この世には、数多の“世界”が浮かぶ海がある。
そこには人間が扱う桁数では到底表せないほどの、無数の世界が浮かんでいるという。
いわゆる“平行世界”や“異世界”と呼ばれるものもその中に含まれる。
そんな世界を増やし続ける存在がいる。
人はそれを“大いなる意志”と呼ぶ。
正式名称はわからない、勝手にそう名付けただけだ。
誰も会ったことすらない。
だが間違いなく彼らは存在していて、世界を増やすことを目的としている。
あるとき、大いなる意志は気づいた。
自分たちが介入せずとも、自動的に世界の数が増えていることに。
それは、ある世界に暮らす知的生命体が、一定の文明レベルまで達したときに発生する。
彼らは演劇や小説などの延長線上にある表現方法として、 “世界の創造”を行うのだ。
大いなる意志はその現象に可能性を見出し、実験としてある世界を生み出した。
そこに暮らす生命体は、“世界を増やすこと”を本能に組み込まれているのである。
それこそが至上の幸福と考え、世界を生み出せなかった者は次の世代へと想いを託して子を成すのだ――
◇◇◇
男性教員は板書もほどほどに、生徒たちに熱弁した。
「これが私たち人類の生きる意味だ。今後お前たちは中等部で勉学に励み、神導学園への入学を目指すだろう。しかし――入学できるのは、このクラスで一人いればいいほうだ。大半の人間は神の候補にすらなれずに、無価値な人生を送るだけとなる」
対する生徒たちは、実に退屈そうにその話を聞いている。
そんな態度が、余計に教員に火をくべる。
「最近は神を目指す以外にも生きる意味があるなどと言っている者も多いが、それは大きな間違いだ。いいか、人類は神になるために生まれてきたんだ。それ以外の生き方など等しく無意味だということを理解しろ! 子をなせば許されるなどという負け犬の考え方はやめろ!」
その後も、彼の熱血授業はチャイムが鳴るまで、息継ぎの間もなく続いた。
◇◇◇
授業が終わると、生徒たちの口からため息が漏れた。
教室の片隅で頬杖をつく少女も、そのうちの一人だ。
黒髪でツインテールが特徴的な彼女は、廊下の奥へと消える教師の後ろ姿を鋭い目つきで睨んでいる。
「ミティスったら、そんな目をしていたらまた生徒指導室に連れて行かれますよ」
ミティスと呼ばれた少女は、聞こえてきた声の主を見た。
金色の長い髪。
女神かと見紛うほどの美しさ。
丁寧な口調や所作も相まって、どこのお嬢様かと言いたくなるような気品が漂っている。
同じ制服を着ているはずなのに、それすらもまるでお姫様のドレスのようではないか。
「そうは言うけどさ、リュノ。誰だって一言ぐらいは言いたくなるじゃない」
まったく反省の見られないミティスの言葉に、リュノは控えめにくすりと笑った。
すると、そんなリュノの後ろからひょっこりと別の少女が顔を出す。
毛先の跳ねた茶色い髪と、部活で少し焼けた肌、そしてぱっちりとした瞳――外見からして、犬のような人懐っこさが感じられた。
「あはははっ、ミティスはあーいう輩が昔から苦手だもんね」
「セレスだって嫌いでしょう?」
「あたしは……ノーコメントかな」
「沈黙は肯定」
「そう、あたしは沈黙皇帝――サイレイント・エンペラー」
「わけわかんないんだけど」
「考えるな……感じろ!」
くわっ、と目を見開くセレスの横腹を、ミティスが人差し指でつつく。
「んひゃあぁんっ! 感じるってその意味じゃないよぉっ!」
少し嬉しそうに悶えるセレスにミティスは呆れ、ジト目で睨んだ。
そんな二人のやり取りに微笑むリュノ。
「本当にミティスとセレスは仲いいですね」
「将来を誓いあった仲だから」
「誰がよ!」
「あ、ごめん。ミティスの将来はリュノが予約してたかぁ」
「ち、ちがっ! そういう意味じゃなくって!」
「ふふふ、私の未来は二人用に取っておいたつもりですが」
「あたしも入ってるんだ……」
「リュノの優しさに感謝するのね」
「なんでミティスが勝ち誇るんだよぉー!」
騒がしくじゃれあう三人。
それは何年も前から続く日常の風景だった。
ミティス・プルヴィア。
リュノ・アプリクス。
そして、セレス・サンクトゥス。
三人は幼馴染で、互いにずっと一緒にいたいと思っている。
当たり前のようにそれが実現すると思っていた。
少なくとも、このときまでは。
◇◇◇
放課後、あの面倒な教師による暑苦しいホームルームが終わると、ミティスはかばんを手にリュノとセレスに歩み寄った。
「二人とも、帰りに遊ばない?」
ミティスの誘いに、二人は困った顔をする。
「ごめんなさい、今日は塾なんです」
「あたしは部活のあと塾。ごめんね」
「そっか……仕方ないか」
「ミティスも一緒に塾に行きませんか?」
「お金ない」
「うちの部に入る?」
「道具とか買い揃えなきゃでしょ。というか体育会系のノリ、あんま合わないのよ」
「あたしとの相性は抜群なのに!?」
「誰がよ。あんたを見てるから入りたくないのよ」
「ひどぉーい! ふえぇぇぇん、リュノのたわわなおっぱいで慰めてー!」
そう言ってリュノの胸に飛び込むセレス。
さらに彼女はどさくさに紛れて胸をもんだ。
「うひゃっ、ダメですよそんなことぉっ! 止めてくださいミティスぅっ」
「……その表情、いいかも」
「何でこんなときだけ協力するんですかぁ!?」
一瞬、ミティスの頭に『自分も揉めるのでは』という邪念がよぎったが、彼女はそれを振り払ってセレスを止めた。
いつまでもバカなやりとりを続けていたかったが、時間が来てしまう。
ミティスは、親の迎えで車に乗るリュノを見送り、学校を出た。
慣れた一人の帰り道。
見飽きた夕焼けの空。
中等部に入ってからは、部活や塾の影響で三人で帰る機会がずいぶんと減った。
仲は良好だ。
だが、現状維持を望んでも物事は変わってしまう。
以前なら、一人で帰ることになったら、ミティスはまっすぐにマンションへと向かっていただろう。
しかし今の彼女は、わざわざ目的もないのに寄り道をする。
本屋に立ち寄ったり、図書館で課題を終わらせたり、少し離れたショッピングモールを一人で回ったり、最後は時間つぶしに近所にあるコンビニで立ち読みをする。
そうして限界まで時間を稼いで、ミティスは帰宅するのだ。
「……ただいま」
小さな声でそう言って、彼女は薄暗い玄関で靴を脱ぐ。
出迎えはなかった。
リビングからはテレビの声と、下品な男の笑い声が聞こえてきた。
ミティスはその直前でためらい、立ち止まる。
「おいミティス、帰ったなら顔ぐらい出したらどうだぁ!?」
どうやら男は彼女の帰宅に気づいていたらしく、苛立たしげにそう声を荒らげた。
ミティスは観念して部屋に入る。
ソファに偉そうに腰掛ける、チャラついた男と目が合った。
そしてその腕の中に、女の顔をした母がいた。
タバコ臭い室内で、二人は娘の前だろうとお構いなしに戯れている。
「おう、帰ったならメシ作ってくれねえか。オレたち忙しいんだよ」
「ミティスちゃん、冷蔵庫に何か入ってると思うから適当に作ってぇ」
ミティスはその場で立ち尽くし、無表情に男を見た。
「んだよその顔……それが未来の父親に向ける顔かァ!?」
ビールの空き缶が飛んでくる。
それはミティスの額に命中し、彼女はわずかに顔を歪めてそこを手で押さえた。
「チッ、顔に痕が残ったら面倒なんだからよぉ。オイ、早くぼーっと突っ立ってねえでメシ作れや! こいつも腹が減ってんだよ! なあ?」
「うん、お腹空いたぁ。お願いミティスちゃん」
これ以上逆らえば、何をされるかわからない。
ミティスには従う以外の選択肢はなかった。
自分だけ外で済ませてきたと気づかれるとまた殴られるので、三人分の食事を作る。
といっても、冷蔵庫にあるのは酒とつまみになりそうなものぐらい。
大したメニューは作れないが、こういった事態に備えて本屋でレシピ本も読んできた。
うまくやれば、痛い思いをする機会が減る。
無くなりはしないが、減らせるのなら――そんなネガティブな理由で、料理の手付きがよくなっていく自分が嫌だった。
◇◇◇
それから数日後、学校での昼休み。
ミティスは机をくっつけて、リュノとセレスと一緒に食事を摂る。
「わ、今日はミティスのお弁当、手作りなんですね!」
「前から思ってたけど、ミティスって見た目の割に料理うまいよね」
「セレスにはあげないから」
「しょんな殺生な!」
「ふふふ、ではセレスの分も私がもらっちゃいますね」
「ストップよリュノ。まずあたしたちが貰えること前提に話を進めているのがおかしいっ!」
「あげるために余分に作ってきたんだよね」
「だそうですよ。ミティスは優しいですね」
「ひーん! ごめんなさいミティス様、どうかあてくしにもお恵みくだせえー!」
ミティスは、二人との会話がどれほど自分にとっての救いになっているのか、それを理解していた。
二人がいなければ、とっくに自分は潰れていただろう。
わざわざ早起きして弁当を作ってくるのもそのためだ。
母とその彼氏のために料理が上達していると思いたくないから。
あくまで、リュノとセレスのためなのだと、そう自分に言い聞かせるために。
◇◇◇
ミティスの母は昔から、男性とあまり長続きしないタイプだったという。
だから彼女自身、自分の父親のこともよく知らない。
物心がついた頃には、すでに別の男性が母の近くにいたから。
あまり認めたくはなかったが、母は美人で、性格も男受けするタイプなのだ。
そして良くも悪くも影響を受けやすい。
ファッションも、髪型も、そして性格すらも、そのときに付き合っている男性の好みに変わる。
きっとそれは、この世界に生きる人間としては、かなり優れた能力と言えるだろう。
神として世界創世に関われるのはごく一部。
それ以外の人間は、子を成すために生きているのだから。
もっとも――実際のところ、ミティスを産んでからは、なかなか次にたどり着けないようだが。
一方で、そんな母という生物は、ミティスから見ると不定形の化物のように見えた。
誰とも付き合っていないときだけは優しくて子供想いの母になるから、余計にそう思う。
「ねえお母さん、相談したいことがあるんだけど」
「なぁに?」
「私、塾に行きたいんだ」
たとえば、そんな相談をしたとしよう。
きっと恋人のいない母なら、喜んで行かせてくれただろう。
しかし今はどうだろうか。
「はははははっ、こんなバカ女の娘が塾とか。無駄に決まってんだろ!」
「やぁ、バカなんてひどーい。んー、塾に行ってどうしたいの?」
「神導学園を目指せたらいいな……と思ってて」
大真面目にミティスは言った。
「ぎゃははははははははっ!」
男の笑い声が響いた。
「ふ、ふふふっ、んふふふふふふっ」
続けて、母も笑った。
ミティスの願いを踏みにじるように。
「行けるわけねえだろ、この女がバカならお前もバカなんだからよお! お上品に勉強なんてしてねえで、男に媚びるだけ考えてろよ。それが人間の役目ってもんだろ。なぁ、お前もそう思うだろ?」
「うん、そう思う。ごめんねミティス、諦めてぇ」
「……わかった」
もう――失望すらしなかった。
きっと今のミティスが最底辺にいるからだ。
もう堕ちようがないのだ。
こんな奈落に来てしまうと、もう這い上がることすらできない。
せめてマイナスをゼロへと戻すために、何ができるだろう。
そういう思考に至ったとき、人が考えることは一つだ。
◇◇◇
中等部は、1クラスあたり30人の生徒がいる。
その中で、リュノはいつも成績1位だった。
セレスはあんな性格で運動部のくせに4位。
一方で、ミティスは24位。
平均よりも下。
かといって教師が心配して相手にしてくれる順位でもない。
男が言う通り、あまり地頭はよくないのだろう。
それでも、放課後の図書館でできる限りの勉強はした。
その結果、こんな半端な成績になってしまった。
余計に閉塞感を覚える。
どこに行けばいいのか。
何者になればいいのか。
道標は一つ、リュノとセレスだけだ。
しかしそんな二人も、次第に離れていく――
いや、ひょっとすると最初から、一番近くにいるようで、誰よりも遠い存在だったのかもしれない。
リュノの兄は、神に選ばれた。
なので家は裕福だし、両親は娘も神にしようと教育熱心だった。
セレスの家は、彼女は普通というが、それなりに金持ちだ。
だから家にはトレーニング器具が揃っているし、良い塾にも通えている。
そんな二人と、どうしようもないミティスの付き合いがあるほうがおかしかったのだろう。
◇◇◇
「ミティス! その顔どうしたんですか!?」
「ちょ、ちょっと、それ洒落になんないでしょ!」
ある朝、リュノとセレスは登校してきたミティスを見るなり驚き、駆け寄った。
その顔には、青あざがくっきりと残っていた。
「気にしないで、ドジして転んじゃっただけだから」
嘘だ。
あの男に思いっきり殴られた。
体も何度も踏みつけられてあざだらけだ。
のたうち回って苦しんでいたら、母も一緒になってゲラゲラと笑われた。
タバコと変な匂いが混ざった部屋で、そんな地獄を何時間も味わった。
でも――少し嬉しかった。
もしこれで自分が死ねたなら、ゼロになれる。
しかも二人は裁かれる。
母に関しては少し思うところはあるけれど、復讐と救済が同時に得られるのなら、それでもいいと思ったのだ。
「ミティス……」
リュノは、ミティスの手を両手でぎゅっと包んで、目に涙を浮かべた。
近くでその顔を見て、改めて『綺麗だな』とミティスは思う。
「そんな顔をされても、本当に情けないだけの話なんだけど」
「……本当は、親御さんとうまくいってないんじゃないですか?」
「何でそう思われちゃったのかな」
「少し前から、不自然に家のことを話さないからです」
リュノはおっとりしているが、たまにやたら鋭くなる。
確かに、ミティスは男と付き合っていないときの母のことが、割と好きだから――そういうとき、つい会話に母の名前を出してしまう。
ああ、伊達に長年幼馴染をやっていないということか。
「苦しいなら言ってよね。あたしたちにだって、やれることあるはずだから」
セレスも、柄にもなく真剣にミティスの身を案じている。
ミティスはわざとらしく頭をかくと、
「困ったな、本当に大したことないのに」
と下手な演技で誤魔化した。
そしてするりとリュノの手を振りほどき、微笑みかける。
「転んだだけなのに家庭環境まで心配されるなんて。私、普段の行いを反省しないとね」
言い訳に言い訳を重ねる。
こんなに素敵な友達だからこそ、自分のようなくだらない人間のために心配をかけたくないと思って。
自分のように価値のない人間のために、その手を煩わせてはならないと使命感を胸に抱いて。
当人にそこまで言われると、リュノもセレスも、それ以上は首を突っ込むことはできなかった。
まだ一度目だから、本当に転んだだけかもしれない。
そう信じるしかなかった。
◇◇◇
ミティスが家に帰ると、嫌な匂いが充満していた。
嗅ぎ慣れない、かすかに甘い匂い。
「だからさぁ、私もーやなのぉ! こんな場所いたいわけじゃなくてぇ、あと次の子供が出来たらちゃんともらうものもらえるでしょぉ?」
「ガキはめんどくせえって言ってだろ? それよりあいつも邪魔なんだよ、ガキ産んでも大した金にならねえじゃねえか! これ以上お前に似たバカ増やしてどうすんだよ!」
「バカでごめんねぇ、お金いらないぃ?」
「金は欲しいに決まってんじゃねえかよぉおおお! ああぁぁぁあああははははは!」
リビングに足を踏み入れる前から、二人の声が聞こえてくる。
ろれつが回っておらず、二人の会話も支離滅裂だった。
ミティスは自分の顔が引きつっていくのを感じた。
薄々、母と男が何をしているのかはわかっていたが――実際にこうして見せつけられると、言い訳で逃げ道を塞ぐこともできない。
「ただいま……」
震える声で言うと、二人の視線がこちらに向いた。
母が立ち上がる。
彼女の瞳孔は開いており、ふらふらとおぼつかない足取りでミティスに近寄り――
「おかえりいぃぃ……っ」
しなだれかかるように抱きついた。
思わずよろめくミティス。
彼女の視界に、テーブルに置かれた筒状の紙が映り込む。
母から漂う、甘さと汗臭さと何かが混ざった匂い。
ミティスは吐き気がこみ上げて、反射的に母を突き飛ばした。
「きゃあぁぁっ! あう……いたぁい……痛い痛あぁぁいい! うわあぁぁああんっ!」
「あ、違うの、そんなつもりじゃっ」
「何やってんだてめえぇぇぇぇえええッ!」
男がテーブルの上のリモコンをミティスに投げつけた。
反応出来ず、顔に直撃する。
額が切れて血が流れる。
「うぅ……ご、ごめんなさい、ごめんなさいっ」
恐怖に体がすくみ、しゃがみこむミティス。
男は彼女に迫り、何度も体を蹴りつける。
「お前さ前から邪魔だと思ってたんだよ何で生まれてきたんだよ邪魔じゃねえかこいつはいい女なのにお前はよぉおおお! 半端に似てるから他の男の顔がちらつくだろうがああぁぁああッ!」
その怒鳴り声は、およそ正気の人間が出せるものではなかった。
(何で生まれてきたのかなんて、私のほうが聞きたいよ……)
彼女は本気でそう思った。
こんなことに巻き込まれるぐらいなら、死んだほうがマシだと。
すると、倒れて泣きじゃくっていた母が、男の足に絡みついた。
「いけないよぉ、その足は私を踏むためのものでちゅよぉ?」
「お? 踏まれてえのか? このっ、このクソ女!」
「うひっ、ひひひっ」
「よくもこんなバカ生みやがったな! クソが! ゴミが!」
「あははははっ、ひひひひあはははっ!」
男に踏まれて喜ぶ母みたいな形をした化物。
その隙に、ミティスは四つん這いになって部屋の隅に逃げ込んだ。
そこで膝を抱えて、目を閉じて、身を縮こまらせる。
「終わって……もう、終わって……お願いだからぁ……!」
彼女はふいに、まだ肩からかけたままのかばんを開けて、手を突っ込んだ。
中に入っているのは、封筒に収められた一枚の手紙。
大事な大事な、ミティスにとっての生存戦略。
それを握ると勇気が出る気がした。
彼女はその日、一睡もせずに、ただただ地獄のような夜が過ぎ去っていくのを待ち続けた。
◇◇◇
翌日、ミティスは学校に行けなかった。
家からは出たし、校舎の目の前までは行ったが、リュノたちに心配をかけると思って入れなかったのだ。
平日の朝、通勤の人の姿さえ見えなくなった時間に、一人で公園のベンチに座る。
どこにも居場所がない。
このまま消えてしまいたい。
そんなことばかり考えていると――足音が近づいてくる。
二人分。息を切らしながら。
顔をあげた。
目の前に、汗だくのリュノとセレスが立っていた。
「はぁ、はぁ……ここに、いたんですね……」
「まったく、心配させてさ。ふぅ……」
「二人とも、なんでここに?」
愚問だと思った。
あえてそう訪ねたのは、できることなら『ミティスを心配して』とは言ってほしくなかったからだ。
しかし、同時にそれは、本心の裏返しでもあるのだろう。
「ミティスが心配だからに決まってるじゃないですか!」
「あんな顔を見せた翌日に来なくなるとかさ、あたしらに心配しろって言ってるようなもんでしょ!」
だって――二人がそう言ってくれて、ミティスは心の底から嬉しかったから。
リュノとセレスは両側から彼女に抱きついた。
「本当は家で何かあったんでしょ?」
「言ってください、お願いです。私たちにできることだってあるはずなんです!」
「……そんなの、いいよ。だって、迷惑かけるから」
「迷惑をかけてほしいって言ってるんですよッ!」
珍しく、リュノが大きな声でそう言った。
ミティスは思わず目を見開き、彼女を見つめる。
涙に潤むその瞳は、いつにもまして美しかった。
「迷惑なんかじゃありません! そうやって、支え合いたいと思ったから、ずっと一緒にいるんです。そういう特別なんです、私たちは!」
「あたしもいつもはふざけてるけど、それミティスやリュノに笑ってほしいからやってんだからね! もしあんたの笑顔を邪魔するやつがいるんなら、いつだってぶん殴ってやるって気持ちでいるんだから!」
「二人とも……」
成績とか、家の裕福さとか、関係ない。
そういう気持ちなんだって――そう、わかっていた。
わかっていたからこそ、そういう二人だからこそ、迷惑をかけたくないと思ったのだ。
だが、その決断が余計にリュノとセレスを傷つけてしまった。
勇気は、我慢することじゃない。
救いを求めるのも、また勇気だ。
「私を……助けて、くれる……?」
絞り出すようにミティスは言った。
同時に、赤くなった目から涙がこぼれ落ちた。
「当たり前です!」
「当然じゃん!」
二人も涙声で即答する。
何も方法なんて思いついてないのに、それだけでもう、救われたような気がした。
◇◇◇
それからミティス、リュノ、セレスの三人は、まず気持ちを落ち着けることにした。
こんな感情が高ぶった状態じゃ、まともにものを考えられないから。
そして改めて、三人でベンチに並んで座り、リュノとセレスはミティスの話に耳を傾ける。
「お母さん、付き合ってる男の人の影響をすぐ受けちゃうんだ。昔からうちのお母さん、そういうところあったんだけど、今は特にひどくってね。見た目も言動もどんどん派手になっていって、私と話もしてくれなくなって……」
「彼氏さんからの暴力も見てみぬふり、ですか」
「ありえない! ミティスの顔にそんな傷をつけてるのに!」
「怒ってくれてありがと、セレス。少し前から殴られたり蹴られたりはあったんだけど、少なくとも服を着たら見えない場所ばっかり狙ってたのよ」
それを聞いた途端、リュノはミティスの服をがばっとめくりあげた。
「ちょっ、リュノ!?」
そこには――無数の青あざや、やけどの痕があった。
リュノは悔しげに唇を噛んで、怒りに身を震わせた。
「こんなの……こんなことって……ミティスぅっ!」
再び目に涙を浮かべて、強く強くミティスの体を抱き寄せる。
「あはは、もう痛くないから平気だよ」
「そんな問題じゃありません! ミティスの体に傷を付けるなんて……絶対に、絶対に許してはいけません!」
「だね。問題はどうやって引き離すかだけど」
「ひとまずうちに泊めましょう」
「許可取らないと警察が出てくるだけだと思うけど」
諦め半分にミティスはそう指摘した。
「あまり言いたくありませんが、うちの親は……警察にも、多少は融通がききます」
「そっか、お兄さんが神様になったから!」
神の親族は、それだけで大きな権力を持つ。
それは信仰によるものであり、警察といえど、逆らうことを躊躇するほど絶大な効果を発揮する。
「待ってよ。それこそリュノに迷惑がかかるからっ!」
「ですが手段は選んでいられません。私の家に泊めるのは決まりです」
「……いいの?」
「そう聞いて私がダメと言うはずがありません」
「そうだね。リュノ、本当にありがと」
「あたしも一緒に泊まるから。何かあったら本気でぶっ飛ばすかんね!」
シュッシュッとシャドーボクシングするセレス。
ミティスはそれを見て、ようやく笑みを浮かべた。
「しかし何か他に方法は無いかなあ。やっぱまずは虐待について相談するところを頼る?」
「それがいいですね。ですが……どうしても時間はかかってしまうと思います」
「……あ」
「ミティス、何か気になることでもありますか?」
「いや……その……」
ミティスの脳裏に浮かんだのは、テーブルに置かれていた筒と、部屋に漂う独特の匂いのことだ。
昨日は何の道具かわからなかったが、母と男の様子がおかしかったことからしても、あれは――
リュノが両親に頼めば、警察は動くだろう。
虐待も、最初は見えないようにしていたが、エスカレートして顔まで傷つけるようになった。
ならばあの薬物も、リビングで堂々と使うようになった以上、管理はずさんだと考えられる。
少し探せば、二人を捕まえることができるはずだ。
だがその手段を使えば、ミティスは自分の母を犯罪者にしてしまう。
自らの身の安全を確保するためとはいえ、果たしてそんなことをしていいのだろうか。
「言ってよ、ミティス。あたしら家族みたいなもんじゃん」
「そうです。もしミティスにその気があるのなら……私、パパとママに、養子として受け入れられないか頼んでみますから!」
「養子って……私が、リュノの家の子になるってこと?」
「はい、正真正銘、本当の家族になるんです!」
それができたなら、どれだけ幸せだろうか。
しかし簡単な話ではないだろう。
たとえ、神の親族だとしても。
けれどリュノの瞳はまっすぐで、実現のためならどんな努力でもやってみせると目で語りかけていて。
できるかもしれない、と思った。
それに、何より――母も今のままでは駄目になる。
このまま堕ちて取り返しがつかなくなるまえに、精算の機会があったほうがいいのかもしれない。
ミティスは決心した。
「本当に養子になれたら素敵だね」
「ですから、私に言ってください」
「あたしも同じ気持ちだからね。リュノほどできることはないけど……」
「セレスの想いも十分伝わってるよ。わかった……じゃあ、話すね――」
彼女は二人に、自分が見たままのことを全て話した。
話せば当然、リュノは動かずにはいられない。
早速、両親に話してみると言って電話をはじめた。
◇◇◇
それから――事態は一気に動いた。
母とあの男は薬物の所持で捕らえられ、警察に連れて行かれた。
母は現場に居合わせたミティスを見て、ようやく自分のやったことに気づいたのか、その場で泣き崩れた。
ミティスの目にも涙が浮かんだ。
嫌いなところのほうが多かったが、好きなところだってあったから。
二人への裁きが進む一方で、ミティスはリュノの家――アプリクス家に居候していた。
養子の話も進む。
リュノの両親は、驚くほどあっさりとリュノの申し出を承諾し、ミティスを我が子として受け入れる準備を進めていった。
獄中の母とも手紙や面会でやり取りしながら、手続きを行う。
彼女は――
「ごめんねぇ、私にはもう母親を名乗る権利もないもんねぇ。リュノちゃんの家で幸せになってねぇ……」
そう言って、何度もミティスに謝った。
『姓が変わっても母は母だ』と伝えたかったが、どうしてもその言葉を口に出せなかった。
言おうとするたびに、薬に溺れて笑う母の顔が浮かんでしまったから。
そして数カ月後、ミティスはプルヴィアの姓を捨てた。
ミティス・アプリクスとして生まれ変わったのである。
義理とはいえ、姉妹になったミティスとリュノは、その幸せさと気恥ずかしさに胸を高鳴らせながら、新たな日々への期待を抱いていた。
ミティスは裕福な家庭での生活に戸惑いながらも、優しい両親と、最愛の家族、そして幼馴染に囲まれ、満たされた日常を過ごした。
念願の塾にも通えるようになり――正直、勉強はあまり好きではなかったが――成績もぐんぐんと上がっていく。
三年生になり、セレスが部活を引退すると、幼馴染三人で勉強をすることも増えた。
そして彼女たちは奇跡的に、三人揃って神導学園の入試に合格したのである。
ミティスもリュノもセレスも、子供のようにはしゃいで喜んだ。
周囲の人々も心からの祝福を送った。
神導学園での、新たな日々が始まる。
その道筋は確実に、破滅へ向かって進んでいた。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!