蜘蛛を愛する観る将JK 将棋の聖地に行ったらなぜか喫茶店で探偵見習いになる

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第5話 千駄ヶ谷の昼下がり 2

公開日時: 2022年9月12日(月) 16:47
文字数:2,324

 日曜日ということもあり公式戦の対局は行われていない。けれど、二階の道場は開いていることもあり、子ども達や付き添いの親そして将棋愛好家の大人たちが正面玄関を行き来していた。


 そんな人たちをよそに、彼女は何度もインターネットや本で見た『将棋会館』を目の前にし、彼女は入るべきかどうか悩みに悩んだ。憧れの亀井晴也が免状を書きに来る場所。そして対局をして戦っている場所。


 その度に、彼がこの自動ドアを通っていることを考えると、どうしても緊張して通れなかった。それなのに、人々は気にもせずに通過していく。羨ましい気持ちとなぜという気持ちが交差した。


(もういい。ここまで来たのだから入るしかない!)


 意を決した藍は胸の鼓動が高まる中、目をつぶって自動ドアをくぐった。通り過ぎ、そっと目を開き顔を左に向けると夢にまで見た『売店』がそこにあった。


 日曜日ということもあり、売店は将棋ファンが何人かいた。詰将棋を手に取っている親子連れ、ショーケースに入った駒を見ながら溜め息をついているおじさん。一角だけ、女性が集まる場所があった。


 察した彼女は、そっと忍び歩きをしながらその場所に近づいてみた。


「アクリルスたンド、ラスト一個。ギリギリセーフ!」

「超ラッキーだね!」


 女性ファンがアクリルスタンドを手に取ると、空っぽの棚が目に飛び込んできた。


(う、うそでしょう!)


 そそくさと店員さんがその場所に『次回入荷は未定』という残酷なお知らを貼る。藍はその様子を呆然としながら眺めるしかなかった。


 目当てのものが、数分の差、いや一分の差だった。もう少し早く着いていれば亀井四冠のアクリルスタンドは藍のものになっていたという事実に、彼女は絶望した。


 神社に立ち寄らずにまっすぐ会館に来ればよかったのか。いや、そもそも『二歩』に立ち寄らなければ確実に手に入っていた。


(味噌ラーメンの誘惑に負けた自分が悪いのか……)


 花より団子の自分を呪いつつ、藍は思い切って女性定員に声をかけてみた。


「すみません、亀井先生のアクリルスタンドは当分入ってこないのでしょうか」

「そうですね。今回も週末に合わせて準備したのですが。申し訳ございません」

「いえいえ。平日の方が狙い目なのでしょうか」

「何とも言えませんが、平日に商品が並んでいる時は一日で完売することはほとんどありません」

「分かりました。ご丁寧にありがとうございます」


 藍は定員さんに軽くお辞儀をし心の中でガッツポーズした。


(次は必ず店に寄る前に将棋会館に寄ろう。そして、平日なら運がよければ……)


 平日、部活のない日は家とは真逆の方向で千駄ヶ谷に来てここに来る。平日なら、もしかしたら亀井先生に会えるかもしれない。そんなことを妄想すると、さっきまで絶望の淵にいた藍はお花畑にいる気分になれた。


(アクリルスタンドは残念だけど、第二希望の扇子は残っているかな?)


壁側のショーケースの中で一つ一つ開いた状態で飾られている扇子を確認していくと、お目当ての扇子を発見した。


『刻石流水』


(こくせきりゅうすい。どんなに小さくても受けた恩は心の石に刻み、与えた恩義は水に流すように忘れる)


 一目で亀井晴也の書体と分かるほど、独特の癖字で書かれた四文字。


 二十歳の若者が選ぶとは思えない言葉。ショーケースのガラス一枚を隔てて向き合う藍は本人を目の前にしたかのように、恥ずかしさで扇子を直視できないでいた。


 (お金に余裕はある。そう、買おう。買うしかないのよ)


「す、すみません……。こちらの亀井四冠の扇子を一つお願いします」

「はいはい~」


 無事に会計を済ませ、扇子を受け取とる本来の目的の半分を達成した藍の心も少し晴れた。


 ひょんなことから千駄ヶ谷に通うことになったのだから、アクリルスタンドも遅かれ早かれ手に入るはず。そう自分に言い聞かせて将棋ファンの聖地を立ち去ろうとした。


 ちょうど、アクリルスダンドを購入した女性ファン達も会館を出るところだった。


(鳩森神社に立ち寄るのか、それとも駅に直行するのかしら)


 そんなことを想像しながら彼女たちを追い越そうとした時、ある言葉が藍の耳に飛び込んできた。


「ねぇ、晴君がよく頼んでいる将棋めしのお店に寄ってみない?」

「行きたい!今の時間なら混んでいないよね」


(将棋めし! そうか、そういう楽しみ方もある!)


 将棋会館での対局がある時、棋士は複数のお店からメニューから朝食や夕食を選んでいる。誰が何を頼んだのかは将棋ファンの間でも注目の的になっていた。


 タイトル戦では各地の歴史ある旅館やホテルそして寺社仏閣で行われるため、おやつを含めご当地の『将棋めし』は高い注目を集めている。


 とくに将棋界の顔でもある亀井四冠が食べたスイーツを求めて、提供したお店にお客さんが殺到することも度々ネットニュースでも取り上げられていた。


 貧乏女子高生にとって、『将棋めしのお店に行く』ことは敷居が高いイベントだった。楽し気な二人の後姿を見送り、トボトボと駅方面に歩きだした。その様子を見ながら、藍は呟かずにはいられなかった。


「マスターのお店は喫茶店だから配達していないものね・・・」


 偶然入店した千駄ヶ谷界隈の喫茶店は食事を提供しているお店ではなかった。


 もし、将棋めしのお店だったら、もし亀井先生のお気に入りのお店だったら知り合えるチャンスもあったのではないか。そんなことを考えると、マスターや内藤さんには悪いが、藍は少しがっかりした。


(亀井先生が好んで頼んでいる将棋めしに行くとなると、中華屋さんのユウキ亭、和食の藤なみ、やっぱりフレンチのソフィなんとかかな?)


 味噌ラーメンの味は忘れられないが、憧れの棋士が対局時に食べているご飯をいつか必ず食べる、と誓い千駄ヶ谷の街を後にした。

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