一説によると、恋愛感情は脳のバグである。
人間の場合、子孫を繁栄するうえで「恋愛感情」がある方が孤立的だったため、我々はこういった進化をした。長い時をかけて愛情を必要とする生物となった人間だが、単純に子孫を残すためならば恋愛感情は不要である。故に「恋愛感情」と「性欲」は同一ではない。
蜂の雄は男性器しか無く、使い終わったら捨てられる。生物にとって愛がバグに過ぎないことを証明しているように思える。
『それは、恋だよ』
「————」
芭海はケータイを耳にあてたまま、固まった。父の話す声が、次々と頭に流れてきた。
『それは恋愛という種類の愛情だ。僕のとは違うけど、立派な愛情だよ。食糧としてではなく人として見て、大事に想っているんだ。それはきっと、芭海に芽生えた愛だよ』
「…………」
ぽつりと、芭海はようやく一言だけ口にできた。
「恋……?」
『そうだ。その子は今どこにいる?』
「作業台の上……」
『芭海は?』
「お父さんの書斎」
『そうか。……芭海、僕が君から離れた理由はね、君を愛しているからなんだ』
父は芭海に語りかけていたが、まるで別の人と話しているのを傍らで聞いているみたいだった。芭海は父の声を反芻しながらも、頭の一部では思考が停止していた。呆然と話を聞いていた。
『どれだけ愛したところで僕らはカニバリストだ。いつ、間違いで君を作業台の上に載せてしまうかわからない。人の感情はいつ複雑に変わり、壊れるかわからない。僕はそれが怖かった。君を喪うのが怖かったんだ。だから失敗する前に離れることにした。君はもう一人前だから、一人でもやっていけると信じている』父は咳払いした。『いや、違うな……僕らは、独りでいないといけない』
父が言っていたことの意味が、ようやく理解できた。
芭海や父にとって、食糧とそれ以外の人間との境界はあやふやだ。今は手にかけられなくても、いつ一線を越えてしまってもおかしくない。
父は芭海を殺したくなかったのだ。もしそうなれば絶対に後悔するとわかっていた。だから父は芭海に手出しをできないよう、自分を律するために物理的な距離を空けた。
愛していたから。
「……そん、な……」
芭海の声は震えていた。俄かには信じ難かった。
ついさっき、会ったばかりなのに。
話したこともない。
目を合わせたことも。
名前も知らない。
あの子のことなんて、なんにも知らない。
なのに、これが恋?
『いつか芭海も見つけるとは思っていたが……こんなに早いとは思わなかった。なんとなく、芭海は女性が好きそうだとは思っていたけれどね』
納得がいかない。わけわかんない。
でも、あの子を見ると胸が高鳴るし、凄いドキドキするし、食べたいと思わない。もしあの子の首を、あのまま切り裂いていたら? と想像しただけで、胸が張り裂けそうになった。
一度自覚すると、温かいじんわりとした感情が次から次へと胸の奥に湧き上がった。顔が紅潮し、耳まで熱くなり、下腹部の辺りがほんのり疼いた。
(嘘だ……だって……こんなの……)
父の静かな声がした。真剣な時にしか出さないトーンの落ちた声に、頭がぐちゃぐちゃになっていた芭海は我に返った。
『いいかい、芭海』
「……お父さん?」
肉の切り方を教えてくれた子供の頃のように、慎重に言い聞かせるような声色で、父はこう言った。
『その子とは離れるんだ。傍にいてはいけない。きっと後悔することになる』
自らに戒めるように彼は告げた。
『僕らは、孤独でいなくてはならない。真に人を愛することは、できないんだよ』
父との電話を切った後、芭海は解体部屋に戻った。
あの子はまだ寝ていた。芭海は少女の顔をじっと見つめ、恐る恐る手を伸ばし頬を撫でた。何かいい夢でも見ているのか、少女の顔が綻んだ。
「……は」
ぽろっと、芭海の頬を何かが伝い落ちた。
芭海は泣いていた。
決壊すると、涙は溢れて止まらなかった。しゃくり上げそうになり、芭海は口を手で押さえた。さっきの怒鳴り声よりも大きな声で泣いてしまいそうだったから、必死に両手で口を覆った。声を上げて泣いたら、彼女が起きてしまう。
「……うっ……ひっ……うぁぁ……っ……!」
そんなわけないって思った。お父さんが適当なこと言ってるだけだって。
でも、この子をもう一度見た時にわかってしまった。
彼女を傷つけたくない。
殺したくない。
食べたくない。
食べるよりも、こうして傍にいたい。お腹が空かない。
恋だ。
これは、芭海の恋だ。
「ううっ……ぁぁ……あぁぁ……あぁぁ~~……っ!」
芭海は作業台の前にしゃがみ込み、声を殺して耐えた。肩が激しく上下して震えた。こんなに泣いたのは、初めてだった。
こんなに嬉しいのに、悲しくて、胸が熱くて、張り裂けそうなほど辛くて、激しい鼓動が苦しかった。
色んな感情が、たぶん、人が持つほとんど全部の感情が、芭海の心を滅茶苦茶に搔き乱していた。
嗚咽しながら、芭海は泣いた。
なんで泣いているのか、芭海にはわかった。
恋をしたことが嬉しかった。
学校の友達はいつもコイバナとかを楽しんでいて、芭海はそれに共感したことがなかった。全部食糧にしか見えていなかったから。これが恋なんだと、恋がこんなに温かい感情だったのだと知れたことが、嬉しくて仕方なかった。
同時に、悲しかった。辛い現実を受け止めなくてはならなかった。
芭海は、この子と一緒にいることはできない。父の言う通り、離れなくてはならない。
恋をしているから。彼女が大事だから。だから、傍にいてはいけない。
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