アルカナ使い――男がそう名乗った時点で、メアリーの中にあった“希望の前提”は尽く崩れた。
だが幸か不幸か、今の彼女にはそれを考える余裕すらない。
メアリーはとっさに後ずさり、男から距離を取った。
すると見えない何かが彼女の肩を掠め、砂で汚れたドレスと肌を浅く切り裂く。
「いづっ……! は……あ、あ……死にたくない……私は、死にたくないっ!」
男に背中を向けて走り出すメアリー。
彼はその様を見て嗤う。
「鬼ごっこか? 俺、結構好きだよそういうの。昔サァ、よく友達と一緒に遊んだんだよ! もちろん俺が鬼! いつだって鬼! だって俺は鬼だからァーッ! あっはははははは!」
背後から聞こえてくる笑い声に振り向くこともなく、メアリーはひたすら真っ直ぐに走った。
ここは枯れた森、身を隠せる遮蔽物はない。
だからせめて遠くへ、夜の闇に隠されて見えなくなる距離まで離れなければ。
しかしメアリーはしょせん、魔術すら使えない十六歳の少女に過ぎない。
全力で走ったところで、軽く流すように走っているだけの男との距離は離れなかった。
「はっ……はっ……はっ……死にたくない……死にたくない……死にたくないぃっ……!」
それでもなお、自分にそう言い聞かせて走るメアリー。
「お嬢ちゃーん、待ってくれよー! あはははっ! そんなに必死に走ってどこに行くんだ? その先にあるのは死体が積もったゴミ捨て場だけだ! それとも俺が手を下すまでもなく、自分で死んでくれるのかーい!?」
挑発するように――あるいは、その追いかけっこを心から楽しみながら、追跡する男。
それまでメアリーは振り向かないようにしていたが、どうしても距離が気になる。
足を止めること無く首を回す。
「やっとこっちを見てくれたネェ!」
男は頬に皺を寄せて不気味に笑っている。
すぐに前を向いて、走った。
しばらく走って、再び振り返る。
「そんなに俺のことが気になるのかーい?」
距離は変わらず――そう、異様なまでに変わらない。
何度振り返っても、どれだけ速度を早めても、逆に体力を消耗してスピードが落ちても変わらない。
「おーい! 待っておくれよー! あははははっ! たーのしいなー! 鬼ごっこはやっぱりいいよねェーッ!」
(私、遊ばれてるんだ……)
そう理解して、どうあがいても生存は難しいという事実を認めながらも、それでも悪あがきを続けるメアリー。
そして再度、振り返る――
「あれ、いない?」
前方に視線を戻す。
「やあ、また会ったね♥」
目の前に、笑顔の男がいた。
「ひぃっ――!?」
肺がぎゅっと縮まり、息を吐き出しながら引きつった声を出すメアリー。
すぐさま逃げようとしたが、
(何かが、私の腕を掴んでる……!?)
見えない何かに右腕を拘束され、離れることができない。
そして次の瞬間、その“何か”は軽く力を込め、パキッとメアリーの腕をへし折った。
「あ――あ、あぁああっ、いぎっ、あぁぁぁぁぁあああああああああッ!」
メアリーはその急激で強烈な痛みに、甲高い声で、大きく叫ぶ。
痛みに全身から冷や汗が噴き出して、体が言うことをきかなくなり、「はっ、はっ、はっ、はっ」と小刻みに肺を震わせながらのたうち回る。
「腕えぇぇっ! 私のっ、腕っ、腕がっ、がひっ、ひいぃいぃっ!」
「いい顔だねえ、鬼をやった甲斐があったよ。さあ、じゃあ第二ラウンドの始まりだ。早く逃げてー! 逃げないとぉ、今度は脚も折っちゃうゾ♪ ま、魔術評価ゼロのか弱い女の子じゃ、逃げられるわけもないんだけどサ! あはははははははッ!」
「い、いやあぁっ! いやぁぁぁぁあああっ!」
左腕で這いずりながら、男から逃げようとするメアリー。
彼はあえてそれを見逃し、嘲笑とともに観察する。
やがてメアリーは片腕でどうにか立ち上がり、よろよろと走り出した。
枯れた森を抜けて、向かった先にあるものは――死神の谷だ。
広く深い崖谷を前に、メアリーは立ち止まる。
「……あ」
決して立ち往生したわけではなく、彼女はそこで、あるものを見つけたからだ。
崖の手前に横たえられた、女性の体。
「嘘、だ……」
腕を一本喪失し、腹部は歪み、口と鼻から血を流した――愛おしい人の死体。
「約束、したよね? ねえ、お姉様あぁぁぁぁああっ!」
メアリーはボロボロと涙をこぼし、死臭漂う姉の体にすがりついた。
その肌はすでに冷たく、いつものように優しく頭を撫でてくれることもない。
「んー……感動的だあぁ……愛し合う姉妹の感動の再会に、俺は涙を禁じ得ないッ! 素晴らしい! 我ながら最高にドラマティックな演出じゃないかァ!」
その様を見て、歓喜する男。
髪をかき乱し、くねくねと体をよじりながら、狂乱して嗤う。
そんな男を前にしても、メアリーは反撃の手段を持たない。
(やっぱり私は、空っぽなんだ。大好きなお姉様が死んでも、何もできない。外道が、仇が目の前にいるのに、何もっ……! ただ、死体にすがりつくことしかできない……ッ!)
歯を食いしばったところで、秘めたる力が覚醒することもない。
現実はただただ無情で、メアリーに無力さを痛感させるばかり。
「だけど俺は、より高みを目指す。この美しい世界でより輝くために! 高みへ! 絶頂へ! よりハイオクリティなエンタァァァァァテインメントで、俺をもっと高いステージまで導いてくれよ、お嬢ちゃん!」
メアリーたちを指差す男。
すると死んだはずのフランシスがむくっと起き上がり、無表情にメアリーを見つめた。
「お姉様……っ!」
一瞬だけ、メアリーの表情に希望が宿る。
だがすぐに顔を見て理解する。
これはただの、死体なのだと。
その理解を裏付けるように、フランシスはメアリーを残った腕で抱きしめ、拘束した。
メアリーは身をよじって逃げようとしたが、その力は肺が潰れそうなほど強い。
「う、ぐ……おね……さま……やめっ、やめて……おねが……いっ……!」
当然、そんな言葉が死者に届くはずもなく。
フランシスの死体は、メアリーを抱きしめたまま崖の縁に立つと、
「このショーは、アルカナ『隠者』の所有者マグラートの演出でお送りいたしました。それではまた、来世で」
その男――マグラートの言葉と同時に、飛び降りた。
全身を浮遊感が包み、声もなく、メアリーは落ちていく。
(ああ……私、結局、死ぬんだ)
数十メートルのフリーフォール。
高確率で即死。
よしんば生存できたとしても、脱出の可能性はゼロ。
もう諦めるしかない。
だからメアリーは、せめて少しでもマシな死に様を――と、姉の体をそっと抱き返した。
「お姉様……大好きです」
グチャッ。
腐敗した死体の上に、叩きつけられる姉妹の体。
全身を激しく揺らす衝撃とともに、メアリーは意識を失った。
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