『死』を描く

人それぞれで良いんです
野菜ばたけ
野菜ばたけ

case.6 望む

公開日時: 2021年1月2日(土) 03:35
文字数:800



 もう、疲れたのだ。

 罵られる事も、嘲笑われる事も、足蹴にされる事も。



 ずっと耐えてきたのだ。

 その感情は、決して持ってはいけないのだと。

 命とは大切にすべきことで、簡単にソレを選んではいけないのだと。

 

 しかし、ふと思ってしまったのだ。


「私がソレに耐える事に、一体何の意味があるんだろう」


 人は言う。

 人生捨てたもんじゃないさ、と。

 苦しい分だけ楽しい事もある、と。

 

 しかしそれは、ただの綺麗事でしかない。

 そう、綺麗なのだ。

 汚れた事が無い人が、今まさに泥だらけの人に向かって言っているかの様な、そんな言葉に聞こえるのだ。


 つまり、「知らない癖に」である。



 そう、自死を非難する人は知らないのだ。

 生きる事が、その人にとってどれだけ辛いのかを。

 

 「似たような過去談がある」といって『死』を否定する人もそうだ。

 程度は容易に測れない。

 同じ行為をされていてもそれによって受けるダメージは千差万別だ。


 結局は、個々人の感覚の問題なのだ。

 どれだけ苦しくてしんどいかなんて、外から与えられた行為だけではどうしたって測れない。


 私は、自分の苦痛を誰かに分かって欲しいんじゃない。

 そんな事は、とうの昔に諦めてしまったのだ。


 私の願いは、ただ解放される事だ。

 その苦痛から。


 そのための手段が『死』であるだけで、別にそれ以上でも以下でもない。

 未来に希望を見出せない。

 それだけの話なのだ。


「あぁ、しんどい」


 もう、考えるのも、頑張るのも。


 一瞬の痛みよりも、いつまで続くか分からない苦痛の方が私には耐えられない。


 他人なんて、いじめてきたり遠巻きに眺めてみたり、見て見ぬ振りをしたりはする癖に、誰1人として私を殺してくれはしない。

 ならば、私がするしかないじゃないか。


「自分で、自分を殺す」


 それが自殺という名前だろうが、何だろうが、私にとってはもうどうでもいい。

 これから『死』を迎える、私には。



 こうして、私は自らに選択を下す。

 心の端っこの方で、誰かの助けを求めながら。



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