彼女が風呂場に入ってから、まず普段着のシャツと半袖上着を身につけた。両方とも落ち着いた灰青色で、口腹の好みだ。ついで、ジーパン。こちらは黒……。
「きゃあああぁぁぁ!」
喚きながらイワシラが飛びでてきた。
「ど、どうした?」
「熱い! 熱いの!」
そう訴えながら、左手をひっきりなしにぶんぶん振っている。
「なにがあった?」
「赤い印のついた栓を捻ったら熱湯がでてきた!」
「当たり前だ!」
ジーパンを脇にやって、イワシラを流しまで連れた。それからボウルを蛇口の下に置いて軽く水を流し続ける。
「痛みが引くまで手を浸していろ。赤くなったくらいだから一度だな」
「一度?」
「大した程度じゃないって意味だ」
「アジカンってお医者様なの?」
「このくらいはこっちなら常識だ。あと、こっちでは口腹と呼んでくれ」
「ねえ口腹」
「なんだ」
「パンツ、濡れてるよ」
ズボンをはく前にイワシラの手当てをしたせいで、水飛沫が散っていたようだ。
「放って置けば乾く。それより具合はどうだ?」
「少しはましになってきた」
「そうか」
パンツをはきかえるのも面倒だし、気持ち悪いのは承知の上で口腹はそのまま布団まで戻ってからジーパンをはいた。
「まだ痛いけど、お腹も減ったしご飯食べたい」
左手を水につけたまま、イワシラは真顔になった。
「大した火傷じゃないし、まあいいか。ほら、マスクをつけろ」
「なにこれ? どうして?」
「伝染病予防だ。食事中は外していいが、それ以外はつけておけよ」
「分かった……ねえ、口腹」
「なんだ」
「優しくって、頼りになるんだね」
「これくらい、誰にでもするだろう」
「でもありがとう」
「さっさといくぞ」
口腹はイワシラを連れて外にでた。『カーサ清流』という、地方都市の住宅街となんの関係もつかない名前のアパートに彼の部屋はある。今、廊下に至った。三階なので少しは見晴らしがいい。
「へ~。これがアジカン……口腹のいる街なの」
廊下の安全柵越しに、イワシラは目を大きく見開いた。
「さっさといくぞ」
「ねえ、口腹」
「なんだ」
「あれはなに?」
「天使からそういう類は頭に入れて貰えなかったのか?」
「全然」
あっけらかんとしたものだ。
「なら教えよう。車」
「クルマって?」
「……」
口腹はスマホをだして、音声検索で車の解説記事を呼びだした。
「こっちの文字の読み書きくらいはできるんだろ?」
「それはちゃんとできそう」
「なら、ここに書いてある」
「内燃機関? 駆動系統?」
「関連情報はその言葉を指で軽く押したらでてくる」
「じゃあ……あれ? あれ?」
「どうした?」
「ねえ、どうして裸の女がいやらしい格好で変なことする絵がでてきたの?」
「いや、それは……」
「『お気に入り』っていうところを押したからかな」
「もういい、つつくな!」
「だって、クルマが……」
「飯食うぞ、飯!」
半ば無理矢理スマホを取り上げ、口腹はイワシラを連れてアパートをでた。
「ご飯はどこで食べるの?」
歩きながらイワシラは自分の腹を両手で少し抑えた。
「学食。先回りして説明しとくと、大学にある学生食堂のことだ。もっとも、中学や高校にもあるし教職員でも利用して構わない」
自炊もしなくはない。ただ、一人で食べるならかえって高くつく場合もある。作ったら作ったでその日中には食べ尽くしてしまう。だから、冷蔵庫は大抵空だった。今もそうだ。
大学の講義は一部を除きリモート化されていて、彼自身もそれを受けている。一方で、学食は大学が契約した外部業者が運営しており……大幅な制限を受けつつも……学内では唯一誰でも利用できる場所になっていた。
「学食って美味しい?」
「まずくはないが質よりは量、というか値段だな。もっとも、金は私がだす」
説明しながら地下鉄駅の出入口へと足を踏み入れた。
「変な臭いのする空気だね。財宝とかないのかな? トンネルの中で狩りをするの?」
「テレビゲームじゃない。電車で大学までいくんだ」
イワシラには切符を買わねばならないので余計な出費がかさむ。口腹はケチではないものの、私生活ではどうしても出費を切り詰めねばならなかった。死人茸なる料理の手間暇と、こうしたことで相殺されていくのだろう。
構内に入り、二人並んで椅子に座るとイワシラの左手が目に入った。
「手の具合はどうだ?」
「もうほとんど大丈夫。それより、クルマってひとりでに走るの?」
「そういうものもできつつあるが、まだ大半は直接人間が運転する」
「いやらしい格好の絵とかも見せてくれるの?」
「無関係だ。あれは私とは……」
『お待たせしました。三番線に昇り快速杉山いきが入ります。危ないので白線から下がってお待ち下さい』
「きゃあっ!」
「なんだ、そっちこそいちいち騒ぐなよ」
「だ、だって、いきなり大声をだすんだもん」
「まあ、日本の鉄道はいちいちアナウンスをするのが過保護だと海外でも……」
ごーっと唸る音が響き、程なくして電車が現れた。
「す、スゴいスゴーい! これもクルマなの?」
「違うけど若干は共通する要素があるな。早く乗れよ」
車内はがらがらに空いていた。平日の昼下がりだし、都内のような立地でもない。
「あっ、口腹!」
椅子に座るなりイワシラはまた叫んだ。
「質問は控え目にしてくれ……」
食事にする前からこんなに疲れるのは初めてだった。
「あそこに貼りついてる絵のでる鏡みたいなやつさっき口腹が貸してくれたのと同じような仕組みなの?」
「ああ、そうだよ」
半ばやけっぱちになってきた。
「じゃあ、変なことする女の……」
『次は~、広常。広常~』
「もうすぐ駅だ」
すっくと口腹はたち上がった。実のところ、お節介なアナウンスに助けられた。
広常駅を経て十五分ほど歩くと、私立石屋大学に至った。学食は中庭の外れに独立した棟を構えており、鮮やかな青色に塗られた鉄筋コンクリート製の三階建てに造られていた。
「まずは消毒だ。次に食券を買う。脇に見本ケースがあるだろう? それを参考にして好きな物を選べ。ちみに俺は日替わりAだ」
出入口をくぐるなり、アルコールスプレーの噴霧器を手に取りつつ発券機を示して説明した。幸か不幸か客は自分達だけだ。
「うわ~っ、どれも美味しそう! う~ん、じゃあこれっ!」
「ハンバーグ定食か。学食では一番の人気メニューだな」
「口腹はどうして定食Aにしたの?」
「安いからだ」
身も蓋もない回答を述べてから、口腹は券売機でそれぞれ食券をだした。
「そうそう、ここはセルフサービスだから」
「うん」
そういう仕組みは簡単に飲み込むようだ。
各自で注文した食事を受け取り、茶まで構えてようやく始まった。
「同じような食べ物はタラフクにもあるけど……おいっし~い。ソースはなにかな?」
「合成添加物だか調味料だかだろ。今更気にする人間は余りいないし、現に大した被害はでてないし」
そうしたことに病的に執着する者もいるが、少なくとも友人にはしない。
「良く分かんないけど、タラフクのソースよりずっと濃くてはっきりした味だね」
「そうか? タラフクの方が繊細ですっきりした味だったぜ」
「でも……」
「そう言えば、令嬢の幽霊にはならないのか?」
「ならないね。タラフクでないとああならないのかも。すっごく気に入ってるんだけど」
「賑やかね」
背後から声をかけられ、二人は驚きながら振り向いた。
「天野先生!」
薄手のベージュジャケットにモスグリーンのリブニットパンツをまとった、背の高い女性がいた。一般教養で経済史を教えている天野講師、年齢はまだ二十代終盤のはずだ。
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