気がつくと、天使と最初に同席したレストランにいた。口腹だけでなく、天野からオヒョウドまで一人として欠けていない。
例によって、口腹達はただ座っているだけだった。 まるでどこかの企業の面接のように、長テーブルを前にして横一列に並んでいる。
ただ一人、反対側にいる天使の前には白磁の皿があった。それにはゼラチンで作った楕円形のチョコレートムースが盛りつけてあり、金色の細いスプーンが添えてあった。
「皆さんのご要望を過不足なく取り入れたらああなりました。まだ事情を知らない方々にはこれまでのいきさつを知らせてあります」
天使は機先を制した。
「そろそろアジカンこと口腹も決断するときでしょう」
「決断?」
口腹からおうむ返しの問い合わせを受け、天使はスプーンを手にチョコレートムースを一切れすくった。
「このまま天国へいくか、元の世界で何事もなく過ごすか、タラフクの人間になるかの三択です」
「さっきみたいにこちらの世界とタラフクとを往復できないんですか?」
無駄と察しつつも口腹は求めた。彼の両脇で、イワシラと天野がそろって不安げに眉を寄せている。
「結論から明かすと不可能です。私でも全く違う世界をいつまでも接触させ続けることはできません」
「元の世界に戻っちゃったらアジカンは僕達のこと忘れちゃうの?」
イワシラは口腹を抱き止めんばかりだ。
「そうです。タラフク組も同様です」
「じゃあ逆に、私がタラフクにいけば?」
「それならアジカン、あなたは元の世界で最初からいなかったことになります」
「天国へいけば?」
オヒョウドはみんなが遠慮していることをズバリ質した。彼からすれば、それが最も経費のかからない解決だと主張しているのは口にしなくとも全員が悟っていた。
「全員に記憶は残りますが、タラフクと口腹の世界は断絶したままです」
つまり、どの選択肢でも誰かになにがしかは満たされないものが残る。それは仕方のない話だった。本来なら口腹は交通事故で死亡、それだけで終わりなのだから。
口腹は、考えあぐねて顔を左右にするふりをしながら天野とイワシラを交互に見やった。
「あたし達にも話に加わる権利があるだろ」
エバンテが大胆にも天使に対して要望した。自分が蚊帳の外になったままなのを放っておく人間ではない。ただ、皆の中で唯一口腹と目を合わせようとしないのは何故だろう。
「では、エバンテの気持ちは?」
「ここにいるタラフク組は、あたしも含めて料理人だしあんたは美食家だ。なら、あたし達の中で料理対決をして、優勝した人間の主張を通せばいい」
「口腹と天野は?」
「好きな人間とペアを組めば? なんならハンデつきでもあたしは構わない」
「その場合、ペアの中で最終的な目的が噛み合わないかもしれませんよ」
「なら改めて決戦でもなんでもしなよ」
「本人の意見を聞きましょう」
天使からお鉢を回され、口腹は一瞬詰まった。
「私は口腹君と組みたいです」
天野は口腹に驚く暇さえ与えなかった。イワシラとエバンテがガタッと椅子を動かした。
「口腹は?」
「天野先生と……組みます」
降って湧いたような機会だ。天使への約束は神聖極まりない宣言だった。
「よろしい。ただし二人は素人です。より強いハンデをつけないと不公平でしょう。従って、タラフク組は全くの丸腰でこれから紹介する現場に入ります」
「アジカン達はどうなるんですか?」
イワシラは別の意味での好奇心を我慢できなかった。
「口腹と天野は、自分が直接使った経験のある器具や道具はなんでもその場でだせて即座に使えるものとします。飛行機や列車のような、客として利用しただけのものは駄目です。それから、水や調味料は構いませんが食材や完成した料理そのものはだせません」
「不要な道具はどう処分すればいいですか?」
天野は、こういうとき見落とされがちな問題を逃さなかった。
「頭の中で消えろと念じれば消えます」
「それで、現場は?」
本職の料理人らしく、ウグイドンの橙色の瞳がざわついている。
「タラフクですが、口腹と天野に最低限の予備知識があるのは今まで通りです」
「タラフクの、具体的にはどこだ」
「オイシイ山です。季節は今と同じ秋」
回答を耳にしたウグイドンは、エバンテよろしく凍りつかんばかりの表情になった。
「オイシイ山!?」
オヒョウドまでもが。
「ど、どうしてそうびっくりするんだ」
口腹は不吉な迫力を覚え始めていた。
「本当なら、出入りだけで一財産いるんだ。国が管理してる。川と陸地で採れるほとんどの食材がある」
「ならいいじゃないか」
「一歩でも入ったら呪われてるって噂があるよ。自殺したり破産したり」
「私が差し向けるのですからお金も呪いも許可も関係ありません。それ以外の揉め事は各自の裁量に任せます」
「で、料理の審査は?」
呪い云々がピンとこないので、口腹は議事進行に努めた。
「私がします。入山してからその日の日没までが時間です。皆さんはその時までに料理を完成させておいて下さい。日没になり次第、私が会場に皆さんを料理ごと移します」
「分かりました。私はそれで納得です」
口腹の結論に、他も次々と続いた。
「じゃあ、僕はウグイドンにしたい」
「俺もそう思っていたぜ」
「あたしはオヒョウドしかいない」
「他人なら時給どころか分給を要求している」
次々にペアが決まった。
「それでは、各自の健闘を祈ります」
天使はそうしめくくってムースを食べ始めた。口腹達は即座にその場から消えた。
「天野せんせーい!」
あれから十数分。たった一人、うっそうと茂る草花や木々の群れに混じりながらアジカンは声を枯らした。
自分がオイシイ山のどこかにいるということと、午前中なのだけは把握している。スマホの番号を知らないから電話もできない。スマホそのものは、少なくともネットには普通に接触できた。しかし、最初から天野と一緒とまでは言ってないからその意味では天使の発言は嘘ではない。腹立たしいことに。
「クソッ、これじゃ最初から出発できないじゃないか」
悪態をつきながら、手近な木にもたれて唇を曲げた。
こんなときイワシラなら、焦ってもしようがないからお茶でも飲もうとでも言ってどこからともなくティーポットとカップをだしてくれたに違いない。彼女の福よかな笑顔まで想像できる。
客観的に考えて、そんな根拠はどこにもない。にも係わらず、アジカンにはその場面がはっきりと頭の中に浮かんでくるのだった。
そもそも、天野を意識し始めたのは一年前。学食で……この前イワシラと利用したところだが……たまたま隣同士になった天野が振りだした七味唐辛子の一部が、誤って彼の食べようとするラーメンの中に入ってしまったのがきっかけだった。
謝る天野に、アジカンは鷹揚に受け入れてラーメンを一口すすった。途端にむせ返って天野の頼んだうどんの中に食べかけのラーメンを入れてしまった。今度はアジカンが平身低頭する番だった。
天野はもちろんアジカンを許し、それから学食で顔を合わせるたびに世間話や食べ歩きの話をするようになった。
もっとも、天野の方はあくまでも彼をただの学生とみなしていた。少なくともアジカンはそう理解していた。それがここ最近、イワシラと精神的にも肉体的にも密着 しがちな日々が重なり天野への気持ちが少しずつ薄らぐ……というよりは揺らいでくる自分を意識し始めた。
さりとて、あくまでイワシラはタラフクの住人である。アジカンからすれば、自分の基盤であるはずの地球を無視してまでタラフクに移る……あるいは逆に、イワシラにタラフク云々を打ち切って地球にくるようにとはなかなか決断し辛い。
「天野せんせーい!」
全く整理できない気持ちを無理やり断ち切ろうと、アジカンはひときわ大きな声で叫んだ。相変わらず返事はない。
辛うじて寒くない程度の涼しさを保っている空気の中で、アジカンは次第に汗が浮かんでくる自分の額を意識せざるを得なくなってきた。
もし仮にイワシラ達が……いや、エバンテ達でも……とにかく自分達以外のペアが勝ったらどんな結末になるのか、想像もできない。
何度目か額の汗を手の甲で拭い、両手もまた塩辛くなってこようというとき。一切れの布が薮に絡みついているのが目に写った。生地の質感と色から、イワシラが身につけていたものだとわかる。
こうなったからには、誰か他の人々にも 聞いて回る他はない。それは当然のこととして、衣服が引き裂かれるというのはある程度以上強い力がかからないと不可能だ。
薮には棘のある植物が触手のようにうねりを巻いてはいるものの、わざわざイワシラが直に腕を突っ込むだろうか。道具はないにしても 慎重に行ったことだろう。
いささか不吉な予感を感じつつも、アジカンは布切れを取ろうと手を伸ばした。その直後、足元が崩れ尻餅をついたまま斜面を転がって行く。目の錯覚で、緩い下り坂を 平らな地面だと思い込んでいた。
自分の袖は裂かずに済んだものの、薮に体を突っ込みあちこち切り傷だらけになりながらどこまでも下へ下へと落ちていった。
「うわーっ!」
時ならぬ恐怖で体が硬直したまま、急に地面が消えふわっと浮いたような感触も冷めないまま左半身をしたたかに 叩きつけた。
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