天野もほぼ変わらないようだ。
「……」
「え?」
イワシラは耳をウグイドンに近づけた。
「旨い」
「へー。自分が作った物より?」
意地悪な質問も、イワシラがすると愛敬を感じてしまう。
「それは……」
「それは?」
「うおおおぉぉぉ!」
詰め寄らんばかりのイワシラの前で、ウグイドンの身体から虹色のガスが吹きでた。
「な、なんですかこれは!?」
ついていけなくなった天野が悲鳴じみた声音で叫んだ。
「俺は……美食に打たれると全身の毛穴から様々なスパイスの香りをするガスを発散するんだ!」
「どんな体質ですか!」
アジカンの突っ込みもあればこそ、イワシラの身体が前のめりに倒れて令嬢の幽霊が抜きでてきた。
「な、なんだこれは!」
今度はウグイドンが仰天する番だ。
「先程も申しました通り、私は美食に打たれると霊体となってこの通り肉体を超越しますの」
「あんた、まだ一口も食べてないだろ!」
「それだけあなたのスパイスガスが完璧ということですわ。あの時も、思わずこうなりかけました。惜しむらくは、まだ霊体スタイルに慣れてなくて気絶したのです」
「じゃあ、俺の料理と同じ味になったのは……」
「あなたのスパイスガスを吸って、私の霊魂にその香りが注がれたからに他ございませんのよ。つまりあれはオマージュ……私は、快く負けを認めつつも再現したくなったのです」
「そうか……そうだったのか……」
ウグイドンは深々と頭を下げた。
「数々の無礼、どうか許して欲しい」
「いえ、私こそ。これからはわだかまりなく腕を磨き合いたく存じます」
そこでイワシラは元に戻った。
「みんな、改めてありがとう。さ、早く食べよう」
「賛成」
「頂きます」
アジカンと天野もようやく笑顔が冴えてきた。
「それにしても……これほど旨いと思わず踊ってしまいそうだぜ」
ウグイドンが、二つ目をよそいながらおどけて腰を揺すった。
「うわっ!」
甲羅から肉玉をすくいかけたアジカンは、もろにウグイドンから体当たりを食らった。
「す、すまんアジカン!」
しかし、バランスを崩したアジカンは砂地に倒れ、ショックで意識を失った。
揺れている。自分だけでなく、イワシラや他の人々もかすかに揺れている。揺れていないのは天使くらいだ。
レールの上を回転する車輪の音が大きくなったり小さくなったりするのと共に、車窓からはいつまでも続く木々が赤や黄に染まった葉を落とし続けているのが見えた。
口腹は、三人がけの中央の席に座っている。イワシラが車窓側、ウグイドンが通路側。イワシラとウグイドンの荷物はそれぞれ本人の足元にあった。
その前列の席はこちらとテーブルを挟んで向かい合う形になっていた。口腹の真向かいが天使で、天使の横の車窓側に天野。他の座席は全て空だ。
テーブルの上には、天使の前にだけ皿があった。皿には茹でた魚とおぼしき切り身があり、黄色がかった白いとろっとしたソースがかけられている。
「賑やかになってきましたね」
ナイフとフォークの手を止めた天使は、ごく穏便な様子だった。
「なんだこりゃ? どうして俺は……」
「能率的に説明しますね」
天使が言い終えるが早いか、ウグイドンはあっさりうなずいた。
「そんな成り行きがあったのか。じゃあ、アジカンも天野も俺の知らない料理を山ほど知ってるはずだよな?」
天使が直にウグイドンの頭の中に言葉を注いだらしい。もっとも、口腹はタラフクでの通り名であるアジカンのままだ。
「それはあととして、何故我々は列車に乗っているんです?」
「退屈しのぎに私が作ったので、お招きしました」
「なら、自分だけ飯を食うのは失礼だろ」
ウグイドンの指摘は誰にとっても妥当に思えた。
「ここにでてくる食事は生身だと食べられません。それから、私は四六時中なにかを食べていなければなりません」
「ひょっとして……私達の土産話が一種の象徴としてご馳走のように表現されているんじゃ……」
天野が、珍しく遠慮がちに口にした。
「半分正解です。皆さん以外の人達からも土産話を伺います。それらも入っています」
「他の人達って?」
好奇心満々にイワシラが上半身を乗りだした。
「天国へいった人達です」
ことも無げに天使は教えた。笑いたくなるような、泣きたくなるような表情になってイワシラは身体を引っ込めた。
「で、まさか俺達も天国へいくんじゃないだろうな」
「いいえ。私の要望を叶えて下されば、口腹と天野は元の世界に帰りますしイワシラとウグイドンは口腹達の世界で未知の料理を知ることができます」
「そうなったとして、世話役は私ですか?」
口腹としては、理不尽な役回りは御免こうむりたい。
「いいえ。個人個人で自立して行動できるようにしておきます。かかわりたくなければ無視しても構いません」
どうやら公平そうな条件がでてきたようだ。額面通りなら。
「それで、要望とは」
天野の質問に、天使は黙って窓を右人指し指で示した。
いつの間にか森は途切れ、断続的に吹いたりやんだりする薄く白い雪の幕が日光を遮っている。そして、列車は止まっていた。
「魚料理も悪くはありませんが、やはり肉を食べないと力がつきませんね」
天使が言い終えた直後、耳を引き裂くような激しい音がした。口腹達がいる座席から少し離れた場所で車体が天井から潰され、毛むくじゃらの柱めいた脚が唐突に現れる。列車が止まってなければ大惨事だったろう。
しかし、大惨事の可能性はまだ消えてはいなかった。一対の牙が、天井を引き裂き箱を解体するように車輌をバラバラにした。
「マ、マンモス!?」
天野が仰天しながら立ち上がりかけた。
「きゃあああぁぁぁ!」
「イワシラ!」
一同が事態を飲み込めずに硬直している中、マンモスは鼻を伸ばしてイワシラを荷物ごと絡め取った。
「は、離して!」
イワシラを宙に浮かべ、マンモスは後ずさりながら列車に回れ右した。
「イワシラを返せ!」
口腹は誰よりも速く席から廊下に足を置いたが、一際激しい雪嵐が車内に乱入した。マンモスの後ろ姿がぼやけていく。
「クソッ、待て!」
「一人でいっては駄目よ!」
やっと身体が動き始めた天野が背中から口腹を抱き止めた。
「そうだ。バラバラに動くと余計に身動きが取れなくなる」
ウグイドンも傍まできた。
「なら足跡をたどれば……」
「雪ですぐ埋まってしまうわ。列車にも帰られなくなったら二重遭難よ。頭を冷やしなさい」
敢えて厳しく接した天野のおかげで、口腹の精神にも耐える機会が訪れた。恨みを込めて無限に広がる雪原を睨みはしたが。
「そう言えば、吹きさらしになったのに特に寒くはないな」
ウグイドンが自分で自分の左腕を撫でた。不思議としか言いようがないものの、好都合に越したことはない。
「天使もいなくなったわね」
「なにか、使えそうな物が他の車輌に残っているかもしれません」
口腹も、つられたように思いついた。
「じゃあ、壊れてない車輌に入って考えをまとめよう」
ウグイドンが促し、口腹はうなずいた。
マンモスがどんな理由でイワシラをさらったのかは知らないが、草食動物だし即座に食べたりはしないだろう。
口腹は、仲間と共に自分達がいたのと隣合わせだった車輌に入った。それは進行方向からすると後ろ側に当たる。最先頭には機関車があるはずだが吹雪で全く分からない。
「捜索に当たり、我々が物理的にまとまるような手だてがいりますね」
環境を仕切り直した為か、口腹は冷静さを取り戻しつつあった。
「ここに確実に帰る要領もな」
ウグイドンの意見ももっともだ。
「命綱でもあればいいんですけど……そんな物、車内になさそうですね」
イワシラがロープを持っていたのを、今更ながらに口腹は思い出した。
「うん? あれはなんだ」
「荷棚」
ウグイドンに、口腹は短く答えた。現代では金属やプラスチックを使った物が中心だが、ここでは昔風に紐を交差させて作った網で荷物を受けるようになっていた。
「ナイフでばらして繋げりゃロープになるな」
「そ、そんなことをしたら犯罪でしょう」
「緊急避難ってもんだぜ、先生」
ウグイドンは自分の言葉を実行し、口腹も手伝った。数秒遅れて結局天野も口腹と同じようにした。
「まあ、これだけありゃあいいだろう」
三人で他の車輌からも集めた荷棚の紐を結びながら伸ばし、人食い蟹の時と変わらないやり方で各自のベルト通しにロープを入れた。これで一蓮托生となった。
「良し。さっきマンモスに壊された車輌のどこかにロープの端を結ぼう。俺が先頭、真ん中が先生、三番目はアジカンで等間隔に距離を取る」
天野は三人の中で一番体力がないため、何か起こっても真ん中にしておけば二人が早く助けに行き易くなる。
「つまり中心を決めて杭かなにかを打ち込み、コンパスで円を描くようにして捜索するのか」
口腹は簡単に察しをつけた。なんの手がかりもなさそうな雪嵐の渦巻く雪原では、捜索そのものは散開しないと非能率だ。さりとて出鱈目に動き回るのは馬鹿げていた。本来なら雪嵐が止むまで待つのが常識だが、最初から常軌を逸した状況とあっては全てをぎりぎりのところで妥協していく他はない。
「そうだ。で、空振りに終わったらまた新しい中心を作って繰り返す。中心にするのは、壊れた車輌からなにか柱になるものを持っていけば足りるだろう」
もちろん、帰りの目印になるよう複数持っていく。
「それなら、二つ目の円からは一人が中心にいることにしよう」
口腹が新しく提案した。
「どうして? 三人いた方が探し易いでしょう?」
「三人が同時に疲労すると不測の事態に対応しにくいからです」
「お前、落ち着いてりゃあ頭がいいな。じゃあ二人が捜索役で、時間を決めて一人ずつ交代していけばいいだろ」
「ああ」
「それと、漠然とでも方角を決めるのがいいわね」
「壊された車輌を始点にして、線路と直角に進みましょう」
「マンモスは進行方向の左側に消えた。それは、俺は確実に覚えている」
「決まりだな」
一度まとまれば、善は急げとなった。幸い、準備をする間に多少は天候も穏やかになってきた。
「出発だ」
ウグイドンが外にでた。しばらくして天野、口腹と続く。先頭のウグイドンが自動的にペースを決めるが、意外にもゆっくりした速さで難なく歩調を合わせることができた。
「イワシラーっ!」
打ち合わせるまでもなく自然に大声が出た。
「イワシラーっ!」
天野達も口々に叫んだ。
そんなことをどれくらい続けただろうか。
「手持ちの杭が最後になった! これが駄目なら一端引き上げだ!」
ウグイドンが渦巻く風に負けじと吠えるように言った。これまでのところ、雪以外には何も見つかっていない。
「イワシラーっ!」
「……カーン!」
かすかにイワシラの声がする。
「あっちだ!」
「アジカーン!」
目星がつくと、イワシラが自分を求めて肺から空気を絞り出しているのを微かながらもよりはっきりと耳にした。
「今行くぞ! こっちを呼び続けろ!」
「アジカーン!」
怒鳴った口腹に合わせるようにまた続いた。
「焦るなよ、アジカン! 追加の杭を持ってくるから、それまで最後の杭で待て!」
ウグイドンがロープを手繰り寄せながら指示した。
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