて絶対に許さぬ」
ヴァールは炎に小さな手をかざす。
その指にはエイダと対の指輪がはまっている。
炎の明かりにヴァールと王軍が照らし出される。
王軍の前線にはクグツ兵器の大群。後方には弓兵、歩兵、騎兵、指揮官の騎士たち、魔法兵、将軍の陣。
対するヴァールは一人。
だが、王軍を率いる将軍、ディスロは悪寒を覚えていた。
ディスロはクグツ部隊を作り上げ、鍛え上げてきた北ウルスラ生え抜きの将軍だ。
後方の陣から遠見の魔道具を用いてヴァールを捉えたディスロ将軍には、炎の風を巻いて駆けてくる相手が人には見えなかった。
原初の恐怖が形をとった存在。
魔の化身。
「クグツ全部隊で叩け!」
ディスロ将軍の怯えた声の命令に幕僚たちが戸惑って、
「過剰ではありませんか?」
「いいから急げ!」
「はっ!」
部下たちが魔道具を操作して、クグツ兵器の群れがヴァールへと殺到していく。
クグツ兵器は高さ数メルのクグツ騎兵を初めに、その数倍もの大きさを誇るクグツ巨兵、魔力砲撃に特化したクグツ砲車が続く。
いずれも最新鋭の魔道技術で建造された、王軍自慢の兵器だ。
クグツ騎兵は長槍を投擲、クグツ砲車は火炎魔法を放つ。
クグツ巨兵は長大な剣を振り上げる。
「汝らの後悔する番じゃ」
ヴァールの背中から数十本の杖が一斉に浮かび上がる。
杖は百二十度ほどの角度に広がる。
「大気よ、風よ、嵐よ、竜巻よ、水よ、雨よ、氷よ、焔よ、爆炎よ、土よ、砂よ、岩よ、草よ、木よ、電気よ、雷よ、闇よ、深淵よ、地獄よ、日よ、月よ、光よ、幻よ、魔よ、聖よ、磁力よ、素粒子よ、空間よ、重力よ、時よ……」
全ての杖にそれぞれ魔法陣が生じる。
多数の護衛兵に囲まれている将軍は、魔道具に映るあり得ない光景に身を震わせる。
二つの魔法を同時に操るだけでも達人なのに、数十もの魔法が同時に生じている。
「いくら勇者とはいえ、クグツ相手ではひとたまりもないでしょうに」
護衛の騎士が軽く言い放つ。
「勇者……? あれがか? あれが勇者などであるものか! あれは、あれは! あらゆる魔法を操っているのだぞ! あれは魔道の頂点に立つ者!」
遠見の魔道具に映し出されたヴァールが凄まじい笑顔を浮かべた。
ディスロ将軍は叫んだ。
「魔王!」
「滅ぶがよい」
ヴァールのあらゆる杖から魔法が一斉に発動される。
それぞれの杖から別個の属性魔法攻撃が放たれて、クグツ兵器を薙いでいく。
様々な魔法防御結界が講じられているクグツ兵器も、多数の属性で同時に攻撃されては結界が働かない。
戦場には風に光に水に焔に、あらゆる属性の魔力が荒れ狂う。
夜の戦場が真昼よりも眩しい有様となる。
クグツ騎兵が放った長槍は消し飛び、クグツ砲車の魔法攻撃は魔力の嵐に霧散する。
クグツは焼け、千切れ、溶け、砕け、劣化し、風化し、押しつぶされ、あらゆる破壊の力を受ける。
ヴァールの魔法攻撃が収まって戦場が夜に戻ったとき、戦場に残るクグツは無かった。
全て塵にまで分解されていた。
「余の三百年、思い知ったかや。誰もいない虚空にひとり閉じ込められる気持ちが分かるかや。いつか出たときのためにどれほど魔法を磨き抜いたかことかや。……エイダが助けてくれた時にどれほどうれしかったかや」
あまりの有様に兵士たちは恐慌した。
だが、さすがは精鋭の王軍だった。
思考能力を失った彼らは逃げるのではなく、ただヴァールへと突撃をかける。
「汝らごときが余に触れられるとでも思うのかや」
焔の風をまとった凄絶な姿で、ヴァールは右手を掲げる。
その伸ばした人差し指から魔法陣が広がり始める。
魔法陣は大きくなり、さらに大きくなり、戦場の丘陵全体に広がっていく。
「閉じ込められていた間に、余は封印と召喚を研究しつくしたのじゃ。仮身召喚では亜空間で魔物を魔力から構築する。この召喚が繰り返されることによって自律的に存在するようになった亜空間が地獄じゃ…… どうもエイダがおらぬと閉じ込められていたときみたいに独り言ばかり話してしまっていかんのう」
ヴァールの展開した超巨大魔法陣に莫大な魔力が注がれていく。
王軍の陣では、魔法兵たちが蒼い顔で魔法陣の分析にかかっている。
「急げ、早く対抗魔法をかけろ!」
幕僚たちが魔法兵を急かす。
「は、しかし、この召喚は……?」
「はっきり言え!」
「地獄からの召喚…… いや違う、これは、そんな、ありえません」
「だから、なんなのだ!」
「これは、地獄からの召喚ではありません! 対象は地獄です! 地獄そのものが召喚されます!」
「早く対抗魔法を!」
「はあ? 地獄に何が対抗できるって言うんです!」
昏い異世界の空間が半透明に現れて、丘陵に重なり合っていく。
見えるのは瘴気に満ちた大地とそこに巣食う地獄の眷属たち。
空には絶え間ない雷鳴。
無数のおぞましい鳴き声が高まり、瘴気の異臭が強まる。
ヘルハウンドの群れが遠吠えをしてから兵士たちに襲いかかった。
兵士たちは剣をとって立ち向かうが、剣はヘルハウンドを素通りする。
「位相が異なるのじゃ。汝らの攻撃では触れることすらできぬ」
ヘルハウンドの牙が兵士たちの剣を砕き、甲冑を切り裂く。
「どうして!?」
一方的な攻撃に兵士たちは混乱してわめく。
地獄の上位眷属、デイモンたちが続々と姿を現したとき、兵士たちの心は完全に折れた。
訳の分からない叫びを上げながら男爵城の方へと我先に逃げ出す。
グールの群れに陣を襲撃されたディスロ将軍は、もはやこれまでと撤退を命じた。
将軍自身も騎馬で逃げ出す。
ずたずたな姿の兵士たちが地獄の眷属に襲われながらも懸命に撤退していく。
ヴァールわずかひとりのために王軍精鋭が壊滅していた。
だが、そのヴァールも疲れきった顔をしていた。
「ちと、やりすぎたのじゃ……」
ヴァールは戦闘前よりも痩せて、背も少し低くなっていた。
文字通り身を削って魔法を使ったのだ。
ヴァールは、自分を乗せたヘルタイガーのキトに倒れ込む。
ふかふかな毛がヴァールを受け止める。
「いかんのじゃ、早くエイダを、ジュラを助けに行かねば……」
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