首の無い人々の服には名札が付けられていた。『Mina』という名札が付けられた人物は幼い女の子で、背後で寝ているミナと同じくらいの背丈だった。他の名札には、この孤児院に住む子供やシスターの名前が書かれていた。
さらに、どうやら磔にされているのはキリストではないらしかった。磔にされた男の腹は『My father』という文字の形に斬りつけられていた。十字架の足下で槍を持っている女には『My mather』の名札が付いていた。
ランは『Rokeron』の名札が付けられた男児の隣に、新たに『Chihaya』と『Oulun』と『Kyuco』の名札を付けた首の無い少女たちを描いていた。
ランは首の無い人間たちを凝視しながら鉛筆を走らせた。その顔に笑みはなかった。何も感情を映さない顔、あるいはそれが彼女の本来の表情なのかもしれなかった。キュウコに似た服装の首の無い少女を描き終えたところで、ランは鉛筆を置いた。
「ねえ、ランお姉ちゃん」
ベッドからミナが話しかけてきた。ランは無表情のまま普段の優しい声で応えた。
「どうしましたか、ミナちゃん」
「お勉強たいへん?」
「いいえ」
ランはページをめくった。ノートの別のページには、また違う絵が描かれていた。水遊びをする子供とそれを見守る大人。しかし全員が既に斬首されていた。
他のページにはまた別の絵。別の絵。その全ての人間の首が斬り落とされている。ランが描いた絵のなかに、顔のある人間は一人たりとも存在しなかった。
「ちゃんと毎日お勉強していれば、大変ではありませんよ」
描かれている人物はまちまちだったが、必ず絵の中心に『My father』と『My mother』の名札がある男女がいた。その二人の首の断面は、どのページでも非常に精密に描いてあった。
閉じたノートを机の中にしまった。他の学習用ノートに紛れさせる。そうすれば誰も見ることはない。
手洗いに行くと嘘を言って鉛筆のカスを洗い流し、部屋に戻るとランは机の電気を消した。ランはいつもの微笑を浮かべていた。
「今、そっちに行きますからね」
ミナの隣に寝て、お腹を優しく撫でてあげた。ランがすぐ傍にいる気配に安心すると、ミナはすやすやと寝息を立て始めた。寝静まるまで暗闇の中でほほ笑み、ランはミナを見つめていた。
「…………」
眠るミナの首筋を指でなぞる。頭のなかに、さっきまで描いていた絵を思い浮かべた。徐々にランの顔から笑みが消えていった。
添い寝しながら、ランは暗い天井を眺めた。ノートのあのページはもう描き終わった。明日から新しいページに描き始めよう。どんな構図で描くかを考えてから、ランは眠った。
夢を見た。
ランはいつも決まって同じ夢を見る。
小さい頃の記憶を再上映する夢だ。
家族旅行をしていた。父が車を運転し、助手席に母がいて、ランは後部座席で横になり寝ていた。
大きな音にびっくりして、ランは目を覚ました。起き上がると、やけに風通しがよかった。ついでに外の見晴らしもよくなっていた。
車の天井が無くなっていて、空が見上げられた。車は停まり、外に大型トラックが横転していた。
「お父さん、お母さん?」
両親はともに首から上が綺麗に無くなっていた。鮮やかな断面だった。イギリス人の母は背が高く、父と同じくらいだった。だから二人は同じ場所から首を失っていた。ついでにシートの背ももげていた。
それがランが覚えている一番古い記憶だった。それまでの記憶は、今まで思い出せたことがない。
車はどこに向かっていたのか、それまで何をしていたのか、どんな風に過ごしていたのか、どんな家に住んでいたのか、父と母はどんな顔をしていたのか、ランは何一つ覚えていない。
果たして事故に遭う前から、首を失くした父と母を目にする前からランは空っぽだったのだろうか。それさえも思い出せない。
ランは記憶を探るかのように、毎日事故の景色に似た絵を描いていた。どれも近いようで遠い。覚えている景色は少なくて、再現ができない。近い気がした絵を描いても、キリストの磔を模した絵のように全く違う景色の絵と大差なく目に映ってしまう。まだ事故の景色を完璧に思い出すことはできていない。
もし、事故の現場の明確に思い出したならば、ランはその前の記憶も蘇える気がしていた。夢は目が覚めてから両親の死体を見つけるまでのほんの数秒間を何度も繰り返していて、それ以上のものを視界に入れることはできなかった。
ランは祈る。神様どうか、わたしに過去の記憶を返してください。
きっと本来の自分を取り戻した時、ランは初めて感情を得るだろう。正確に言うならば、心を取り戻すはずだ。
本当の自分に戻ったランは悲しみを知るだろう。そしてその悲しみに耐え切れず息を引き取るはずだった。ランはそれでも構わなかった。
命を落とすその時、ランは両親の顔を思い出せるはずだった。ならば死んでも構わない。遺された写真に映る両親の顔を見ても、ランはそれが両親だとはわからないのだった。だからなんとしても思い出したかった。
ランが幼少期に事故に遭った道路は、今は存在しない。現場に赴いて記憶を想起させることは叶わなかった。
先代のハートフル戦士とダークゴットズの戦禍が、現場の道路ごとランと両親が乗っていた車やトラックを巻き込んでいた。その真実を知る者は誰も生きていなかった。ランが知る術は存在しなかった。
♢
ダークアンダーワールド
濃く黒い霧に覆われた視界不良の闇の世界。空に太陽が昇ることはなく、眼下では黒い海が荒れ狂う。嵐のように暴れる海が、草木のない荒地の崖を削る。
雷が嘶き、黒く冷たい雨が絶え間なく降り注ぐ。雷光だけが時折この暗い世界を照らした。1メートル先を覗くことすら難しいどす黒い闇の中で、赤い光が二つ輝いた。
『ダークグラビティは消滅したようだな』
恐ろしく低い、井戸の下から反響するような声が響く。
黒い霧の奥に、紫色の光が灯った。それはぎょろりと眼球のように蠢いていた。別のおどろおどろしい声が言った。
『新たなハートフル戦士が誕生したに違いないのう』
『ハートフルランドの虫けらどもめ……懲りずにまた人間を戦士としたか』
『ダークグラビティを墜とすとはのう……まだそれほどの戦士が奴ら側にいたか。しぶとい奴らだわい』
新たな緑色の目が現れる。他の二者より微かに高いが、やはり悪魔のような恐ろしい声をしていた。
『またハートフル戦士が現れようとも同じこと。以前の者たちと同じように地獄を見せてやればいいのだ』
赤い双眸が点滅した。『然り。して、ダークエンペラー様に献上するダークエナジーはまだ足りておらぬ』
『人の世界で一週間が経過した。また扉を開くことができるぞい』
紫の目の言葉に、赤い目が答える。
『うむ。では次は貴様に任せるとしよう』
黒い海の激流に晒される岩の上に、黒い鎧姿の人影が立っていた。それの兜の奥と胸の中には、青い炎が燃え盛っていた。
ダークゴットズ幹部の赤い瞳が、雷の如くカッと光った。
『ゆくのだダークアクアよ。人間に絶望を味わわせ、ダークエナジーを集めるのだ』
紫と緑の双眸も同様に発光した。声を揃えて彼らは言った。
『ハートフル戦士が現れたならば、絶望を与えて殺せ』
青い炎を灯した黒い鎧の騎士は、胸に手を当てダークゴットズにこうべを垂れた。
『仰セノママニ。コノダークアクアメニオ任セクダサイ』
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