水鶏芭海は考えていた。恋とはいったいなんだろう?
生物が子孫を繁栄するのに必要なのは恋ではない。性欲と生殖機能があれば充分だ。人が恋という概念を得たのは、恋愛感情を引き合いに出して繁殖に臨んだ方が繁栄に効率が良かったからだ。事実、人類は何千年も、そうして世界を創り上げてきた。
恋は脳の、理に適った錯覚に過ぎない。本来必要のない感情だからこそ、異性への愛も同性への愛も、性別を持たない者たちの愛も、生物ですらない物への愛も、自己愛も、全て虚無的な真実の愛なのだと芭海は確信を持って言えた。
だから芭海の恋は本物だ。例え相手が同性であろうと、芭海の捕食対象である人間であろうと、どうせ虚像に過ぎないこの恋慕は、しかし嘘偽りない真実だった。
芭海は心から日ノ出才子を愛している。彼女のためならば何でもできた。この想いに違えることは絶対にない。
芭海がハートフル戦士となった理由はそれだ。最愛の人の傍に在り、彼女のために全てを捧げる。そのためならば、別に興味の無い他のハートフル戦士たちとも協力しよう。ともに戦い、助け合おうではないか。
という覚悟を決め、才子との再会に大いなる期待を込めて芭海は神崎家を訪れていた。既にチームを結成していた神崎千早と鶴来ランというハートフル戦士の少女は、才子とも合流しているといった。そして才子は今、神崎家に居る。
案内された地下の不気味なラボへ、訝しみながらも千早の後を付いていく。本当に才子がこんな場所にいるのだろうか。
才子と再会したら、胸に飛び込むつもりでいた。あの日感じた体温や彼女の匂い、華奢な体躯を抱きしめようと思っていた。
そのはずだったのに。
「これが現在の日ノ出才子だ」
再会を心待ちにしていたのだ。心から楽しみにしていたのに。
千早が指でコツコツと叩いたのは、透明なガラスケースだった。ケースの中には赤黒い液体や、どろどろした固形物が入っていた。
「……………………は?」
何百という人間を解体してきた芭海には、そのケースを満たす汚れた水は血液で、浮かぶどろどろしたものは肉で、白いものは骨であると瞬時にわかった。
だからこそ、千早が何を言っているのかわからなかった。ケースの中の肉片と血と骨を、かつて人間だったものを指して千早は才子だと言った。仮にこれが本当に才子だったとして、それは才子ではなく『才子だった』ものだ。
つまりそれは才子が死んでいることを意味する。
芭海は手荷物を落とした。乾くほど目を見開き、芭海は千早の顔を振り向いた。
「……言ってる、意味が、わからないんだけど……?」
千早はデスクの前にある椅子を回してこっちを向かせ、腰を下ろした。千早にとっては平常通りの、傍から見たら気怠そうな態度で話した。
「今、君の目の前にある血肉が日ノ出才子だ」
「…………は? あ?」
「骨も細胞も全て揃っている。日ノ出才子を構成する全てがそこにある」
「……何言ってんだお前?」
ラボにキュウコやランたちも降りてきた。大人の女性の姿をしたプードルンが、不安げに芭海と千早のことを見た。
眼鏡のレンズをTシャツの裾で拭いてからまたかけ直し、千早は冷静に言った。
「日ノ出才子はストーンホルダーとの戦いに勝利した直後、瓦礫に巻き込まれて肉片になった。それがこの状態だ。今は仮死のまま、保存している」
「…………」
芭海は顔に手をあてて天井を仰ぎ、深く息を吸い込んだ。後ずさると、腰が作業台にぶつかった。ため息を吐きながら俯き、芭海は指の隙間から千早のことを凝視した。
目は血走り、顔を覆う手には血管が浮いていた。自身でさえ聞いたことのない低い声で、芭海は言った。
「殺すぞ、てめぇ」
「キレる前にまずは話を聞け。賢いんだろ?」
芭海は獲物に飛びかかる肉食動物のような素早さで、千早に殴りかかった。キュウコたちがざわめき、プードルンが芭海を止めに行こうと走ったが、到底間に合わなかった。
千早は無関心そうな冷めた目を芭海に向けたまま、肘掛けに頬杖をついていた。態度を崩さない千早を、芭海は容赦なく襲った。
拳が千早の顔に届きかけた次の瞬間、見えない壁に阻まれ、芭海の体は後ろへ撥ね返った。ゴンッ、と何かに激突する鈍い音が鳴った。
後ろへ倒れかかった芭海は、ちょうどプードルンの胸に受け止められた。プードルンが顔を覗き込むと、芭海は意識を失っていた。
「芭海!?」
芭海は額と、千早を殴ろうとした手から出血を起こしていた。額は鈍器で殴られたかのように、早くも腫れていた。
プードルンは目を剥き、千早のことを見上げた。
千早の顔の前にある空間に、透明な亀裂が走っていた。亀裂には微かに血が付いており、その少し上にも、まるで透明なアクリルに付着したかのような血が浮かんでいた。上の血の位置は、芭海の頭と同じ高さだった。
プードルンは察した。「……バリアか、ワン!?」
千早は顔の前にある亀裂に目をやり、呆れたように眉間を寄せた。
「おいおい、ハートフルエナジーのバリアにヒビをつくるとかどんな力だよ……」
千早の前には透明なバリアが張られていた。放出したハートフルエナジーを固形化して発現する、妖精や戦士が扱う高等技術の一つだ。
バリアを解除すると亀裂が消え、浮いていた血が床に落ちた。千早はプードルンの膝の上で昏倒する芭海を見下ろした。
「生身でこれだけ強いなら、変身しても強いってことだな。戦力になるぶんには好都合だ。イカれたカニバリストなことも目を瞑ろう。大した問題じゃないしな」
キュウコは疑問符を浮かべた。
(大した問題じゃない……かキュ??)
千早は椅子を回転させ、デスクに向かうと背中越しにプードルンたちに命じた。
「そいつが起きたら色々聞かせてやらないといけないことがある。上から椅子を持ってきて、縛りつけておいてくれ。大人しく話を聞けるようにな」
千早は死体槽の日ノ出才子を一瞥した。
「必要な人数が揃った。日ノ出才子を復活させるぞ」
読み終わったら、ポイントを付けましょう!