「ふうぅ……危なかったわね」
廊下に出たキューシーは、床にへたりこんで息を吐き出した。
「油断するなキューシー、敵アルカナの範囲はあの部屋だけか?」
カラリアの言葉を受け、キューシーは「よいしょっ」と勢いを付けて立ち上がると、近くの手すりに触れた。
そして魔力を注ぎ、首を振る。
「こっちもダメね、影響はフロア全体に及んでるのかもしれないわ」
「随分と範囲が広いな。確認するが、『女帝』の能力は魔力で上回れば上書きできる、という認識でいいか?」
「相性にもよるし、抵抗されれば時間はかかるけど、基本はそうよ」
「だとすると、相手はとんでもない魔力の持ち主だな」
「あるいは、このフロア自体が何らかの条件を満たしているか……」
ベッドに敵アルカナの魔力は存在しなかった。
つまり、あの不気味な女が使うアルカナは、“部屋”や“廊下”といった、建造物に対する干渉能力と考えられる。
現状、この廊下に対しては、攻撃を仕掛けてくる様子は無いようだが――考えながらも、階段へ向かって歩くカラリアとキューシー。
すると向こうから、先に部屋を出たはずのメアリーが走ってきた。
「キューシーさん、カラリアさん!」
「メアリー、医務室に向かったんじゃなかったの?」
「それが、エレベーターは止まっていて、階段は隔壁が降りて進めないんです。どうやら、そちらでも何か起きたようですね」
「部屋の壁が急に迫ってきてな」
「壁が!?」
「扉も閉まって閉じ込められたんで、私の拳と、キューシーの能力をベッドに使って、力ずくで脱出してきたんだ」
メアリーは「そんなことが……」と驚く。
一方でキューシーは、何やら気になることがあるらしく、苛立たしげな表情でぶつぶつと何かをつぶやいていた。
「モニターだけじゃなく、エレベーターや隔壁も……セキュリティが完全に掌握されてるっていうの? 科学を魔術で掌握する? そんな馬鹿な、たとえピューパがバックに付いてたとしても、マジョラーム社の技術力を上回るなんて不可能よ。こんなのインチキじゃない!」
「落ち着け、キューシー」
「わたくしは冷静よ! 想定外が続いて頭が追いついてないだけ!」
「それを落ち着いてないと言うんだ」
「う……」
「キューシーさん、建物は壊してしまってもいいんですか?」
「緊急事態よ、好きなようにぶっ壊しなさい」
メアリーはエレベーターの前に立つ。
「ん……く……んあぁっ!」
そして背中から巨大な腕を二本生やすと、両手を重ね、扉に叩きつける。
すると、二枚の板はあっさりと吹き飛び、下へと続くシャフトに落ちていった。
どうやらアルカナの能力は適用されていなかったらしい。
「扉を封じる力は、自動で適用されるわけではない、と」
「私はここから降りて医務室に向かいます」
「武器の受け取りも下だったな」
「キューシーさんは――」
「社長室よ、お父様が心配だもの」
「一人で行けますか?」
「問題ないわ、この子に連れてってもらうから」
キューシーはそう言って、スーツの胸ポケットからペンを取り出す。
やがて、それは小鳥に姿を変えた。
どうやら鳥が彼女を上層階まで持ち上げてくれるらしい。
「かわいい鳥さん……それなら大丈夫ですね。ではカラリアさん、行きましょう!」
カラリアが「ああ」と相づちを打つと、二人は同時にシャフトを飛び降りる。
さらに同じタイミングで、階段への道を遮る隔壁の向こうから、大きな声が響いた。
「うおぉぉぉおおおおッ! 主人公たる俺の前に立ちはだかる数々の障壁! 燃えるぜぇぇぇえええッ!」
明らかに異質な、やたら暑苦しい叫び――カラリアは降りながら、頭上のキューシーに向けて言い放つ。
「すぐに合流する、それまで耐えろ!」
「その頃には倒してるわ!」
そう言って、床を蹴り、最上階を目指し飛び立つキューシー。
すると、最下層のほうから、唸り声のような音が響いてくる。
それは凄まじい勢いで、メアリーとカラリアに襲いかかった。
「ゴンドラかッ!」
「この程度、私の力ならッ!」
背中から生やした腕で、メアリーはゴンドラを一撃で破壊した。
凄まじい衝撃音がシャフト内に反響する。
その後、メアリーたちは扉を蹴破り、無事に目当ての階に到着できたようだが――小鳥を掴み、上へ向かうキューシーは不安を抱く。
「下からの攻撃……あのフロアだけじゃない。ビル全体を乗っ取るなんて、一体、何のアルカナなのよ……!」
◇◇◇
メアリーは医務室のあるフロアに到着した。
長い廊下にいくつもの部屋が並ぶ。
それぞれの部屋の入り口はカードキーで施錠されており、許可された者しか立ち入れないようだ。
そんな室内からは、扉を叩く音が聞こえていた。
メアリーは一番近い扉に近づくと、中に呼びかける。
「大丈夫ですか?」
「あなたは――」
「メアリー・プルシェリマと申します」
「王女様っ!?」
「そちらはどういう状況ですか?」
「急に電力と魔力の供給が止まり、部屋からも出られなくなってしまいました」
「同じですね……ひとまず扉を破壊します、離れてください」
「は、はいっ、ありがとうございます!」
社員の声が少し離れる。
メアリーは背中の拳を握ると――ふと、気配を感じてその動きを止めた。
「……申し訳ありません、事情が変わりました。少々お待ちを」
彼女はそう告げて、いつの間にか廊下に立っていた女と向き合った。
細長く色白な手足に、長い髪、そして白いワンピース。
女は何も言わずに、わずかに体を左右に揺らしながら、ただただそこに立っている。
メアリーは鎌を構えた。
「メアリー王女……」
女は、震えた声で呼びかける。
「会いたかった……ずっと、ずっと……新聞越しに、画面越しに、遠くから見ることしか叶わなかったあなたと……」
メアリーは、小さな歩幅でこちらに歩み寄る彼女を、じっとにらみつける。
そして――
「私の、大切な、大切な、妹だから」
その言葉と同時に、前に飛び出した。
声すらなく、静かに、しかし全力で鎌を振り下ろす。
回避する様子はない。
斬撃は、しかし女を捉えることはなかった。
彼女は、まるで水に沈むように、床に消えたのだ。
メアリーが辺りを見回すと、今度は背後に女の姿があった。
「私がいなければ、あなたはいない。けれど、あなたがいなければ、私はいない。お互いに、そういう存在だから」
「あなたたちは、責任転嫁が得意な人の集まりなんですか?」
「責任転嫁していた人間は、すでに死んだわ。残ったのは、押し付けられた人間だけ。あなたも、私も」
「自分は理解しているからと、わけのわからない言葉でッ!」
再度繰り出す斬撃。
今度は、床を裂きながらの斬り上げ――すると女は、壁に溶けて消えた。
そして、何事もなかったように、また背後から――しかも今度は天井から、ぬるりと現れる。
重力を無視するように、黒い前髪はその顔を覆って隠していた。
「それも、勘違い。あなたが何も知らなすぎるだけ。かわいそうに。全てを知る人間が一番傍に居たのに、彼女は――もうひとりの王女は、何も語らなかったのね」
「それは――あなたたちが殺したからでしょうッ!」
放たれる斬撃。
消える女。
だが今度の攻撃は一振りで終わらず、メアリーは敵が消えた天井ごと切り刻み、その一部がゴトリと床に落ちた。
またもや沈んで消える女。
だが、まったく全てが同じというわけではない。
(焦りと呼べるほどでは無いものの――さっきよりも、わずかに回避のタイミングが早かったですね)
彼女は転移しているのではなく、壁の中を高速で移動している可能性が高まる。
女は、横の壁からぬるりと這いずるように現れた。
「一応、言っておくけど……彼女の死は、私たちにとっても、想定外よ。しばらくは、生きてもらうはずだったのに。ねえメアリー王女、どうして彼女は、あなたが捕らえられたことを知っていたの? どうして彼女は、あなたを助けられたの?」
「……」
「ああ……ごめんね。そう、あなたは、何も知らないのよね――かわいそうに」
抑揚は少なくも、憐れむニュアンスは嫌というほど伝わってくる。
殺しておいて。奪っておいて――そんなメアリーの苛立ちを、あえて引き出すように。
(相手は私の動揺を狙っているだけです。私は落ち着いて、殺すことだけ考えていればいい)
大きめの呼吸で感情を整える。
(アルカナの干渉範囲は壁、床、扉――“建物そのもの”全てと考えるべきでしょう。一方で、ベッドのような後に配置された“家具”にキューシーさんの能力は通用した。つまり、そこは影響範囲外。また、必ずしも全てが同時に力の影響を受けているわけではないようです。その証拠に、エレベーターの扉や床、天井への斬撃は有効でしたから)
得た情報を分析して、余計な思考を脳から追い出す。
(ならば、あの女ではなく、その逃げ道を塞ぐ形で攻撃したら――)
メアリーは、なおも言葉を続け、動揺を誘う女の足元に向け、鎌を振るった。
狙うは壁、床――沈んで逃げられぬよう、完全に切り離す。
「思っていたより、冷静なのね」
だが、女の心に乱れは見られず。
ゆらりとその姿がぶれると、今度はどこにも消えることなく、ただただ高速にメアリーの背後を取った。
振り向く。刃で薙ぎ払う。
女は不気味に「ふふふ」と笑い、後退して回避。
そのまま近くにある扉に手を当てた。
「なら、これでも、冷静でいられる?」
メアリーが壊さなければ、閉ざされたままの扉が開く。
向こうにいる研究員と目が合った。
彼女はメアリーの姿を見て安堵の笑みを浮かべたが、すぐに女の姿を見て表情を凍らせ――
「絶潰封域」
ぶちゅんっ、と両側から高速で迫る壁に押しつぶされた。
間からわずかに飛び散る血液だけが、そこに残される。
女はメアリーを見て、首をかしげた。
前髪の隙間からわずかに見える口元は、歯をむき出しにした笑みを浮かべている。
「怒らないで、メアリー王女。滅びが決まった、世界だから。人の命なんて、無価値で、等価なのよ?」
「わけの――わからないことをぉぉおおッ!」
堪えきれず、激昂するメアリー。
女はあざ笑うようにそれを避け、ふわりと浮かんで逃げていく。
メアリーは彼女を追って駆け出す。
「今まで、あなただって、たくさん殺してきたでしょう?」
「だから何だって言うんですか!」
「身勝手な憤り」
「身勝手を身勝手で返して、何が悪いんですかッ!?」
「だったら、私も、もっと身勝手になるわ」
ゆらゆらと、こちらを見つめて後退する女。
必死で追うメアリーだが、その距離は離れることもなければ、近づくこともない。
そしてメアリーが前を通り過ぎるたびに、扉を開かれ、壁が中にいる研究員たちを押しつぶす。
飛び散る血しぶきが、人体の末端が、かすかに彼女の横顔を汚していく。
「ああ、あなたが動くせいで、みんなが死んでいく。あなたが生まれたせいで、多くの人が、死んだように」
もうメアリーは、声を荒らげることすらしなかった。
無意味だと悟ったから。
きっと、人の言葉とたまたま発音が一致しているだけで、あれはまったく別の言語なのだ。
そう思うことにして、ただただ走ることに集中した。
やがて終着点がやってくる。
女は扉の向こうに消えて、メアリーはその扉を蹴飛ばし、部屋に飛び込んだ。
「アミちゃんっ!」
驚く白衣姿の女医や、看護師らしき社員たちをよそに、メアリーは部屋を見回し、ベッドに横たわる少女を見てほっと胸をなでおろした。
「よかった、無事だった……」
思わずそう言葉に出してしまうメアリー。
しかし、すぐに思い出す――横たわるアミは、すでに息絶えていることを。
何かの間違いかもしれない。
いざ会いに行ったら、目を覚ましているかもしれない。
そんな幻想を、メアリーの中の『死神』が打ち砕く。
(私はあの体を食べることができる。それは、何より確かな死の証明――)
メアリーは胸に手を当て、強く唇を噛んだ。
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