夜の森は闇に閉ざされ、人の立ち入りを拒む。
メアリーはランプを片手に道を進んだが、それでも視界は狭い。
自分の足音。
風に木々がそよぐ。
虫たちが鳴く。
獣が茂みを揺らす。
そこら中から――好奇心に満ちた視線を向けられているような気がする。
『星』が反応しないということは、それは敵意ではないのだろう。
いや、アルカナに頼らずとも、それは肌で感じることができた。
なぜだか懐かしい。
獣たちも、まるで主の帰還を喜ぶかのように穏やかだ。
だがそれとは別に、夜の冷たさと混ざった、寒気にも似た“不安”が常に張り付き、メアリーの緊張感を高める。
いつ、どこからオックスが攻撃してくるのか――警戒しながら進む。
すると、道を外れた森の向こうに、わずかな光が見えた。
メアリーはその景色に既視感を覚える。
枝葉をかき分け進んだ先にあったのは、ボロボロの小屋だった。
壁にかけられたランプだけが新しく、それ以外は当時のまま放置されている。
「づっ……うぅ……!」
突如、メアリーの頭に痛みが走った。
ランプを落とし、頭を押さえながらしゃがみ込む。
視界にノイズが走る。
暗闇に包まれているはずの景色が、突如としてセピア色に変わった。
『リュノ姉ぇ、早く入ろうよ!』
黒髪の子供が――“私”の手を引きながら、小屋へといざなう。
だが顔はぼやけていてよく見えない。
記憶の“遠さ”のせいだろうか。
小屋の壁には、表札がぶら下がっていた。
アプリクス。
リュノのファミリーネームだ。
つまり、この記憶の“主”はリュノなのだろうか。
メアリーはその子供に導かれるままに、再びランプを手に取ると、小屋に入った。
扉は立て付けが悪い。
“記憶”のようにあっさりとは開かなかったが、力ずくで押し開いた。
『私ねっ、私ねっ、リュノ姉ぇと一緒にいられてすっごく幸せなんだ!』
『リュノ姉ぇのおかげで、やっと私、人間らしくなれたから!』
小屋の中を見た瞬間、幸せな記憶が洪水のように溢れ出してきた。
知っている。
メアリーが、ではない。
メアリーの中にいる誰かが――リュノが――その思い出を、再生させている。
(村にあった小屋……やけに新しいと思いましたが、やはり偽物だったんですね)
隠そうとしたのか、はたまた観光のために強引に作ったのかはわからない。
だが、間違いなく本物は“こちら”だ。
リュノはこんな、普段は誰も足を踏み入れないような森の中で、少女と二人で暮らしていた。
おそらく、16年前までずっと。
誰だ。
この少女は一体誰なんだ。
なぜ顔がぼやけている、なぜ名前を呼ばない。
まるで――『死神』自身が、それを見ることを拒んでいるかのようではないか。
「まさか……オックスのおかげで、こんな場所を……見つける、なんて……」
メアリーは頭痛に顔を歪めながら、壁伝いに小屋の中を歩いた。
そして、棚の上に置かれた、割れた写真立てを見つける。
中身を取り出し、ランプを当てる。
少女と二人で撮影したもののようだ。
ついに顔が見れるのか――と期待したが、半分は陽に当たり続けていたせいか、焼けて見えなくなっていた。
しかし、リュノ・アプリクスの顔はしっかりとそこに写っている。
「……ははっ、もう誰を信じて良いのかわかりませんね」
メアリーは思わず笑い、天を仰いだ。
なんてことはない。
リュノの顔は、メアリーをそのまま少し成長させただけ。
未来の自分の姿を写している、と言えるほどにそっくりだったのだ。
「結局――ユーリィが言っていたことこそが、正しかったんじゃないですか」
メアリーはヘンリーとフランシスに似たのではない。
おそらく、『死神』のアルカナであるリュノから何らかの影響を受けて、彼女に代わって『世界』を受け入れる器として、この世に産み落とされたのだ。
リュノは人の姿をしていたようだが、神でもある。
その程度の事象は引き起こせるのだろう。
「『世界』も私を憎むはずです。大切な親友が自分を殺すために生まれてきたのが、リュノそっくりな私だったんですから。ミティスにとっては、呪いそのものでしょうね……」
どうして私なのか――そんな問いそのものが、ミティスにとっては不快極まりないものだっただろう。
だが、それはメアリーにはどうしようもないことだ。
選択者はもういない。
彼女だって選びたくはなかった。
しかし選ばされた。
遺跡でみた情景が事実なら、アルカナたちだってそうだ。
選びたくはなかった。
こんな未来、誰も望んではいなかったはずだ。
だからこそ、望まなかった人間同士で憎み合うしかなくなってしまった。
「なんて……どうしようもない世界。ですが私もお姉様を奪い、お父様を貶め、ノーテッドさんを殺した『世界』を憎まずにはいられない。どのような理由があろうとも、もはや殺す以外の決着なんてありえない――」
それらの事情がわかったとしても、結果は同じだ。
憎いものは憎い。
もはや殺し合うしかない。
つまりそれは、どちらかの悲願が達成されないということを意味する。
誰かの悲劇は、悲劇のまま終わる。
神でも起こせない奇跡でも起きない限りは――
「ぬぅぉおおおおおおおおおッ!」
そのとき、男の雄叫びが響き渡った。
メアリーは反射的に後ろに飛び退く。
直後、剣閃が壁を引き裂きながら、先ほどまで彼女のいた場所を切断した。
開いた隙間の向こうで、男がメアリーを睨む。
「メアリー! 僕は言ったはずだ、小屋の近くで待っていると。それがなぜ、中にいる? いつまでも出てこない?」
「あなたの事情にあわせる必要はありませんから」
「お前のような人間のために待たされる僕の気持ちにもなってみろぉぉおおおッ!」
オックスの腕が『力』のアルカナにより肥大化する。
彼はそのまま、力任せにメアリーに向かって剣を振り下ろした。
斬撃が脆い木の壁を砕き、衝撃が家そのものを押しつぶす。
メアリーは窓を割って、外に飛び出した。
無残に形を失っていく“思い出”を前に、彼女の胸は強い痛みを感じていた。
(リュノ、ここはそんなにも大切な場所だったんですか……?)
彼女はたぶん、泣いている。
苦しみに満ちたこの世界で、唯一の優しい思い出が失われて――
「メアリィィィィ……ッ、会いたかったぞメアリィィィッ!」
家の外には、複数の松明で飾られたバトルフィールドが作られていた。
ここがオックスにとっての決戦の場所なのだろう。
エリニはその端で、木の幹を背もたれにして、ぐったりと意識を失っていた。
「こっちを見ろメアリー。僕は怒りに燃えている! お前という無価値な命を守り、フランシス様は死んだ。つまり! お前がフランシス様を殺したに等しいのだッ!」
人質を殺すつもりはないとわかっただけマシだろう。
だが、そのような卑怯な手段を取った時点で、彼の人としての品位は地に落ちた。
「見ろと言っているんだ、メアリーッ! 僕はずっとお前が憎かった。無能のくせにフランシス様の寵愛を受けるお前が! ただ血の繋がりがあるというだけで、無条件で愛を注がれるお前がぁッ!」
メアリーは心からうんざりした表情で、彼に冷たい視線を向けた。
「ようやく見たな。メアリー」
「メアリーメアリーと、あなたに呼び捨てにされるのは心底不愉快なのですが」
「お前のような生まれながらの罪人、名前が与えられたことすら贅沢なほどだ」
どこまで人を見下すというのか。
つくづく思う。
フランシスがこの男の手を取らなかったのは、あまりにわかりきった、当然の結果であると。
「いいかメアリー、もしお前がフランシス様の死に少しでも責任を感じているのなら、この場で僕の刃に心臓を捧げろ。感じていないのなら自らの愚かさを自覚して死ね。それだけがお前にできる償いだ。生きてフランシス様を弔う役目は、この僕にのみ許されたものだッ!」
「それは、お姉様が望んだことですか?」
「聞かずともわかるッ!」
「なぜでしょう」
「僕はフランシス様を愛しているからだぁッ!」
力いっぱいに叫ぶオックスを、メアリーは思わず鼻で笑った。
「くだらない」
「何だと?」
そして心から軽蔑する。
論ずるに値せず。
この男は、ただただ醜い、我欲の塊に過ぎないのだ。
「あなたは、私が戦ってきた誰よりもくだらないと言っているんです」
「貴様……この将軍オックスを、『力』のアルカナを舐めるなよぉおおおッ!」
「その妄想を叩き潰してあげます、かかってきなさい!」
オックスの体が、殺意と共に膨れ上がる。
立ちはだかる筋肉の塊を前に、メアリーは自らの両腕を突き破り、禍々しい骨の腕で拳を握った。
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