「『御殿』でのあたしは……そう、人形と同じでした。先見の能力者として、夢で未来を予見することだけを課せられた、自動人形のようなもの。
誰もあたしのこと名前で呼んでくれなくて。必要がなければ声をかけてもくれない。
そういう場所にいると、自分が分からなくなっちゃう、から……。
これ以上は耐えられないんです。だから抜け出したんです。もう戻るつもりもありません」
夢見姫という人形のままでいては、自分という存在の形が作れない。
独白めいて絞り出された言葉には確かに苦しみが滲み出ていた。
邪魔をしないでと、その眼差しが如実に物語っている。
(気紛れのお遊びじゃない、ということか)
セレシアスは思わず固唾をのんだ。
現在と未来を行き来する夢見姫はその能力ゆえに《クリスタロス》の象徴とされている。
いわば組織の旗頭だ。素顔こそ知らずとも彼女の存在は所員一同の知るところであり、《クリスタロス》の夢見姫といえば今や公都の一般民にも認知され始めていた。
そんな重要人物を、やり手揃いの長老会が見逃してくれるはずがない。
しかし、ただ未来を観るだけの日々を──《クリスタロス》の絡繰り人形であることを、彼女は否定した。
組織の庇護の下、俗世から隔離された『御殿』で酔生夢死の一生を送ることを拒んだのだ。
自身の過去、それまでの己の在りようを省みて、生き方を変えるべく行動を起こすなど、そう簡単にできることではない。
たとえそれが現状から逃げ出したい一心だったとしてもだ。
(まして夢見姫は深窓の令嬢。今までずっと『御殿』で過ごしてきたはずだ。それを……棄てる?)
セレシアスは少女の覚悟の深さに愕然とした。
何ひとつ返す言葉が出てこない。真剣に決断を下した相手に対してどう説得すべきなのだろう。語る言葉など持ち合わせていなかった。
「と、いうわけで。申し訳ありませんけど、戻りませんのでどうぞお引き取りください」
セレシアスの戸惑いをよそに、少女は底抜けにきっぱりと断言する。
垣間見えた苦悩は拭ったように消えていた。むしろ清々しげなその笑顔に目眩を覚えつつ、セレシアスはとりあえず反論を試みる。
「いや。そのう。ハイそうですか、ってわけにはいかないのですが」
「むう。なかなかに頑固……。あなた融通が利かないって言われたことありません?」
「うっ」
思わずうめいてしまった。
「あ、でも大丈夫! 意識して努力を続ければきっと成果は出ます。うん。お互いがんばりましょうね」
それじゃ、と言って去りかける夢見姫の肩をとっさに掴み、
「いやいやお待ちください、俺のことはどうでもいいんです」
「え~、どうでもいいんですか? 柔軟な思考と迅速な行動が事態の好転に繋がるんですよ? 先月の新事誌に書いてありました。大事なことです」
「いや、あの、そうではなくて」
「思い切って視点を変えてみたら、それまで気づかなかったことも見えてくるかもしれませんよ?」
「だからその」
「連載の囲み記事〈日々流転〉、読んでないですか? 面白いこと色々書いてありますよ」
「……」
違う。明らかに論点が違う。
(『御殿』から抜け出した夢見姫を連れ戻しに来たのに、なんで諭されてるんだろう俺……)
いよいよ本格的になってきた目眩を我慢しながら、セレシアスは気力を振り絞って口を開く。ひょっとしたら今自分は根比べをしているのだろうか。
「あー……その、俺のことも新事誌の記事もさて置いて、ですね。貴女は《クリスタロス》の象徴である夢見姫でしょう。ですから、やはり『御殿』に戻っていただきませんと」
「嫌です無理です戻りません」
にべもなく言い放ってから、少女はふと改めてセレシアスの瞳をまじまじと眺め、
「あれ。貴方、異能者? ううん、違う……あっ、もしかして混血?」
夢見姫はぽつりと呟いただけだったが、セレシアスは思わず内心身構えた。
「ええ、そうです」
「ふうん、そっか。えー。にしても綺麗な目の色ですねぇ。薄紅色というか、桜色というか。なんだか砂糖菓子みたい」
予想に反し、少女はちっとも臆することなく言葉を返してくる。
自分を連れ戻しに来たのが混血者だと知れば、さすがの彼女も怖れを感じるだろう。それで大人しく戻る気になってくれれば任務完了だ──などと考えながら出自を明かしたセレシアスは、半ば拍子抜けした。
(俺を、混血を嫌忌しない?)
夢見姫の示した反応は、かつてない種類のものだった。
畏怖されるか、あるいは蔑まれるか、どちらにせよ拒絶されるのが基本だというのに。
砂糖菓子のようだと言って正面から目を見つめられるなど、初めてのことだった。
「……よく分かりましたね。俺が混血だと」
「ん。なんとなく」
混血者の外見的特徴たる尖った耳は、今も頭巾の下に隠れたままだ。
目には見えないものを感知する力に優れているのだろうか。勘が鋭いのかもしれない。なるほど上層部が象徴として据えたのも分かる気がする。
セレシアスが一人で納得したところへ、お仕着せ姿をした御者の大声が響く。
「おーい、お客さん、乗るんでしたらお早く」
「あ、今行きますー!」
「ちょっと待っ」
夢見姫は手を振り、威勢良く踵を返した。そのまま馬車乗り場へ向かう彼女の後に、いきがかり上セレシアスが続く。
出し抜けに少女が振り返った。
「そういえば、まだ訊いてませんよね」
とっさに意味を掴めず、彼女の背から差し込んでくる朝陽の眩しさにセレシアスは目を細めた。
柔らかそうな髪が風に翻り、金色に輝く。
逆光で表情は見えない。けれどなぜだろう、透明に微笑んでいるような気がした。
「あたしはアリア。──あなたは?」
まばゆい朝の光、その奔流の只中。
こうしてセレシアスは、久しく問われることのなかった自分の名前を告げたのだった。
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