穏やかな朝だった。
身支度を終えたメアリーとフランシスが食堂に向かうと、すでにヘンリーとキャサリンが席につき待っていた。
「おはよう。メアリー、フランシス」
父が優しい声で言った。
「おはようございます」
フランシスも微笑みながらそう返す。
だがメアリーだけは、返事をせずに入り口に立ち尽くしていた。
「どうしたの、メアリー。具合でも悪いのかしら?」
キャサリンにそう尋ねられて、メアリーは再起動した。
「い、いえっ。ごめんなさい、寝起きでぼーっとしていたようです。おはようございます、お父様、お母様」
彼女は慌ててそう取り繕った。
父と母が好意的な感情をメアリーに向けている――そんな状況があまりに久しぶりで、戸惑っていたのだ。
「そういう夢を望んだのは私でしょうに……」
彼女がぼそりとつぶやくと、フランシスが不思議そうに尋ねる。
「メアリー、何か言った?」
「何でもありません、お姉様。それより私、お腹が空きました」
「ふふっ、メアリーってば、さっきまで寝ぼけてたくせに」
「言わないでくださいっ、恥ずかしいじゃないですか」
「はははっ、元気なのはいいことだ。さあ、早く席につきなさい」
「はい、お父様」
椅子に座ると、ほどなくして料理が運ばれてくる。
朝なので軽めのメニューだが――メアリーの正面の席で、キャサリンが何やらそわそわとしている。
「あの子ったら、まだ起きてこないのね」
「エドワードか。夜遅くまで魔術の鍛錬でもしてたんじゃないか」
「あなた、あの子がそんなに真面目じゃないってわかって言ってますわね? どうせ夜まで遊んでたのよ」
「私が起こしてきましょうか?」
「いいわフランシス。それなら私が――」
噂をしていると、食堂にエドワードが現れる。
彼は服もよれよれ、髪もぼさぼさでだらしない姿であった。
「ふあぁ……おはよーございまーす」
けだるげな挨拶が響く。
「フィリアス、君が起こしてくれたのか」
ヘンリーが言うと、エドワードの後ろに立つフィリアスが頭を下げた。
「昨日のお帰りが遅かったのを見かけましたのでぇ」
「フィリアスっ、わざわざチクることないだろ!?」
「まったく。そういう行動は彼女以外の近衛騎士たちにも見られてるのよ、エドワード」
「もうしわけございません、お母様」
「こらっ、しゃんとしなさい! あなた、王族になって何年経つと思ってるの!?」
「いいじゃないか。それだけ我が国が平和だということだ。私も若い頃はよく――」
「あなたも甘すぎです!」
しょんぼり肩を落とすヘンリー。
だがもうひとりの当事者であるエドワードは、まだ半分寝たような顔でぼんやりとしている。
ふと、そんな彼とメアリーの目が合った。
「んー……メアリー」
「何でしょうか、お兄様」
「何かあったのか?」
それはあまりに急な問いかけだった。
メアリーは首をかしげる。
すると、横からフランシスがフォローに入った。
「メアリーはいつも通り可愛いよ。エドワードの脳みそがまだ寝てるだけだよ」
「相変わらず姉様はメアリーが絡むと口が悪くなるな」
「私はメアリーのナイトだから」
「よく堂々とそんなことが言えるよね。メアリーも言われて恥ずかしく……ないか」
メアリーは胸に手を当て、完全に乙女な表情をしていた。
心臓はバクバクと脈打ち、脳内には“ナイト”という言葉がリフレインしている。
そんな他愛もないやり取りが終わると、朝食が始まる。
天気は晴天。
心地よい春の空気が流れている。
王国は今日も平和そのもので、昨日と変わらぬ、穏やかな一日が始まろうとしていた。
◇◇◇
「お姉様、いってらっしゃいませ」
城を出る姉を見送るメアリー。
するとフランシスは彼女に歩み寄り、その体をぎゅっと抱きしめた。
「本当は仕事なんてせずに、一日中いっしょにいたいな」
「気持ちは嬉しいですが、お仕事があるのですから仕方ありませんよ」
「帰ってきたらたくさんお話しようね」
「はいっ」
お互いの頬に順番にキスをして、フランシスは手を振りながら屋敷を出ていった。
彼女は国が運営する魔術研究機関の研究員をしている。
アルカナが無い世界でもその優秀さは健在――というより、無いからこそ魔術評価の高さが評価され、地位も向上しているようだ。
「お姉様はどんな世界でも優秀……さすがです」
改めてフランシスの素晴らしさを実感したメアリー。
そんな姉の様々な表情を見られるだけでも、この夢は彼女にとって有意義だった。
しょせんは脳内情報から生み出された想像図にすぎないが。
扉に背を向ける。
するとちょうど、エドワードがフィリアスと鉢合わせる。
「あらメアリー王女様。フランシス王女様のお見送りかしらぁ?」
「ええ、その通りです。二人もお出かけでしょうか」
「いいえ、私たちは――」
「剣の稽古だとさ。こんな時代に必要ないと思うんだけど」
エドワードはそうぼやいた。
すると、フィリアスの目がきらりと光る。
「困りますわぁ、王子様。今は平和でも、いつ戦争が起きるかわからないのですから」
「そのときは先陣を切って軍を導けって? そういうの流行らな……ぐぇっ」
「流行は関係ありませんので。さあさ、早く行きますわよぉ」
「だからって引っ張るな! くそっ、そうなんだよなぁ、こいつ外面は『王子を守る騎士です』みたいな顔をしときながら、いつも僕の意見なんて聞いてくれないんだよ」
「あら、私はいつだって従順な騎士ですけどぉ」
「白々しいなぁ! メアリー、フィリアスに僕を解放するよう命令してくれない?」
「頑張ってください、お兄様」
メアリーは満面の笑みで兄を見送った。
「姉様には優しいのに僕には辛辣……」
半ばフィリアスに引きずられるようにして、遠ざかっていくエドワード。
「少しずつ雰囲気は違いますが、フィリアスも騎士団長のままで、お兄様も次期国王と呼ばれている……いないのはオックス将軍ぐらいですか」
アルカナが無い割に、存外に影響は少ないように見えた。
元々、アルカナ使いの存在は切り札や抑止力のようなものである。
“使わないこと”に最大の意味があるのだから、変化が小さいということだろうか。
「全ては私の頭の中で生み出された夢なのに、先の展開ってわからないものですね。普通の夢も、案外そういうものですけど」
寝ている間の夢だって、制御できるものではない。
人々はこの先、どんな姿を見せてくれるのだろう。
ただ誰かがそこに歩いているだけで、慣れ親しんだ城の内装を見ているだけで――心が躍る。
あの無の世界に比べれば、何もかもが愛おしい。
◇◇◇
メアリーが城内を歩いていると、ヘンリーの自室の前を通りがかった。
その扉はわずかに開いており、わざわざ覗かずとも見える場所に、父の姿が見える。
「ふんふふーん。ふふーん、ふふーん」
彼はお気に入りの剣を磨きながら、鼻歌を歌っていた。
あまりに陽気な姿に、思わずメアリーは噴き出し笑う。
それがヘンリーにも聞こえたのか、二人の目が合った。
メアリーは扉を開いて彼に笑いかける。
「お父様、ご機嫌ですね」
「開いていたのか……私としたことが、みっともない姿を見せてしまったな」
「いえ、お父様が楽しそうだと私も楽しいですよ」
「ははっ、メアリーは優しいな」
苦笑するヘンリー。
メアリーはそんな彼の顔をじっと見つめた。
「私に用があったのか?」
「たまたま前を通りがかっただけです。次の予定まで時間があるので」
「そうか……最近、体の調子はどうだ?」
「問題ありません。お姉様の愛を受けて今日も私は健康です」
「ふ、そうだな。お前にとってはフランシスとのスキンシップが何よりの特効薬だろう」
「お父様こそどうなんですか?」
「私か? 私はいつも言っているとおりだ。王国が平和なおかげで気楽に過ごせているよ」
「そうですか……では、スラヴァー公爵も大人しいんですね」
「……なぜあの男の名前が出てくる?」
ヘンリーは怪訝そうな顔をした。
ホムンクルスが生まれているということは、少なくともワールド・デストラクション計画は動いていたということ。
それはつまり、十六年前の爆発事故の発生を意味しており――プルシェリマ家とスラヴァー家の険悪な仲は健在ということなのだろう。
「仲が悪いのでは、と思いまして」
「そうだな……だがあの男は、今や名ばかりの公爵だよ。私の暗殺を企てるなどと、ふざけた真似をするからだ」
「では、息子であるロミオ様との縁談の話も持ちかけられてはいないんですね」
「な、なぜそれを知っている!?」
急にヘンリーが大きな声を出すので、メアリーのほうが驚いてしまう。
「何となく、ありえるかな、と思っただけなのですが……あったんですか?」
「はぁ……そうか、別に情報が漏れていたわけではないのだな。確かにドゥーガンからそういった申し出はあった。和解のために互いの子供を婚約させるのはどうか、とな」
「それは断ったんですね」
「当然だ! なぜ愛娘をあんな、マジョラームがなければ何もできん没落貴族に嫁がせねばならんのだ!」
父は声を荒らげた。
よほど腹に据えかねるものがあったのだろう。
「あの一帯はスラヴァー領と呼ばれてはいるがな、実際はマジョラーム領だ。マジョラームは王国軍とも取引があるからな。だから、そちらの子供と婚姻するならともかく……いや、彼女は女性だからありえないが」
「マジョラームの子供というと、キューシーさんですよね」
「面識があるのだったな」
「……ええ、お姉様と親しい様子でしたので」
「まあ、万が一にもメアリーをスラヴァーに嫁がせることはない。そこは断言できる」
それは久しく感じていなかった父の愛というやつである。
まあ、現実ではありえないやり取りなのだが、夢でも悪い気はしない。
それにしても、どうやらこの夢の中では、スラヴァー家は落ちぶれてしまっているらしい。
こちらはアルカナの有無が大きな影響を与えたパターンのようだ。
しかし、アルカナが存在しないのに、なぜワールド・デストラクションは実行され、なぜドゥーガンはそこを爆破したのか。
矛盾は夢ゆえなのか。
はたまた、別の原因があるのか。
まだまだこの世界には、わからないことが多そうだ。
◇◇◇
その日の夕方、フランシスが研究所から戻ってきた。
帰ってきた彼女を、メアリーが真っ先に迎える。
「ただいま、メアリー!」
「おかえりなさい、お姉様っ!」
二人は感動の再会でもしたかのように、強く抱き合う。
ちなみにこのやり取りに関しては、現実世界もまったく同じである。
フランシスは超シスコンで、メアリーも超シスコン。
ゆえに抱き合うのは道理であった。
夕食を摂り、二人でじゃれあい、二人で風呂に入り、またじゃれあって、ベッドで眠る。
フランシスが帰宅してからというものの、姉妹は片時も離れることはなかった。
暗くなった部屋の中で、妹を抱き、寝息を立てるフランシス。
メアリーはそんな姉の顔を見つめている。
「そういえば、お姉様の寝顔をまじまじと観察する機会って、意外と無かったですね」
一緒に寝て、フランシスのほうが先に起きるから。
メアリーの寝顔が観察されることはあっても、逆はなかなか無いのだ。
「カラリアさんも、キューシーさんも、アミも、私のいない場所で、私なんかに関わらず幸せに生きている。それが一番の幸せです。だから私は――」
メアリーの指先が、フランシスの頬を撫でる。
「お姉様の顔を見ているだけで幸せ。色んな表情を見せてくださいね。見慣れた顔も、見たことのない顔も……たくさん、たくさん」
言葉通り、メアリーは姉の顔を見つめ続けた。
夜が明けるまで。
次の日も、昨日と同じような一日が過ぎていって、姉妹は同じベッドに潜る。
そしてメアリーはフランシスの顔を見つめ続けた。
泡沫のように儚い夢だと知りながら、その幸福に身を沈めて。
その次の日も。
次の日も。
次の日も。
メアリーは眠らずに、愛しい姉の姿を記憶に刻み続けた。
だってここは夢の中。
死んでもどうせ目が覚めるだけ。
あの虚無に戻ったのなら、また眠ればいい。
そしてまた見つめればいい。
すべてがリセットされた夢の中で。
大丈夫、どんな世界でもフランシスはメアリーを愛してくれるから。
いや、いっそ憎む世界があってもいい。
色とりどりの万華鏡をみるように、あらゆる角度で貴女を見てみたい。
笑顔も、泣き顔も、苦しむ顔も、乱れる顔も、痛がる顔も。
汗も、血も、涙も、肉も、つま先から髪まで。脳から心臓まで。
どうせ夢が現実を越えることはないのだから。
「私が夢に飽きるその日まで、愛しあいましょう……」
それぐらいのわがまま、叶えたっていいはずだ。
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