気絶するほど異世界グルメ

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三口目 音楽で美食 三

公開日時: 2020年10月10日(土) 18:10
文字数:3,028

 数秒の間を置いて、アジカンはまだ蟹の爪をかぶってないことに気づいた。


「いくよ」

「いってきます」

「気をつけて」


 イワシラが先頭になり、崖下を岬に沿って進み始めた。視野が狭くはなったが、差し当たり彼女についていけばいい。


 波は不思議なほど穏やかで、日差しもほどほどにあり素潜りの条件としては理想的だろう。こうして見聞きする限りは同じような世界に思える。


「ついたよ」

「良し」


 深く息を吸い込み、ためらいなくアジカンは飛び込んだ。すぐにイワシラも続いた。


 海で泳ぐなど数年ぶりだ。幸い、手足は忠実に動いてくれた。かぶり物のせいで余り速くは動けないものの、小魚や海藻が潮に乗ってゆらゆら漂うのを眺めるのは楽しい。仕事を忘れるつもりはないが、ある意味役得だ。


 岬の端とウグイドンは言った。なら、どのみち探る箇所は限られるだろう。そんな調子で岬の根元を横目に泳いでいると、突然右の脇腹に鋭い痛みが走った。思わず手をやり、裂け目ができて血が吹きだしていると悟る。


 逆説的に、獲物が間近だと察知したアジカンは負傷したタイミングや角度からどこに潜んでいるかを推し量った。イワシラはつかず離れずいつでも取りかかれる位置にいる。


 意を決し、自分で判断した箇所へ近づくと岩を跳ね上げてウグイドンが仕留めたのとほぼ同じ人食い蟹が現れた。海中で煙幕のように舞い上がった砂利の中から恐ろしい速さで近寄ってくる。


 脇腹の傷口を押さえたくなるのを我慢しながら、追いつかれないよう全力で泳ぐとイワシラが蟹の背中に取りついた。蟹の爪は身体の後ろに回せないので背中は人間以上に弱点になる。


 新たな敵に混乱した人食い蟹はめちゃくちゃに暴れ回った。その時既にイワシラのロープは人食い蟹に絡みついていて、動けば動くほど強く食い込んだ。


 イワシラが浮上するように合図したので、アジカンはすぐに海面を求めた。


「ぶはぁっ!」


 実のところ、息が続かなくなる寸前だった。出血も続いている。大急ぎで岸辺に上がり、座ってイワシラを待った。すぐに上がってきて、蟹を拘束したロープの端を放さない一方アジカンのケガを点検した。


「すぐに帰ろう。リュックの中に薬があるから」


 アジカンは黙ってうなずいた。


「たてる?」


 返事の代わりに足に力を入れた。途端にふらついた。


「肩を貸すから、捕まって」


 イワシラが、アジカンの脇の下に頭を差し入れた。それからぐっと踏ん張ると、脇腹が突っ張って思わず呻き声がでた。


「大した距離じゃないから」

「済まん……」


 と、言いつつイワシラの胸の感触が伝わってくる。そこから天野までの道のりは苦痛でもあり幸福でもあった。


「口腹君!」


 天野の表情がはっきりするくらいに近づくと、彼女の方から血相を変えて走りかけた。


「僕のリュックを取ってきて!」


 イワシラの頼みを、天野は全力で果たした。


「アジカン、このままでいいから。天野さん、リュックを開けて」

「はい」

開いたリュックに手を伸ばし、小さな緑色のビンをだすイワシラ。


「天野さん、リュックを置いてからアジカンを支えて」

「はい」


 こうして身体が空いたイワシラは、ビンの栓をねじって中身をアジカンの傷口に振りかけた。音もなく痛みが消え血も止まり、痕跡一つ残さず元通りの肌になる。


「凄いな。嘘みたいに治った」

「もう大丈夫」

「イワシラ」


 アジカンを身体から離しながら、天野は厳しい表情になった。


「なに?」

「こんなことはもうしないで下さい。口腹君は私の生徒です。講師として、二度も三度も危険に晒すのは許せません」

「ごめんなさい」


 イワシラは素直に頭を下げた。


 安直に口を挟んでいい場面ではないので、アジカンは見守る他なかった。


「アジカン……許して。僕のせいで、あんなケガをさせて」

「気にするな。それより、まだ仕事は終わってない」


 そう。蟹を引き上げ、なおかつ調理せねばならない。日没も迫っている。


 三人で、地引き網のようにロープを引っ張ると蟹が少しずつ手繰られてきた。文字通りがんじがらめでもがいている。


「良し、みんなで担ごう」

「その前に、イワシラ」


 アジカンとしては、大事なことが棚上げになっていた。


「なに?」

「もう蟹の爪を脱いでいいか?」

「うん、捨てて」


 ようやく素顔で息ができる。


 改めて、アジカン達は獲物と共にウグイドンの前に再び現れた。


「遠目に眺めていたが、一応ここまではどうにかなったようだな」


 彼の口調からは、冷ややかな中にもかすかであれ意外な驚きを感じているのが匂わされた。


「料理は自由にやっていいよね?」

「ああ、俺が味わえる物ならな」


 イワシラは器用にリュックを肩から外し、蟹の一部を肩に乗せたまま蓋を開けた。中から小さな鉄板をだして地面に置くと、静かにひとりでに広がって蟹を乗せられるくらいになった。


「置いて」


 イワシラの指示でアジカン達がそうすると、彼女は次に大きめのナイフをだした。まず爪と脚を、泡を吹く蟹から器用に切り離して次々にアジカンに持たせる。


 ついで、ロープを蟹から外し口の辺りをナイフの柄で強く叩いた。蟹には脳らしい脳はなく、口の周りに神経が集中していてその代わりを果たす。口を叩くのは、蟹を失神させて能率を上げる効果があった。


 その上で、文字通り手も脚もでなくなった蟹をひっくり返した。甲羅の継ぎ目に刃を当てテコの原理でこじ開ける。


 蟹にも不味くて食べられない部分はある。甲羅を開いて初めて、普通の蟹よりはるかに大きいエラがあるのをアジカンと天野は知った。そこはさすがに捨てる。それをエサに別な生き物を捕える発想もあるが、ここで優先することではない。


 エラを取り除くと、渦巻き状態にうずくまる寄生虫が姿を現した。まだぐねぐね動いていて天野が顔をそむける。イワシラは無言で縦に裂きとどめを刺した。


 蟹味噌に当たる肝臓を始めとした部分をできるだけ傷つけないよう切り離すと、意外にも甲羅の中はなにも残らなかった。


 イワシラの手さばきはとどまるところを知らなかった。鉄板の隅に蟹味噌を置いてから背中越しにアジカンへ手を突きだし、彼が爪を渡すと無言のまま受け取った。それから爪を上下に裂くようにして関節を割り、中身をナイフで甲羅の中へとかきだした。残りの脚も同様。つまり、甲羅がフライパンなり釜なりの役割を果たすようだ。


 蟹肉玉の皮包み茹で


 一、下ごしらえ


 本文参照。


 二、肉玉作り


 蟹肉、蟹味噌、隠れ蟹虫の肉、卵、塩こしょうを全て混ぜ、適当な大きさの玉にする。握り拳の三割くらいにするのがコツ。


 三、包み皮作り


 隠れ蟹虫の皮を、二で作った肉玉一つ一つの大きさに合わせて切る。一枚が肉玉一個を完全に包めるようにすること。


 四、包装


 二を三でくるむ。


 五、塩茹で


 適度な食塩水で茹でる。


「できたよ。召し上がれ」


 額に浮かぶ大粒の汗を拭って、イワシラは勧めた。


「ふん。とにかく食べてみないことにはな」


 感心したのを隠すように独り言めかした言い方をして、ウグイドンはスプーンを入れた深皿とおたまを持って甲羅の前にきた。


 白銀色のおたまが夕陽を受け、深皿に肉玉を一個入れた。スプーンに乗せて口に入れる。


「むむっ、熱い。だがっぼふっ旨味はっむぐっ申し分なくっ味わえる。いや、舌がっ熱くなくてはんぐんぐっ味わえん」

「食べるのか喋るのかどちらかにしてはどうです?」


 呆れるアジカン。


「うるさい。うーむ、隠れ蟹虫の皮膚の食感と蟹味噌の風味は簡潔な塩茹でにしてこそか」

「お味はいかが?」


 問いかけるイワシラの誇らしげな顔自体に、アジカンは同じような喜びを感じた。

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