『今、マジョラームの全権限を別の幹部に渡したよ』
ノーテッドは落ち着いた様子で、そう告げた。
「え? お父様、それは一体……」
突然のことに、キューシーは戸惑いを隠せない。
『ごめんね、キューシー。このまま僕がしばらく社長を続けて、次期社長としてキューシーを指名する予定だったんだけど……たぶん、それは難しいと思う。いや、キューシーなら実力で奪い取れるかな』
「何を言ってるのよ、お父様!」
『僕は『世界』に操られてるんだろう? そんな人間が、社長なんて続けていいはずがないじゃないか。それにね、キャプティスを簡単に壊滅されるほどの敵とやりあってるんだ。何かあったとき、すぐに会社の中枢機能を移せるようにはしていたんだ』
「じゃ、じゃあ……今のお父様は……正気、なの?」
一筋の希望が繋がる。
それは少しの力で簡単に切れてしまう、あまりに儚いものだ。
だがそれでも、今の彼女にとっては大きな救いで――ほろりと、頬を涙が伝った。
『わからない。あるいは今の僕も、正気に見せかけただけの偽物かもしれないから。幹部に社長を渡したのだって、操られた結果の行動かもしれない』
「やめてっ! そんなこと言わないでよお父様ぁ!」
『僕自身、どうしてこうなったのかわからないんだ。本当に……はは、気をつけてたつもりなんだけどなぁ』
「も、もしかしたら……わたくしたちの、勘違いかもしれないわ……」
『あはは、キューシー……無理があるよ、それは』
「でもっ! ほら、だって、通信相手なんて偽装できるもの! きっと別の人間がピューパに送ったのよ!」
『相手は“僕”だったんだろう? なら、偽装が難しいことはキューシーだってわかってるんじゃないかな』
王国で最高峰の技術力を誇るマジョラーム・テクノロジー。
その技術の粋を結集して、強固なセキュリティを敷いたのがその社長室。
そこから送信されるメッセージを偽装するということは、マジョラームの最先端技術を上回ることに等しい。
たとえユーリィのいた研究所がピューパにとっての最先端だったとしても、彼らの技術力でそれは難しいだろう。
「なら……えっと、ほら、その……っ」
『キューシー』
「やめて……お願い、やめてっ! そんな優しい声で呼ばないでぇっ!」
『愛しているよ』
「やめてぇぇぇぇええっ!」
甲高い叫び声を響かせるキューシー。
それでも、端末を耳から離すことはできなかった。
もう聞きたくない。
最後まで聞いていたい。
相反する二つの感情が、彼女を苦しめる。
『僕は君を引き取ったあの日から、本当に、誰よりも大切な家族として接してきた』
「お父様……終わりなんてないわ。わたくしたち、家族だもの」
『十八年間、父親としては不出来だったかもしれない。だけど、僕なりに必死にやってきて――キューシーがこんなに立派に育ってくれたことを、誇りに思うよ』
「戦いが終わったら、わたくし、そっちに戻るから。娘が帰ってきたら、おかえりって迎えるのが家族よね!? ねえ!」
『今日までありがとう』
「やめてよぉぉおぉ……そんなのっ、そんなのってないっ! お父様はぁ……わたくしのお父様でぇっ、だから、だからっ、また顔を見て……抱きしめて……! ねえ、ねえ、お願いよぉ。お願い、お願い、お願いぃっ!」
『キューシー、メアリー王女に変わってくれないかな』
「やだぁああっ!」
『変わってくれ』
「嫌なの! だって変わったら、もう二度と話せなくなるからぁ!」
駄々をこねるようにキューシーは叫ぶ。
それが別れの言葉であることは、冷静さを失った彼女にだってわかる。
「お父様……わたくし、お父様のことが大好きなの。ただの平民だったわたくしを拾ってくれてっ、こんなに大切に育ててくれてぇっ! だから、だから、まだ……まだ何も、恩返しできてないの……早すぎるよぉ……!」
無論、ノーテッドとて死にたいわけじゃない。
だが、このまま生きていても迷惑をかけ続けるだけだ。
そして何より、生きられない理由が、彼の左手にはある。
どうしてもメアリーに端末を渡そうとしないキューシーに、彼は諭すように言った。
『頼むよキューシー。わがままかもしれないけど、僕は、いい父親でいたいんだ。最後に呪いみたいな言葉を残して、君を苦しめたくない』
「……やだ。やだぁ。いいから、悪い父親でもいいからぁ! 辛くてもいいからぁ!」
『キューシー、これは父親として最後のお願いなんだ! 頼むよ』
「お父様……う、ううぅ……うううぅぅぅうううっ……!」
キューシーはうなりながら端末を強く握りしめる。
これを離せば、もう二度と父親の声を聞くことができなくなる。
それを、キューシーの意思でやれだなんて――ああ、なんて残酷な“お願い”だろう。
だが最後と言われて、それに応えないなんて、彼女にできるはずがない。
腕を震わせながら、キューシーはゆっくりと、端末をメアリーに手渡した。
メアリーは困惑しながらも、キューシーから携帯端末を受け取る。
そして彼女の体温が残るそれを、自らの耳に当てた。
「もしもし……ノーテッドさんですか?」
『メアリー王女、よかった。君たちには申し訳ないことしてしまったね』
「いえ。それ以上にお世話になりましたから」
『少しでも役に立てたのなら嬉しいよ。でも残念ながらここまでだ』
「誰かがそこにいるんですか?」
『いや……僕の左手は今、銃を握っていてね。“いつの間にか”ってやつなんだけど――気づいたところで、自分の手だっていうのに言うことを聞かないんだ』
「ノーテッドさん……」
『少しずつ手は持ち上がって、僕のこめかみに当てられるだろう。バレた以上、『世界』にとっても用無しってことか。いや、それとも最初からそうするつもりだったのか』
「……私に伝えたいことがあるんですよね」
『最後に絞り出した悪あがきみたいなものさ。これでも魔術に関わる研究をしてきた人間だ。だから、注意はしてたつもりなんだよ。できるだけ接する相手も減らしたし、できるだけ触れないようにもしていた。毎日、自分の体のデータだって取っていた』
「何かわかりましたか?」
『わからない。形跡が見当たらない』
だがそれは同時に、“見当たらない”という事実でもある。
『“見ていない”、“聞いていない”、“触れていない”。『世界』による支配の成立は、これらの行動を必要としないのだろう』
散々、メアリーたちも疑問に思ってきた。
支配の条件は何なのか。
他のアルカナたちの能力が、強力であればあるほど制約が強まるように、本来『世界』ほど強力な支配能力を持つのなら、強烈な制約がなければおかしい。
しかし――結局のところ、その前提に囚われているからこそ、いつまでもわからないのではないか。
ノーテッドの言うように、あらゆる接触を必要とせずに能力を発動させられるのなら。
強烈な制約なんて存在しないのだとしたら。
「何かをされて支配されるのではなく、何かをした人間が支配される……?」
『かも、しれないね。気づかないうちに、条件を満たしているんだ。僕も含めて』
そう言うと、ノーテッドは間を置いた。
そして苦しげに――だがそれを悟られないよう取り繕いながら、告げる。
『すまない、そろそろ時間みたいだ』
カタカタと震える音が聞こえた。
どれだけ理性で押し込めようとも、人は死の恐怖を前に、全てを抑え込むことなどできないのだ。
『キューシーを、よろしく頼むよ』
銃声が響く。
床に叩きつけられる端末。
少量の液体が飛び散る。
最後に、どさりと床に人が倒れる音がして、それきり反応は無くなった。
メアリーは俯く。
瞼を閉じると、溜まっていた涙が雫になってこぼれた。
彼女のその反応を見て、キューシーは血走った目を見開くと、飛びかかるようにその手に握られた端末を奪い取る。
「お父様、ねえ返事をして、お父様! お父様、お父様、お父様、お父様あぁぁぁああっ!」
悪質なイタズラなら、それでもいい。
こっぴどく叱った後で、今すぐキャプティスまですっ飛んでいって抱きついてやるだけだ。
だが誰も何も答えてくれない。
涙を流したまま立ち尽くすメアリーと、何度も親の名前を呼ぶキューシーと、そんな彼女を悲痛な表情で見守るアミとカラリア。
それだけだ。
それ以外、生きた人間は、その声が届く範囲にもういない。
「あ……ああぁぁあ……うああぁぁぁあああ……っ!」
カラン、とキューシーの手から端末がこぼれ落ちた。
彼女はそのまま膝をついて、崩れ落ちる。
「ああああっぁああっ! おと……さま……っ! お父様ああぁぁああっ! ああっ、あああぁああああっ! うわあぁぁぁぁあああああああっ!」
そして彼女は子供のように泣き叫んだ。
メアリーたちにできることは、寄り添うことだけだった。
慰める方法が思いつかないのではない。
今は胸に湧き上がる悲しみを吐き出すしかないのだ。
みんなそれを知っている。
メアリーも、カラリアも、アミも――同じ痛みを味わった経験があるからこそ。
(そうなったのは偶然なのでしょうか。それとも――)
――お前も同じ苦しみを味わえ。
そんな憎しみを、誰かから向けられているからなのだろうか。
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