苦しそうに顔を歪め、芭海は作業部屋を飛び出した。書斎に行き、机にしまってあるケータイを引っ張り出した。日本を去る前に父がくれた、父と連絡するための専用の端末だった。そのケータイ以外で接触することを、父は堅く禁じていた。芭海たちは互いに、人間社会を綱渡りで生きているからだ。
この別荘から見送って以来、父の声は聞いておらずメールのやり取りすらしていない。芭海は孤独が怖くなかったし、自ら娘と離れることを選んだ父の方から電話を寄越すことも一度だってなかった。
時計を見てスペインの時間を計算し、まだ父が寝ていないことを確かめた。
芭海は急いで父に電話をかけた。出てくれるだろうか。毎日チェックしているが、父の移住先でカニバリストの事件が発覚したというニュースはない。あれほど用心深い父が捕まっていることはありえないはずだ。もし電話に出てくれないとしたら、解体の途中か、もしくはもう芭海を愛していない時だろう。
芭海は8回コールを待った。一度切ろうとしたその時、父が電話に出た。芭海は食い付くように声を出した。
「お父さんっ!」
穏やかで紳士的な父の声が聞こえた。少しだけ懐かしかった。
『久しぶりだね、芭海。僕は君から電話がかかることは無いだろうと思っていた。もう声を聞くことも無いだろうとね』
間違いなく父の口調。元気そうだった。
『でも正直言って、芭海の声を聞けてお父さんは嬉しいよ。それで、どうしたんだい? 何かあったのかな』
「お父さん、聞いて……僕、おかしいの……!」
芭海は父の椅子の背を強く掴んだ。自分が情けない声を出していることも、相手が父ならば気にならなかった。
『声が慌てているね。芭海らしくもない。それと、自分のことは『私』と呼ぶように言いつけたのに、まだ直っていないんだね』
「お父さん、聞いて!」
『わかったよ。言ってごらん。ただ、一万キロ離れた所にいる僕にできることは限られているからね』
「お父さん……」
父はいつだって冷静だ。自分も落ち着かなくてはと思い、芭海は深呼吸した。父は電話の向こうで待ってくれていた。心の整理をしてから芭海は話した。
「ごめん、お父さん」
『いいさ。なんだね?』
「ぼ……わ、私、なんかおかしくて……」
『おかしい?』
「いつもみたいに、女の子を掴まえて……作業部屋で解体しようとしたんだ」
公園でたまたま見つけた子を攫ったなんて言ったら怒られるだろうから、そこは伏せておいた。
「なのに、どうしてかわかんないけど、殺せないんだ」
電話の奥で父が沈黙した気がした。相槌を待たずに芭海は喋った。
「何度もやろうとしたけど、殺せないんだ。体が言うことを聞いてくれない。それに、なんかわかんないけど心臓がバクバクして……しんどくて」
話しているとまた興奮してきた。大きく息を吸い、乱れた呼吸を整えて芭海は言った。
「ねえ、どうしちゃったんだろう私? おかしくなっちゃったのかな? お父さん知らない? ねぇ、病院行ったら治る?」
電話の向こうで父は暫く黙っていた。切れたかと思い画面を見たが、電話は繋がっていた。芭海は「お父さんどうしたの?」と呼びかけた。
「お父さん、聞こえてる?」
『ああ、聞こえているよ。芭海の声は聞こえている』
「ねぇお父さん、僕……私、どうしちゃったの?」
『…………』
少し間を空けて父が訊いてきた。
『その子は、どんな子だ?』
「え? 解体しようとしてる子のこと?」
まずい、行き当たりばったりだったから素性を知らない。芭海は思いつくことを適当に答えた。
「年下の子だよ、たぶん1歳か2歳くらい下。肉付きはあんまり良くないけど、手足の締まりが良くて……」
『顔はどうだい?』
「顔? 味はまだ……」
『見た目だよ』
父の問いの意図を計りかね、芭海は困惑した。あの少女の顔を頭に思い浮かべてみた。胸がキュッとしたのを悟られないように、芭海は話した。
「別に、顔は普通だと思うけど……」
『普通か』
「うん、普通に可愛い感じ。肌はね、綺麗だよ。子供みたいに体温高くて……」
『…………』
「お父さん?」
『芭海、僕が君と離れる前に話したことを覚えているかい』
「え、うん……なんだっけ、僕たちは孤独でいないといけない……だっけ?」
『あとこうも言ったよ。いつか、手にかけることができない……殺して食べることができない相手と芭海は出会うかもしれない、とね』
言われた気がするが、父の話のなかでも特に意味のわからない部分だったので、芭海は聞き流していた。それが? と芭海は尋ねた。
『獲物にできない、食糧だと思うことができない人間に出会った時、どうしたらいいかも僕は教えたね?』
暗い書斎のなかで芭海はかぶりを振った。
「ごめん、覚えていない、お父さん。……もう一度教えて?」
『……芭海、僕らに殺せない人間がいる理由は幾つかある。でも根源にある感情は一つだ』
「?」
『僕は芭海を愛してるよ。親としてね』
「お父さん?」
『芭海は、赤子の時に僕が拾ったと話したのは覚えてるね?』
「うん」
『ショックを受けずに聞いて欲しい。まあ、芭海ならショックになんて感じないだろうけれど』
父の話はいつも回りくどくてわかりづらい。だからこそ今度は聞き逃さないようにしようと、芭海は父の声に耳を傾けた。
『棄てられていた芭海を見つけた時、僕はちょうどいいと思ったんだ。一度、自分好みに育てた人間を食べたいと思っていたんだ。肉付きや味、性格……全て思い通りにしたうえでね』
「ちょっとわかる」
『芭海なら共感すると思ったよ。それで、君を育てることにした』
しかし、芭海は父に食べられることなく生きている。そして今後も、父は芭海のもとに帰る気もなければ食べる気もない。
『でもね、僕は君を食べることができなかったんだよ』
「どうして?」
『5歳くらいの頃だったかな……ある時、気がついたんだ』
「何に?」
一拍の間を置いて、父は答えた。
『僕は君を愛していたんだ』
「……え?」
『育てていくうちに、僕は君に愛情を抱いていたんだ。父親としての愛情を。父性が芽生えていた。だからとても殺すことができなかった』
「?」
父が人並みに自分を愛してくれていることを、芭海は知っていた。それが芭海の抱く悩みと、何の関係があるというのだろう。
父は独白した。『今思えば、気がついたあの時に君を手放すべきだった。そうすれば君は普通の人間として生きられただろう。でも僕は君を娘として傍に置くことを選んだ。君を同じ人種にしてしまうことは明白だったのにね。……もっとも、芭海の才能もかなり僕寄りだったわけだが』
「……ごめん、お父さん。その、愛情云々は知ってるし、嬉しいけどそれが何なの? 僕は別にあの子のお母さんになりたいだなんて思ってないよ?」
『僕のは一例さ。芭海、愛情には種類があるんだ。性愛、自己愛。僕は親としての愛だ』
父は芭海にいくつかの質問をした。
『その子の顔はタイプかい?』
「なに、急に。まぁ嫌いじゃないけど」
『肌に触れてどうだった?』
「どうって……」
『匂いは?』
「好きか嫌いかで答えるの?」
『声は?』
「ちょっと高い声。ねぇ、これに何の意味が……」
『解体しようとしたってことは、服を脱がせたんだろう?』
「うん」
『身体を見た時どう思った?』
「…………」
あの子の艶のある肌や、華奢な肉体を思い浮かべると芭海の顔が熱くなった。電話口で動揺を悟られないようにしながら、芭海は頬に手を当てた。なんで火照ってるのかわからない。
『芭海、その子を前にするとドキドキするかい?』
「っ……どうしてわかるの?」
『その子が好きかい、芭海』
「え? 好きってなに?」
『いいかい、芭海』
父は言った。
『それは、恋だよ』
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